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大蔵

偉大なる村夫子 大澤晩斎先生

 嵐山町大蔵安養寺に大澤晩斎(ばんさい)の墓碑がある。その碑文によって彼の足跡を辿(たど)ってみよう。

 晩斎は1831年(天保2)9月9日に生まれた。通称国三郎、長じて八右衛門と称したが、明治維新後は国十郎と名乗った。晩斎・澤大器(たくたいき)はその号である。

 先ず「小にして学を好み寛山(かんざん)師に就いて経典詩書を学ぶ」とある。彼は11歳で寛山和尚【1814年(文化11)生まれ。菅谷東昌寺、後に広野広正寺住職。筆弟一千有余人】の門に入り、学兄関口東明(現東松山市神戸(ごうど)で私塾を開く、明治になり神戸村戸長を勤める)と共に切磋琢磨して経典・詩文・言語音韻に就いて本格的に学んだ。14歳の時書き写した『聚文韻畧(しゅうぶんいんりゃく)』『両韻辧疑(りょういんべんぎ)』等は音韻に関する辞書で、高等な学識なくしては読むことすら出来ない書冊であるが、彼はそれを現在の中学生位の年齢で筆写解読していた。正に想像を遙かに越した神童的存在であった。

 次いで「壮年にして幾多の児童を訓陶(くんとう)す」とある。則ち晩斎は1852年(嘉永5)、22歳の時、自宅に寺子屋を開設した。1872年(明治5)に閉塾されるまでの21年間に大蔵・鎌形・根岸・将軍沢の村々から88人の弟子が入学し、読み・書き・算盤(そろばん)の初学を学んだ。「学びて厭(いと)わず教えて倦(う)まず」を座右に教導の業に携わった功は注目に値するものと思う。彼は閉塾後も1878年(明治11)には大蔵学校の設立議員となり、1881年(明治13)には、郡立中学校設立議員に、また1882年(明治15)から1885年(明治18)までは比企郡第九学区(菅谷学校・鎌形学校・大蔵学校)の学務委員として学校の設立、運営に尽瘁(じんすい)した。

 続いて「翁また内に家産を整え外に村治に力(つと)む」と記(しる)されている。彼は『論語』学而(がくじ)篇の「行(おこ)ないて余力(よりょく)有(あ)らば、則(すなわ)ち以(もっ)て文(ぶん)を学(まな)べ」*、それは「書物を読むだけが学問ではない。学問とはまず正しい生活態度の実践から」という気構えだったから、学問に耽溺(たんでき)することはなかった。営々として一町歩余の田畑を耕作し、1890年(明治23)の内国(ないこく)勧業博覧会には「糯(もちごめ)」を出品し第三位に入賞した程の力田の人で、農耕に出精する篤農家(とくのうか)でもあった。

 また家人に対する教導も怠(おこた)らなかった。1872年(明治5)、焼失した家屋再建のため十五年の歳月を費やした時、その詳細を『居宅造営簿』に記し、「是則ち家業を勉強せしめん事を欲れは也」と諭(さと)している。又1900年(明治33)、77歳の喜寿の祝の席で、十ヶ条の家訓を書き与えている。その終りに「躬(みづ)から不直にして其子弟を矯(ため)んと欲とも得べからず」とある。親の背を見て子の育つことを喝破した金言である。

 彼はいづれの時にも家を斉(ととの)えるために意を用い、又村政にも力を尽くした。1854年(安政元)、22歳の若さで年番名主となって以来、明治に入っても大蔵村副戸長に任ぜられ、1877年(明治10)の地租改正においては地位等級模範村議員に選任され、近隣14ヶ町村を巡回指導しその査定に当たった。

 1914年(大正3)、「賤を愁(うれ)えず更に福を需(もと)めず。水を楽しみ山を楽しんで等倫(友人)を慕(した)う」と詠い、「心従の躬(からだ)となりぬ花と月」と心のおもむくままに行動しても世の法則からはずれることはなくなったという『論語』為政(いせい)篇にあるような心境に達し、84歳の長寿を全うして4月16日寂滅(じゃくめつ)した。思えば大澤晩斎は教育と行政の黎明(れいめい)期における偉大な指導者であり功労者であったというべきだろう。

 『博物誌調査報告』第7集には大澤晩斎の主著『餘力集(よりょくしゅう)』(大澤知助家文書)の解読・解題と「大澤晩斎略記」、「大蔵の寺子屋」が所載されている。詳細についてはそれらをご覧いただきたい。

