根岸観音縁日(嵐山町根岸) 1963年(昭和38)10月20日
参照:里やまのくらし 10
根岸
武蔵国比企郡根岸村
沿革
1.名称 改称ナシ。
1.所属 枩山領大蔵郷ニ属シ明治五年(1872)二月区名ヲ置キ六大区四小区ト呼フ。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ヲ置キ同十七年(1884)七月比企郡菅谷戸長役場ヲ置ク。
1.管轄 古時未詳。天正年中徳川氏関東ヲ総領シテ寛文八申年(1668)八月代官深沢喜右衛門検地セリ。其后年暦未詳島田錦十郎知行所トナル。代々知行ノ処寛政八丙辰年(1796)十二月嶋田庄五郎知行所ニ轉シ天保十四卯年(1843)九月川越城主松平大和守領知トナル。明治五壬申年(1872)二月入間県ノ管轄ニ轉シ明治六年(1873)六月熊谷県ノ管轄トナリ同九年(1876)九月埼玉県ニ転ス。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ノ管轄ニ属ス。同十七年(1884)七月本村外八ケ村ヲシテ菅谷村聯合戸長役場ノ支轄ナル。
位置彊域
1.位置 比企郡ノ西方
1.東 同郡神戸村山嶺渓澗(けいかん)
1.西 大蔵村耕地及里道ノ中央
1.南 将軍澤村山林
1.北 上唐子村耕地及都幾川中央
幅員
1.東西 三丁五拾五間
1.南北 五丁廿五間
1.周回 廿七丁五間
1.面積 七萬四阡百三坪
地味
1.色 黒・白混ス。
1.質 壚土(ろど、くろつち)三歩真土砂利交リ七分。
1.適種 稲梁(とうりょう)ニ適セス大麦、桑、楮ニ適セリ。
地勢
1.山脈 村ノ西南ニアリテ嶮山(けんざん)ナリ雑木繁生ス。
1.水脈 東北端ヨリ都幾川ヲ帯ヒ南流シテ神戸村ニ至ル。舟通ゼズ筏ニ便ナリ。
1.東部 耕地
1.西部 山林
1.南部 山林
1.北部 耕地
1.全地形勢 東北二方ニ都幾川ヲ沿ヒ西南ニ嶮山起伏連亘シ中央ニ濕田*1アリ、稲梁ニ適セズ。北部*2ニ六分南部*3ニ四分、二分シ人家アリ、其間畑地夛シ。至ッテ低落ノ地方ナリ。最モ川辺真土*4ノ分ハ一般菜園ニシテ美地ナリト雖モ、漸々(ぜんぜん)水害アリ。中央ヨリ西南ノ方ハ嶮山ノタメニ木陰(こさ)掛夛ク至ッテ穀物実法(みのり)悪シ。年トシテハ善地ト云フ。又悪地ト変換スル等ノ幸不幸アリ。
*1:字沼田。
*2:字道上あたり。
*3:字坂上あたり。
*4:砂壌土。
地種
1.官有地 第一段別 四畝廿歩 筆数 二筆
1.官有地 第三段別 一町九反七畝五歩 筆数 十三筆
1.官有地 小計段別 三町一畝廿五歩 筆数 十五筆
1.民有地 第一段別 貳拾貳町九反壱畝廿五歩 筆数 三百十五筆
1.民有地 第二段別 貳反六畝廿歩 筆数 二筆
1.民有地 小計段別 貳拾三町壱反八畝十五歩 筆数 三百拾七筆
1.総計 段別 貳拾六町貳反拾歩 筆数 三百三十二筆
里程
1.元標所在 本村ノ中央字道上
1.本縣庁ヘ 十里廿四町
1.本郡役所ヘ 一里廿三町
1.近驛
東 松山町ヘ 一里廿三町三十七間
西 小川村ヘ 二里拾三町
南 越生村ヘ 二里三十二町
北 熊谷駅ヘ 四里十八丁
1.著名市邑 東京日本橋ヘ 十六里廿二丁
耕宅地及鹽田
1.田 段別 壹町壹反壹畝八歩
筆数 二十九筆