*子曰(しいわく)、弟子入則孝(ていしいりてはすなわちこう)、出則悌(いでてはすなわちていたれ)。謹而信(つつしみてしん)、汎愛衆而親仁(ひろくしゅうをあいしてじんにちかづけ)。行有余力(おこないてよりょくあらば)、則以学文(すなわちもってぶんをまなべ)。(現代語訳:老先生の教え。青少年は家庭生活にあっては孝を行ない、社会生活にあっては目上の人に従え。常に行動を謹み、言行を一致させ、世人を愛することに努め、他者を愛するありかたに近づけ。それらを行なって、なおまだ余裕があるならば、古典を学ぶことだ。【加地伸行『論語全訳注』(講談社学術文庫1640、2004年)22頁】)

     博物誌だより95(嵐山町広報2002年6月号掲載)から作成

新編武蔵風土記稿 大蔵村(現・嵐山町) ルビ・注

  大蔵村(おおくらむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字大蔵)

大蔵村ハ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ*1、大蔵郷(おおくらごう)ニ属シ領名(りょうめい)モ亦前村ニ同ジ*2、昔帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)*3ガ武州大蔵ノ館(やかた)ト聞エシハ当所ニテ、ソノ旧蹟(きゅうせき)今ニ存シテ慥(たしか)ナルコトナレバ、久寿(きゅうじゅ)(1154-1156)ノ頃ヨリ唱ヘシ地名ナルコト論(ろん)ナシ。民戸七十余、東ハ根岸村、南ハ将軍沢村(しょうぐんざわむら)、西ハ鎌形村(かまがたむら)ニテ、北ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テヽ千手堂(せんじゅどう)・菅谷(すがや)・上唐子(かみがらこ)ノ三村ナリ。東西八町南北六町、正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃ハ御料所(ごりょうしょ)*4ニシテ検地(けんち)ハ夫(それ)ヨリ前寛永三年*5(1626)(かんえい)アリシニ、後次第ニ新田(しんでん)ノ地開ケシハ万治三年(1660)(まんじ)・寛文八年(1668)・天和(てんな)二年(1682)ノ三度、時ノ代官糺(ただ)セリ。元禄四年(1691)(げんろく)地ヲ割(さい)テ石黒某ニ賜(たまわ)リ、残ル御料ノ所ハ宝暦(ほうれき)十四年(1764)清水殿領地トナリシヲ、寛政九年(1797)再ビ御料トナリ今モ替(かわ)ラズ。
  *1:根岸村と同じで、江戸より16里。
  *2:根岸村と同じで、玉川領に属する。
  *3:源義賢。近衛天皇(このえてんのう)の皇太子時代にその護衛(ごえい)をする帯刀(たちはき)した長官であったのでこのように呼ばれた。義賢は木曽義仲(きそよしなか)の父。源義賢は兄義朝の長男源義平=悪源太義平(あくげんたよしひら)に攻められ討ち死。義賢の子二歳の駒王丸(こまおうまる)は畠山重能(しげよし)、斉藤実盛(さねもり)らに助けられ、長野の木曽谷(きそだに)で成長して後の木曽義仲になる。
  *4:幕府の直轄領。天領。
  *5:雄山閣版(19666月発行)により、寛文三年を寛永三年に訂正。

高札場(こうさつば)*1 二ヶ所 御料私領ノ二所ニ分チ建リ。
  *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 堀ノ内 木ノ宮 御所ヶ谷戸 柏田 入鹿 遠山ヶ谷戸 傾城久保
   地尻 粟津ヶ原 不逢ヶ原トモ云フ

都幾川(ときがわ) 北端ヲ流ル、川幅二百間(けん)*1。
   *1:1間は約1.8メートル。

山王社(さんのうしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、社領十石ハ慶安年中(1648-1652)(けいあん)賜(たまわ)レリ。


○別当(べっとう)*1 安養寺(あんようじ) 天台宗*2 下青鳥村(しもおおどりむら)浄光寺ノ末、大乗山寂光院(だいじょうさんじゃっこういん)ト称ス。本尊阿弥陀(あみだ)ヲ置リ。開山広覚応永元年(1394)(おうえい)草創(そうそう)トノミ伝ヘリ。サレド是等(これら)ニ拠(よ)レバ山王社モ旧キモノナルベシ。
  *1:神社の管理者。
  *2:平安時代に唐の天台山で天台宗を学んだ最澄が帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。