地価 三百五拾三円三十八銭五厘
1.畑 段別 拾町七畝三歩
筆数 百八十筆
地価 千八百廿五円九銭八厘
1.宅地 段別 壱町五反壱畝拾四歩
筆数 十八筆
地価 三百九拾五円七拾九銭七厘
1.総計 段別 拾貳町六反九畝廿五歩
筆数 貳百二十七筆
地価 貳千五百七拾四円廿八銭
字地
1.坂上(さかうえ) 旧字 坂上
段別 壹町九段三畝三歩
筆数 二十八筆
1.道上(みちうえ) 旧字 道灌、田島
段別 四町壱反八畝廿壱歩
筆数 六十六筆
1.沼田(ぬまた) 旧字 沼田
段別 壱町七段三畝拾五歩
筆数 三拾八筆
1.下河原(しもかわら) 旧字 下河原
段別 六町壱畝廿七歩
筆数 六十二筆
1.前山(まえやま) 旧字 仕止山、谷
段別 七町七段壱畝歩
筆数 六十六筆
戸数
1.平民 本籍 拾六戸
内現住 拾六戸
出寄留管 外 内 ナシ
入寄留管 外 内 ナシ
小計 十六戸
1.合計 本籍 拾六戸
内現住 拾六戸
総計 拾六戸
平民
1.本籍 戸主 男拾六人 女〇人 計拾六人
家族 男三拾五人 女五拾四人 計八拾九人
合 百五人
内 現住 百五人 出寄留〇
総計
1.本籍 戸主 男拾六人 女〇 計拾六人
家族 男三十五人 女五十四人 計八拾九人
合 百五人
内 現住 百五人 出寄留 〇
1.合計 男五十一人 女五十四人 計百五人
本籍年齢
五年未満 男七人 女六人 合拾三人
五年以上 男五人 女五人 合拾人
十年以上 男七人 女四人 合十一人
十五年以上 男四人 女九人 合十三人
廿年以上 男三人 女拾人 合拾三人
廿五年以上 男三人 女二人 合五人
三十年以上 男三人 女二人 合五人
三十五年以上 男四人 女四人 合八人
四十年以上 男四人 女一人 合五人
四十五年以上 男二人 女一人 合三人
五十年以上 男二人 女二人 合四人
五十五年以上 男二人 女一人 合三人
六十年以上 男二人 女三人 合五人
六十五年以上 男一人 女一人 合二人
七十年以上 男〇 女二人 合二人
七十五年以上 男一人 女一人 合二人
八拾年以上 男一人 女〇 合壹人
1.総計 男五十一人 女五十四人 合百五人
生死及就籍除籍
1.出生 男三人 女〇 合三人
1.就籍 男三人 女一人 合一人
計 男三人 女一人 合四人
1.死亡 男 壱人 女〇 合一人
1.除籍 男〇 女〇 合〇
計 男一人 女〇 合壱人
牛馬
1.馬 内種 牡拾頭 牝〇 小計拾頭
小計 牡拾頭 牝〇 合計拾頭
1.総計 拾頭
車
1.荷車 大七以上〇 大六以上三輌
1.総計 三輌
神社
吾妻神社
1.所在 村ノ南方字前山 坪数 九十五坪
1.祭神 日本武尊
1.社格 村社
1.創建年月 未詳
1.祭日 九月十九日
1.氏子 十七戸
1.末社 一庵 神明社
1.現住宮司若クハ祠官ノ名 渡辺好雄
道路
松山道
1.等級 里道
1.長 北ノ方大蔵村境ヨリ入東ノ方唐子村境ニ至ル二丁十五間
1.幅 貳間
1.形状 平坦
1.雑項 西平(にしだいら)ヨリ松山町ヘ通ズル里道ニシテ人馬往復繁通ス。従来村民ニ於テ修覆(しゅうふく)ヲ負担ス。
地所 明治九年十二月二十三日調査ノ分
1.官有地 村社 段別 三畝五歩
1.官有地 社地 段別 壱畝拾五歩
1.官有地 林 段別 壱畝廿六歩
1.官有地 芝地 段別 四反九歩
1.官有地 都幾川 段別 三反貳畝拾五歩
1.官有地 溝渠 段別 壱町六畝拾九歩
1.官有地 道路 段別 壱町壱反五畝廿六歩
1.官有地 合計 段別 三町壱畝廿五歩
1.民有地 田 段別 壱町壱反壱畝八歩
畑 段別 拾町七畝三歩
郡村宅地 段別 壱町五反壱畝拾四歩
山 段別 八町四反貳畝廿八歩
芝地 段別 壱町六反六畝五歩
畦畔敷 段別 壱反貳畝廿七歩
墓地 段別 貳反四畝拾歩
斃馬捨場 段別 貳畝拾歩
合計 段別 廿三町壱反八畝拾五歩
1.総計 段別 貳拾六町貳反拾歩
山嶽
吾妻山
1.所在 村ノ南方ニアリ
1.形状 嶺上ヨリ三分シ北ハ本村ニ属シ、東ハ神戸村鞍掛山ニ連ル。西ハ将軍沢村山林ニ連亘ス。頂上ニ吾妻神社ノ村社アリ。
1.高 廿余丈
1.周回 本村限リ七丁三十間
1.登路 一条ニシテ本村前山ヨリ上ル。三丁余ニシテ至ッテ嶮ナリ。
1.樹木 山脈半復以下ハ雑木鬱生ス。中腹以上社内近辺ハ松杉木ノ大樹アリ。
1.景致*1 東北二方ハ都幾川ニ茫シ、東南ノ方ハ同郡神戸村地内字鞍掛山ニ連ル。西ハ将軍沢村ノ耕地ヲ一見シ、北ノ一方ハ本村ノ耕地或ハ人家アリ。西隅ニ本村ノ山林アリ。
*1:景色。
林籔
1.民有地 字坂上 段別 七反貳畝廿四歩 主用 薪炭材
1.民有地 字道上 段別 六畝十五歩 主用 薪炭材
1.民有地 字前山 段別 壹町五畝廿三歩 主用 用材
1.民有地 字前山 段別 六町五段七畝十六歩 主用 薪炭材
合計 段別 八町四反貳畝廿八歩
河渠
都幾川
発源 秩父郡大野村ヨリ発ス
流状 東南ヘ田流シテ水勢緩流ナリ
所属ノ長 四百拾五間 最廣百廿間 最狭八十間
深 最深壹丈 最浅三尺 水質清澄
潅漑 用水ノ便ヲ得ズ
運輸 筏通便ス
物産 鮎魚生ス
雑項 水源秩父郡大野村字鳶巣山ヨリ流水シ、小流ヲ会シテ西方鎌形村地内ニ於テ槻川ト會水シ、北ノ方大蔵村ヨリ入、東南ニ向イ、下流神戸村地内ヘ入。
租税
1.国税
地税金 六拾七円貳拾壱銭壱厘
車税金 壹円五拾銭
牛馬売買免許税金 壱円
1.合計金 六拾九円六拾壱銭壱厘
1.地方税
地租割金 拾壱円九拾銭貳厘
戸数割金 拾円七十二銭八厘
営業税金 四円四銭
雑種税金 一円五十銭
1.合計金 貳拾八円廿三銭
旧租
田高 米 五石壱斗五升壱合
畑高 永 四貫五百七拾貳分四厘
屋敷高 永 三百六拾四文六厘
合計地租 米 五石壱斗五升壱合
永 四貫九百三拾四文七分
綿売出 永 五拾七文七分
大豆代 永 百四拾六文三分
合計 永 貳百四文
旧検地帳表書合計
1.表書 寛文八年戊申七月 日
案内 五郎左衛門 勘左衛門 與五兵衛 孫左衛門 直左衛門
武州比企郡玉川領根岸村御縄御水帳全
深谷喜右衛門
1.合計
上田 三反九畝拾八歩
中田 三反五畝廿歩
下下田 八畝壱歩
上畑 貳町貳反三畝貳歩
中畑 壱町三反七畝廿八歩
下畑 壱町五反四畝拾貳歩
下々畑 九反九畝廿貳歩
屋敷 貳反六畝壱歩
旧検地帳所載ノ字
寛文八年戊申七月晦日
道上 坂ノ下 屋敷際 谷 川原際 道灌 水押 下川原 山下 仕止山 田島 竹際 前畑 沼田 日向 墓ノ際 以上拾六字
物産
米 生産高 七石七斗四升
糯米 生産高 三石三斗六升
大麥 生産高 四十四石六斗九升