天神社*1
  *1:学業成就(じょうじゅ)・学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祀る。


愛宕社(あたごしゃ)*1
  *1:防火の神。


天王社*1
  *1:疫病(えきびょう)の神。厄除(やくよ)け祈願。


神明社*1
  *1:天照大神を祀る。


稲荷社*1
  *1:農耕神・商売繁盛の神。


諏訪社(すわしゃ)*1 以上安養寺ノ持。
  *1:狩猟・農耕・武芸の神。


神明社 村民ノ持。


向徳寺(こうとくじ) 時宗(じしゅう)*1、寺領十石、慶安(けいあん)二年(1649)ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜ヘリ。相模国(さがみのくに)藤沢*2清浄光寺(しょうじょうこうじ)*3ノ末、大福山無量院ト号ス。開山清阿宝治二年(1248)(ほうじ)四月八日寂(じゃく)セリ。後廃寺(はいじ)トナリシニ向阿徳音中興セリト云フ。此僧ハ天和二年(1682)(てんな)十二月十五日寂セリ、今ノ寺号ハ此僧ノ名ヲ用ヒタルニ似タレド、中興ノ時改メシモノナルベシ。本尊三尊阿弥陀 恵心僧都(えしんそうず)*4ノ作ナリ。
  *1:鎌倉時代に一遍智真(いっぺんちしん)によって開かれ浄土教の一宗派。
  *2:現・神奈川県藤沢市。
  *3:時宗の総本山。
  *4:平安時代中期の高僧源信。


○鐘楼(しょうろう) 鐘ニ元文五年(1740)(げんぶん)鋳造(ちゅうぞう)ノ銘アリ。


○熊野社*1
  *1:国土安泰・延命長寿・無病息災の神。


○稲荷社


古城蹟(こじょうあと) 村ノ西方ニアリ方一町許(いっちょうばか)リ、構(かまえ)ノ内ニ稲荷社アリ今ハ大抵陸田トナレリ、カラ堀及ビ塘(つつみ)ノ蹟(あと)残レリ。此ヨリ西方ニ小名堀ノ内ト云フアリ。昔ハ此辺マデモ構ノ内ニテ帯刀先生義賢ノ館蹟(やかたあと)ナリト云フ。サレド『東鑑(あずまかがみ)』*1ニ義賢ハ久寿二年(1155)(きゅうじゅ)八月武蔵国大倉館(おおくらやかた)ニ於テ鎌倉悪源太義平ガ為ニ討亡ボサルトアリ。此事ハ『平治物語(へいじものがたり)』*2『百練抄(ひゃくれんしょう)』*3等ニモ載(の)せタレド事実ノ詳(つまびらか)ナルコトハ記録ナシ。大蔵ト云フ地名ハ多磨郡(たまぐん)*4ニモアレド、当所義賢墳墓(ふんぼ)アリ、又郡中ニ義賢ニツカヘシモノノ子孫遺(のこ)ルトキハ、此処義賢ガ旧跡(きゅうせき)ナルコト疑フベカラズ。
  *1:吾妻鏡。
  *2:鎌倉時代初期の軍記物語。
  *3:冷泉天皇(れいせいてんのう)から後深草天皇(ごふかくさてんのう)にいたる編年体(へんねんたい)の記録。武家方の「吾妻鏡」と対比される公家方の重要資料。
  *4:源義賢居住の伝承は町田市大蔵や世田谷区大蔵に残されている。


古墳(こふん) 巽(たつみ)ノ方*1村民丈右衛門ガ持ノ畑中ニアリ。相伝フ帯刀先生義賢ガ墳墓(ふんぼ)ナリト。高サ三尺許(さんじゃくばかり)トオボシキ塔ナレドモ半ハ土中ニ埋リ、且五輪(ごりん)*2モ欠損シ其中ワズカニ梵字(ぼんじ)ヲ彫(ほ)リタル五輪ノ内ノ一石ノミ残レリ、ソレニ雨覆(おお)ヒヲナシ注連(しめなわ)ヲ引キ土人*3ハ尼御前(あまごぜん)*4ノ碑ナリトイヘドコレモ定カナラズ。
  *1:南東の方角。
  *2:地輪、水輪、火輪、風輪、空輪からなる五輪塔。平安時代中期から鎌倉期に造られた供養塔。
  *3:土地の人。
  *4:あまごぜ。「御前」は、中世、女性に対して用いられた敬称の接尾語。尼に対する敬称。ここでは源義賢の妻。

神社明細帳 大蔵神社 大蔵村(現・嵐山町) ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字大蔵字御所ヶ谷戸
村社 大蔵神社(おおくらじんじゃ)
昭和二一・一○・一五 法人登録済

一 祭神(さいじん)
大山咋命(おおやまくいのみこと)*1
伊弉諾命(いざなぎのみこと)*2
伊弉冉命(いざなみのみこと)*3
大日渚ク貴命(おおひるめむちのみこと)*4
譽田別命(ほむだわけのみこと)*5
*1:山の神・農業の神。
*2:日本神話に登場する男神。天地開闢において伊弉冉(いざなみ)とともに生まれた。本州・四国・九州等の島々、石・木・海・水・風・山・野・火など森羅万象の神をもうけた。天照大神の父神。
*3:日本神話に登場する女神。伊弉諾命(いざなぎのみこと)の妻。
*4:天照大神の別名。「大日渚ク貴命」と表示されている時は「渚ク」が文字化けしています。
*5:皇統では、第14代仲哀天皇と第16代仁徳天皇の間の第15代応神天皇(在位、西暦270年〜310年)であるが、4世紀末から5世紀初頭の頃在位したとみられる大王。記紀(古事記・日本書紀)では、治世中に多数の渡来人が来て漢字や儒教、養蚕など大陸の文物・技術を伝えた。騎馬民族説では、朝鮮から渡来した征服王朝ともいう。

一 由緒(ゆいしょ) 創立年月不詳。明治四年(1871)中村社届濟
明治四十二年(1909)二月九日境内社三峰社大神宮社八幡社ヲ本社ニ合祀シ鎮座地字宮ノ裡ヨリ当所*1ニ移転シ社号日吉神社ヲ大蔵神社ト改称ス。
大正十年(1921)四月三十日神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)*2ト指定セラル
*1:御所ヶ谷戸。
*2:国家神道の時期に、郷社、村社を対象に勅令に基づき、県令により、県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料(供物料)を供進(きょうしん、ぐしん)された神社。

一 社殿 本殿
一 境内 六百五十五坪  昭和廿三年四月二十日 六五七坪
決 昭和二十四年十月十八日 六五六坪三合七勺
一 氏子 八拾四戸
一 境内神社
八坂神社
祭神 健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)*1
大雷命(おおいかづちのみこと)*2
建御名方命(たけみなかたのみこと)*3
*1:天照大神の弟。
*2:雷神。
*3:日本神話に登場する神。建御雷命(たけみかづちのみこと)、経津主神(ふつぬしのみこと)と共に日本三大軍神の一柱に数えられている。

由緒 明治四十二年(1909)二月九日大字大蔵字宮ノ裡 日吉神社境内社八坂神社雷電社諏訪社ノ三社ヲ合祀シ本社ト共ニ境内神社トシテ当所ニ移轉ノ上社号ヲ八坂神社トセリ

社殿

稲荷神社 祭神  倉稲魂命(うがのみたまのみこと)*1
*1:五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神。

菅原道真公(すがわらみちざねこう)*1
*1:学問の神、学業成就の神。

豊受姫命(とようけひめのみこと)*1
*1:衣食住を司る女神。

火産靈命(ほむすびのみこと)*1
*1:火の神。火除けの神。

由緒 明治四十二年(1909)二月九日大字大蔵字御所ヶ谷戸無格社稲荷神社ヘ字大束無格社菅原神社及字宮ノ裡日吉神社境内社木ノ宮社愛宕社菅原社ノ四社ヲ合祀シ大蔵神社ノ境内神社稲荷神社トセリ

社殿

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2003年5月14日 小川京一郎さん撮影
※大蔵神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1409頁)
大蔵神社

武蔵国郡村誌 大蔵村(現・嵐山町) ルビ・注

 ○大蔵村(おおくらむら)【埼玉県比企郡嵐山町大蔵】

本村古時大蔵郷松山領に属す


彊域(きょういき)*1
東は上唐子・根岸の二村と畦畔(けいはん)*2及耕地を接し、南は将軍沢村と、西は鎌形村と林丘或小逕(しょうけい)*3を界し、北は都幾川を隔て菅谷村と相対す
  *1:土地の境。境界内の土地。領域。
  *2:あぜ。くろ。
  *3:きこりの通る細い道。樵渓、樵径。


幅員(ふくいん)*1
東西六町五十間南北十一町二間
  *1:ひろさ。はば。


管轄沿革
天正十八年(てんしょう)庚寅(かのえとら)(1590)徳川氏の有となり代官之れを支配す、田*1に高百五十七石九斗六升五合とのす。慶安二年(けいあん)己丑(つちのとうし)(1648)十石を山王社 後に日枝に改む 十石を向徳寺に付す。風土記 元禄十二年(げんろく)己卯(つちのとう)(1699)村高を割(さ)き旗下士(きかし)*2内藤豊前・伊奈半左衛門・石黒建三郎に分与す、其後内藤・伊奈二氏の采地(さいち)*3上(あが)りて*4清水家の領地となり、風(ふう)*5に元禄(げんろく)四年(げんろく)(1691)地を裂(さき)て石黒某に賜はり、残る御料の所は宝暦十四年(ほうれき)(1764)清水殿の領地となりしを寛政九年(かんせい)(1797)再ひ御料となり、今も替らすとのす 天保十四年(てんぽう)癸卯(みずのとう)(1843)八月代官支配に復し、十月悉皆(しっかい)*6松平大和守の領地となり明治二年己巳(つちのとみ)(1869)前橋藩に隷し、四年辛未(かのとひつじ)(1871)正月社寺領も亦同藩に入り、七月前橋県と改り、十月群馬県に隷し、十一月入間県に隷し、六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県に属す
  *1:武蔵田園簿のこと。
  *2:旗本。将軍直属の武士。
  *3:領地。知行所。
  *4:領地を返納すること。
  *5:新編武蔵風土記稿のこと。
  *6:のこらずみな。