小麥 生産高 四十七石二斗五升
粟 生産高 三石六斗
大豆 生産高 十五石四斗五升
蕎麦 生産高 二石四斗七升
甘薯 生産高 百メ目
實綿 生産高 廿七貫二百目
繭 生産高 九石
製茶 生産高 三貫五百メ
楮皮 生産高 廿貫目
民業
農業 十七戸
商業 ナシ
農商兼業 三戸
工業 専業者ナシ
農工兼業 壱戸
雑項 農事ヲ主トスル者十中ノ八農間養蚕ヲ事トス。婦女子ハ紡織ヲ農間業トス
飛地
字蟻塚(ありづか)
1.所在 北方上唐子村ノ内
1.周回 六丁廿間
1.面積 四阡五百七坪
字川附
耕畑 壱町五段七歩
根岸ハ本村ノ東裔(えい)【すえ】ニシテ、西ハ大蔵ニ隣リ、東ハ唐子村河外ノ神戸(ごうど)區ニ續キ、北ハ都幾川ヲ隔テヽ同村河内ノ上唐子(からこ)區ニ対シ、南ハ将軍沢ニ接シ、東西一町半南北二町戸数十四以(もっ)テ一大字ヲ成セリ、斯(この)地々盤【地盤(じばん)=勢力の範囲】ノ世説(せせつ)【世上の風説】ニ曰ク、北方河原ノ幅廣キコト二百間餘リ有ルガ、上(のぼる)ニ南方山根ノ流狹キコト二間ダモ無キニ似(に)ズ、其ガ沿流(えんりゅう)【流れに沿ったところ】処々ニハ皿淵(さらぶち)・女淵(おんなぶち)・袈裟王淵(けさおうぶち)ナドイヘル名稱往々(おうおう)【あちこち】ニ存セリ、是此(これこの)狹流ガ前古(ぜんこ)【むかし】都幾川筋ニシテ如上(じょじょう)【前に言った通り】ノ地盤ガ川北ナリシヲ、中昔(ちゅうせき)【疇昔か、さきごろ】水瀬渝(かわ)【変】リテ、後世地盤ハ川南タリト、武蔵風土記或書ヲ援(ひき)テ「熊谷次郎直實ガ末孫佐渡守實勝六代ノ孫熊谷佐渡俊直武蔵國比企郡根岸村ニ住シ、同國松山ノ城主上田能登守ニ属シ、根岸村及ビ和泉村ヲ知行(ちぎょう)【土地を支配すること】ス」トアリト載(の)セタリ、蓋(けだ)シ【たしかに】小領主小部落ニ住セシ便宜(べんぎ)ヨリ揣摩(しま)【あて推量】スレバ、同方面ノ和泉ナルベシト認案(にんあん)【みとめる】スルヲ然(しか)リトス【その通りである】、乃(すなわ)チ世説桑滄ノ変(そうそうのへん)【桑田変じて滄海となるような大変化、世の変遷のはげしいことをいう】亦所以(ゆえん)【理由】ナキニ非ラザルナリ、且(かつ)文政天保ノ交(まじり)タル百年ノ往代ニ在リテ、十六戸等ニモ註(ちゅう)【かきしるす】セラレシ家数ノ、サマデニ増減ヲ覺エザル如キハ、其里習(りしゅう)【村のならわし】質實静淡自ラ綽々(しゃくしゃく)【ゆったりとしたさま】タル興趣(きょうしゅ)【おもむき】アルベシ
▽根岸村
根岸という地形の特長と名前の由来はすでにのべた。そして大蔵郷に属すとあるので、「大蔵館」の根岸であったかもしれないと想像したが、大蔵村と根岸村の関係では、観音様が安養寺の支配であり、村の鎮守神明社、三宝荒神社が安養寺持となっているから、両村の関係は深いと考えられる。安養寺は大蔵村鎮守山王社の別当をつとめている。いづれにせよこの村が古い開発の地であったことは、字名に我妻山、シトメ山、傾城谷等、昔の人達の意識や生活に結びついていると思われる名前があり、又都幾川の古い流路が残っていて、そこには皿淵・女淵・袈裟王淵などいう伝説めいた地名の場所があることなどから、推しはかることが出来る。