里程(りてい)*1
熊谷県庁より南方三里三十二町八間
四隣将軍沢村へ六町三十間、鎌形村へ五町五十五間、根岸村へ五町五十二間、菅谷村へ十六町十六間
近隣宿町 松山町へ二里
  *1:道のり。


地勢
南方に林丘を負(お)ひ北方に都幾川を帯(お)ぶ、運輸便利薪炭(しんたん)*1乏しからず
  *1:たきぎと、すみ。


地味(ちみ)*1
色赤黒砂礫(されき)*2を交へ麦桑(ばくそう)*3に適す、時々旱(かん)*4に苦しむ
  *1:土地が肥えているか、いないかの状態。地質の良し悪し。
  *2:砂と小石。
  *3:むぎと、くわ。
  *4:干ばつ。


税地
田 四町五畝二十五歩
畑 三十三町六反五畝歩
宅地 二町三反六畝歩
総計 四十町六反二十五歩


字地(あざち)
大東 村の東方にあり。東西百二十五間、南北百六十五間
地尻 大東の南に連る。東西百五十五間、南北百三十五間
入加 池尻の南に連る。東西百五十間、南北百四十間
小谷 入加の西に連る。東西百四十間、南北二百四十五間
大谷 小谷の西に連る。東西百五十間、南北百七十間
原 大谷の北に連る。東西百八十五間、南北百十間
宮裡 西原の北に連る。東西百九十間、南北八十間
行司免 宮裡の北に連る。東西百九十間、南北百四十間
木の宮 行司免の西北に連る。東西百四十五間、南北百六十間
柏田 木の宮の東に連る。東西二百間、南北百二十五間
堀の内 柏田の東に連る。東西百五十五間、南北百五十間
御所ヶ谷戸 堀の内の南に連る。東西二百間、南北百十間
坊の上 御所ヶ谷戸の南に連る。東西百七十五間、南北百二十間


貢租
地租 米三十八石
    金七十五円
賦金(ふきん)*1 金七十五円
総計 米三十八石
    金百五十円
   *1:賦課金。県税。


戸数
本籍 五十八戸平民
寄留(きりゅう)*1 一戸平民
社 一戸村社
寺 二戸 天台宗一宇 時宗一宇
総計 六十一戸
  *1:90日以上本籍地以外の一定の場所に住所、居所をもつこと。


人口
男 百五十七口
女 百五十八口
総計 三百十五口
他出寄留男一人 外寄留男三人女三人


牛馬
牡(おす)馬十六頭


舟車
荷車一輛 小車


山川
都幾川 深処四尺、浅処二尺、広処六十五間、狹処三十間。急流澄清堤防あり。村の西方鎌形村より来り、東方上唐子村に入る。其間九町三十間


道路
八王子道 村の北方菅谷村界より南方将軍沢村界に至る。長九町三十二間。巾二間
秩父道 村の東方根岸村界より西方鎌形村界に至る。長七町十一間、巾二間
掲示場 村の東口より一町十八間にあり


堤塘(ていとう)*1
堤 都幾川に沿(そ)ひ村の西方鎌形村界より東方上唐子村界に至る。長八町三間
馬踏(ばふみ)*2七尺、堤敷(つつみしき)*3四間。修繕費用大破は官に、小破は民に属す
  *1:堤、土手。
  *2:堤防や土塁の上の人馬の通行する道路。
  *3:堤防の敷地。


陵墓
義賢墓 村の東方にあり高三尺許(ばかり)、源義賢の墓なりと云伝ふ


神社
日枝社(ひえしゃ) 村社。社地東西十五間、南北三十間、面積百七十坪。村の西方にあり、大山咋命(おおやまくいのみこと)*1を祭る。祭日九月十五日

   *1:家内安全、農業振興の神。

仏寺
向徳寺 東西二十七間、南北三十二間、面積千百三坪。村の北方にあり。時宗相模国(さがみ)*1藤沢宿清淨光寺の末派(まっぱ)*2なり。開山清阿、宝治二年二年(ほうじ)(1248)四月八日示寂(じじゃく)*3すと云
   *1:旧国名。現在の神奈川県の大部分。
   *2:えだながれ。末流。末寺。
   *3:高僧などが死ぬこと。

 
安養寺 東西十九間、南北二十間、面積二百八十五坪。村の南方にあり。天台宗青鳥(おおとり)村成就院の末派なり。開山広覚、応長元年(おうちょう)(1311)五月示寂すと云

役場
事務所 村の東方戸長宅舎を仮用す


古跡
城趾 東西一町五十間、南北三町四十間、村の中央にあり遺濠今尚存す。工を鑿(うが)つもの往々古武具を得。帯刀先生義賢(たちわきせんじょうよしかた)*1の居城なりしと云伝ふ
  *1:源為義の子、大蔵に館を構えたが甥の義平に襲われ敗死した。木曽義仲はその子。


物産
米 百一石九斗
大麦 五十六石一斗
小麦 五十六石
大豆 十六石九斗
小豆 八石
生絹(すずし)*1 二百五十疋
  *1:生糸で織った練られていない織物。


民業
男女農桑を専とす

台風6号で増水した都幾川・学校橋 2011年7月

学校橋上流
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正面:大平山、右奥:国立女性教育会館宿泊棟A棟(嵐山町菅谷)

学校橋下流
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都幾川下流の橋:月田橋

2011年7月20日午前10時頃、学校橋(嵐山町大蔵)から撮影

空から見た嵐山町 311 根岸・大蔵 2011年6月

根岸・大蔵
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2011年6月22日、内田泰永さん撮影

A:吾妻神社、B:根岸観音(嵐山町根岸)
C:安養寺(天台宗)、D:大蔵神社、E:向徳寺(時宗)(嵐山町大蔵)
F:学校橋、G:月田橋(都幾川)
H:鞍掛山(東松山市神戸)

空から見た嵐山町 302 大蔵 2010年11月

大蔵
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2010年11月29日、内田泰永さん撮影

A:縁切橋
B:安養寺(天台宗)
C:大蔵神社
D:向徳寺(時宗)
E:根岸観音(嵐山町根岸)
F:二瀬橋、G:学校橋、H:月田橋(都幾川)
I:菅谷館跡、J:国立女性教育会館(嵐山町菅谷)
K:嵐山町役場

古い写真 ホタル狩り 1951年

螢狩り
蛍狩り・1951年(大塚澄子)
1951年(昭和26)撮影

縁切り橋(大蔵) 2005年10月

縁切り橋(嵐山町大蔵)
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※縁切り橋の「縁石」には、明治30年代に作られた橋の一部が使われています。

大蔵自治消防夜警順路 2000年

大蔵自治消防夜警順路 2000年(平成12)
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 ※毎年12月28日〜30日
  巡視1回目:午後9時30分から、2回目:午後10時30分から

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2005年12月撮影 モデル:冨岡寅吉さん

大蔵自治消防夜警当番・順路 1971年12月

大蔵自治消防夜警交番 1971年(昭和46)12月
P1000608
 ※交番:交替で番に当たること。

巡視路略図  1971年(昭和46)12月
P1000609
 ※大蔵自治消防団は22班・85名からなる。

P1000599

P1000605
2005年12月3日撮影 モデル:冨岡寅吉さん

寺院明細帳 時宗 向徳寺 菅谷村(現・嵐山町)大蔵 ルビ・注

埼玉縣管下武蔵國比企郡大蔵村字堀ノ内
 神奈川縣管下相模國藤沢駅清浄光寺(しょうじょうこうじ)末
  時宗(じしゅう) 遊行派(ゆぎょうは)*1
  *1:清浄光寺を本山とする時宗十二派の主流派。

   向徳寺(こうとくじ)
        昭和十七年(1942) 月 日 規則認可
一 本尊 阿彌陀佛(あみだぶつ)
一 由緒 不詳
一 本堂 間口九間(まぐちきゅうけん)
     奥行(おくゆき)七間
一 庫裡(くり) 間口七間 昭和二年三月六日庫裡改築許可
        奥行四間 昭和二年五月十日竣工
一 鐘楼堂(しょうろうどう) 間口壱間三尺
              奥行壱間三尺
一 冠門*1 間口壱間三尺
      奥行壱間
  *1:冠木門(かぶきもん)。門柱の上に横木を渡した門。

一 境内坪数 千二百七坪 官有地第四種
一 境外所有地 昭和廿三年(1948)四月十日 八七七坪六一
      決 昭和二十四年十一月二十五日 九一五坪六合三勺

田反別(たたんべつ) 六歩(ぶ) 大蔵村字堀ノ内
 地價(ちか) 金四拾壱銭弐厘
田反別 壱畝七歩 大蔵村字柏田
 地價 金弐円五拾七銭
田反別 三畝六歩 同村字同所
 地價 金拾八円七拾弐銭七厘
田反別 八畝拾六歩 同村字同所
 地價 金五拾弐円八拾七銭七厘
田反別 三畝三歩 同村字同所
 地價 金七円四拾八銭弐厘
田反別 三畝五歩 同村字同所
 地價 金六円五拾六銭四厘
田反別 壱反八畝拾弐歩 同村木ノ宮
 地價 金百廿六円六拾八銭四厘
田反別 壱畝拾六歩 同村字上川原
 地價 金六円八拾八銭五厘
田反別 四畝拾八歩 同村字下川原
 地價 金弐拾六円九拾四銭三厘
田反別 五畝拾三歩 同村字同所
 地價 金三拾壱円八拾銭九厘
田反別 五畝拾六歩 同村字同所
 地價 金三拾弐円四拾銭五厘
田反別 壱畝廿九歩 同村字同所
 地價 金七円四十三銭六厘
田反別 壱畝弐拾歩 同村字同所
 地價 金八円六拾弐銭九厘
田反別 壱畝拾弐歩 同村字同所
 地價 金八円弐拾壱銭六厘

畑反別 三畝廿八歩 大蔵村字大東
 地價 金八円四拾三銭
畑反別 四畝弐拾歩 同村字同所
 地價 金拾弐円拾三銭三厘
畑反別 弐畝歩 同村字同所
 地價 金四円廿八銭四厘
畑反別 八畝弐歩 同村字同所
 地價 金拾九円拾弐銭六厘
畑反別 六畝廿三歩 同村字同所
 地價 金拾七円五拾九銭五厘
畑反別 壱反三畝八歩 同村字同所
 地價 金三拾七円五拾四銭六厘
畑反別 五畝廿六歩 同村字同所
 地價 金拾六円六拾銭壱厘 
畑反別 六畝拾八歩 同村字同所
 地價 金拾七円拾六銭七厘
畑反別 七畝拾歩 同村字同所
 地價 金拾五円七拾壱銭三厘
畑反別 八畝拾壱歩 同村字同所
 地價 金拾五円四銭
畑反別 九畝三歩 同村字同所
 地價 金拾六円三拾五銭六厘
畑反別 七畝拾五歩 同村字堀ノ内
 地價 金九円拾八銭
畑反別 八畝弐歩 同村字同所
 地價 金拾九円拾弐銭五厘
畑反別 五畝拾歩 同村字同所
 地價 金七円拾四銭五厘
畑反別 五畝廿七歩 同村字同所
 地價 金拾四円
畑反別 五畝拾六歩 同村字同所
 地價 金拾円五拾八銭八厘
畑反別 四畝廿九歩 同村字同所
 地價 金四円九拾四銭弐厘
畑反別 五畝廿五歩 同村字同所
 地價 金拾壱円拾五銭四厘
畑反別 壱反壱畝廿弐歩 同村字同所
 地價 金拾四円三尺六銭七厘
畑反別 壱反弐畝廿七歩 同村字同所
 地價 金三拾参円五拾五銭三厘
畑反別 五畝拾九歩 同村字同所
 地價 拾弐円七銭弐厘
畑反別 壱反壱畝四歩 同村字同所
 地價 金廿壱円廿九銭八厘
畑反別 七畝拾七歩 同村字同所
 地價 金拾壱円八拾七銭三厘
畑反別 四畝七歩 同村字同所
 地價 金四円六拾九銭七厘
畑反別 五畝廿壱歩 同村字同所
 地價 金拾円廿五銭壱厘
畑反別 壱反壱畝廿壱歩 同村字同所
 地價 金拾八円三拾四銭五厘

林反別 七畝廿三歩 同村字小谷
 地價 金壱円拾六銭五厘
林反別 三反拾三歩 同村字大谷
 地價 金四円五拾六銭五厘
林反別 弐畝廿八歩 同村字堀ノ内
 地價 金五拾八銭七厘
林反別 壱反五畝廿九歩 同村字同所
 地價 金三円拾九銭三厘
林反別 弐反四畝六歩 上唐子村字西原
 地價 金三円六拾三銭
林反別 弐反拾三歩 将軍沢村字一町田
 地價 金三円六銭五厘
林反別 弐反三畝七歩 同村字上大谷
 地價 金四円六十四銭七厘
林反別 五畝拾三歩 同村字丸山
 地價 金弐拾七銭弐厘
林反別 壱反九畝拾八歩 同村字三反田
 地價 金弐円九拾四銭

 明治四十一年八月十五日届出ニ依リ改訂
畑反別 六畝三歩 大蔵村字堀ノ内
 地價 金六拾壱銭

 同上
畑反別 三畝拾弐歩 同村字同所
 地價 金三拾四銭

一 檀徒(だんと) 弐百五拾人
一 管轄廳迄(かんかつちょうまで) 拾壱里弐町

   以上

 山林 四反弐畝拾九歩 菅谷村大字大蔵字下
 地價 金弐円拾参銭
山林 壱反四畝三歩 菅谷村大字大蔵字坂下
 地價 金弐円拾弐銭

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

寺院明細帳 天台宗 安養寺 菅谷村(現・嵐山町)大蔵 ルビ・注

埼玉縣管下武蔵国比企郡大蔵村字坊ノ上
 同縣同国同郡下青鳥村浄光寺末
  天台宗山門派*1
  *1:比叡山延暦寺を本山とする天台宗の派。

   安養寺(あんようじ)
一 本尊(ほんぞん) 阿弥陀仏
一 由緒(ゆいしょ) 不詳
一 本堂 間口(まぐち)八間(けん)三尺
     奥行(おくゆき)六間三尺
一 門 間口壱間半
    奥行壱間
一 境内 弐百八拾五坪 民有地第一種 安養寺名受
一 境内佛堂 壱宇(いちう)*1
   薬師堂 本尊 薬師如来(やくしにょらい)
    由緒 不詳
    堂宇 間口二間三尺 奥行三間
  *1:一棟。

一 境外所有地
田反別(たたんべつ) 壱畝二歩 大蔵村字坊ノ上
 地價(ちか) 金弐円四拾七銭九厘
田反別 六畝拾八歩 同村字下川原
 地價 金四拾円八拾九銭七厘
田反別 五畝八歩 同村字同所
 地價 金拾円八拾七銭八厘
田反別 廿五歩 同村字柏田
 地價 金壱円五拾壱銭五厘
田反別 拾九歩 同村字同所
 地價 金壱円五拾壱銭五厘
田反別 三畝歩 同村字上川原
 地價 金拾壱円三拾八銭三厘
田反別 壱畝三歩 将軍沢村字東方
 地價 金六円五銭九厘
田反別 八畝四歩 同村字一町田
 地價 金四拾四円七拾九銭八厘
田反別 弐畝五歩 同村字同所
 地價 金九円六拾八銭五厘
 田反別 壱反拾四歩 同村字同所
 地價 金三拾九円六拾五銭八厘

畑反別 三畝廿三歩 大蔵村字地尻
 地價 金三円七拾四銭九厘
畑反別 五畝四歩 同村字同所
 地價 金三円九拾三銭弐厘
畑反別 壱畝九歩 同村字同所
 地價 金壱円五拾九銭壱厘 
畑反別 三畝拾八歩 同村字同所
 地價 金三円五拾八銭 
畑反別 弐畝三歩 同村字同所
 地價 金弐円五拾七銭
畑反別 弐畝拾歩 同村字同所
 地價 金弐円八拾六銭壱厘
畑反別 九畝三歩 同村字同所
 地價 金九円五銭八厘
畑反別 壱反壱畝拾八歩 同村字坊ノ上
 地價 金弐拾円八拾五銭四厘
畑反別 六畝廿八歩 同村字同所
 地價 金八円四拾九銭弐厘
畑反別 七畝廿五歩 同村字同所
 地價 金拾弐円廿八銭六厘
畑反別 三畝拾六歩 同村字入加
 地價 金四円三拾三銭
畑反別 七畝拾三歩 同村字小谷
 地價 金拾壱円六拾五銭九厘
畑反別 五畝拾壱歩 同村字御所谷戸
 地價 金九円六拾五銭四厘
畑反別 弐畝歩 根岸村字坂上
 地價 金壱円九拾八銭九厘
畑反別 五畝廿歩 同村字道上
 地價 金五円六拾三銭
畑反別 四畝歩 同村字同所
 地價 金六円七拾三銭弐厘
畑反別 五畝拾四歩 同村字川附
 地價 金九円拾九銭五厘

林反別 弐畝拾三歩 大蔵村字地尻 
 地價 金三拾六銭五厘
林反別 五畝三歩 同村字入加
 地價 金七拾六銭五厘
林反別 壱反五畝弐歩 同村同所
 地價 金弐円弐拾六銭
林反別 壱反壱歩 同村字小谷
 地價 金壱円五拾銭五厘
林反別 六畝拾五歩 根岸村字道上
 地價 金壱円六拾弐銭五厘
林反別 壱反四畝壱歩 将軍沢村字三反田
 地價 金弐円拾銭五厘
林反別 壱反七畝拾七歩 同村字大平
 地價 金八拾七銭八厘
林反別 弐反弐畝弐歩 同村字南鶴
 地價 金三円三拾壱銭
林反別 三反弐畝廿弐歩 同村字高城
 地價 金四円九拾壱銭
林反別 壱反五畝拾三歩 同村字同所
 地價 金弐円参拾壱銭五厘
林反別 壱町五畝廿壱歩 同村字同所
 地價 金拾五円八拾五銭五厘
林反別 四畝拾四歩 同村字同所
 地價 金六拾七銭

宅地反別 六畝拾五歩 根岸村字道上
 地價 金拾六円九拾八銭五厘
田反別 五畝拾九歩 将軍沢村字一町田
 地價 金弐拾壱円三拾四銭四厘
林反別 弐畝拾八歩 大蔵村字地尻
 地價 金四拾四銭 

一 檀徒(だんと) 三拾八人
一 管轄庁迄(かんかつかんちょうまで) 拾壱里弐町

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2003年5月14日 小川京一郎さん撮影

嵐山町の桜 向徳寺(大蔵) 2010年4月7日

向徳寺(時宗、嵐山町大字大蔵字掘ノ内)
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2010年4月7日撮影

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