我妻山(あづまやま) 吾妻山山とも書き、前山ともいう。東北の二方は都幾川に向い、東南は神戸村の鞍掛山に連り、西は将軍沢村の耕地を一望し、北の一部は村内の水田、人家を見下ろしている。頂上に吾妻神社がある。祭神は日本武尊であるから、吾妻山の名は、日本武尊の「吾嬬者耶(あづまはや)」の伝説から出たものであることは明らかである。
道潅(どうかん) 松山県道の両側字道上の一部である。珍しい名前である。地元の古老に尋ねたが不明である。道潅といえば、すぐに太田道潅に結びつけたいところであるが、これは無理だろう。地名辞書によると「どうかん」と呼ぶ地名には、東京日暮里に「道閑山」とあるだけである。この道閑山も太田道潅に結びつけて、道潅のつくった城のあとだという説がある。然し新編武蔵風土記稿ではこれを否定して、「大道寺幽山の落穂集追加に、ここは関道閑という人の屋敷蹟であるということを、北条安房守*が聞伝えていた。又谷中の感応寺と根岸村の善性寺は関小次郎長耀入道道閑の開基であって、この人がこの辺を領していたというから、道閑山は関道閑**の住居蹟であることは明らかである。太田道潅が有名なので、近郷、ややもすれば、彼が事蹟に付会するのみ」***といっている。有名な道潅山(道閑山)でもこのとおりであるから、根岸村と太田道潅は縁がないようである。観音堂などと結びつけたい地名であるが、その手がかりが得られない。関道閑に関して同じ名の根岸村が出ているのは奇しき一致である。
*北条安房守氏長(1609-1670)。後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本でオランダ築城法、攻城法、地図学なども学んでいた。地図作製当時は幕府大目付を勤めている。
**関道閑は、江戸付近の土豪。日暮里付近の「道灌山」という地名の由来は太田道灌と関道閑の両説がある。
***『落穂集』は江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐(1639-1730)の1727年(享保12)の著作。徳川家康の出生から大坂夏の陣まで編年体にまとめたものと、家康の関東入国以後江戸時代初期の政治、経済、社会、文化等の各分野のおこりを随筆風に記録し、落穂選集といわれるものがある。
道灌山之事
問云、今時本郷駒込之末に道灌山と申明候有之候、是も太田道灌斎江戸の城居住之節山居なども有之候哉其元にハ如何被聞及候哉、答て云、我等なども左様に斗相心得罷有候所に右江戸大絵図出来献上之前に至り、何れも致拝見候処へ岩城伊予守殿にも御出、江戸御城之噂など有之、伊予守殿久嶋伝兵衛に御尋候は、本郷の末に道かん山と申て有之候、太田道灌屋敷の跡にても有之候哉と尋給ひ候を以、側にて安房守殿御聞あられ、伊予守殿へ御申被成候は、あの道かん山と申ハ関道灌と申たる者の居申たる屋敷跡にて太田道灌とハ違ひ候と御申ニ付、其子細を承度候得共、岩城殿と安房守殿と対談の義故無其儀(そのぎなく)打過、三十年斗以前我等用事有之、毎度彼辺へ罷越ニ付在所之年寄たる者共に出合相尋候へ共、関道灌と申人の名を承りたる義も無之由申候也
館や城に関係して出来た地名に、根岸、ねがらみ、根古屋、寄居、山下(さんげ)などがある。本町では根岸村と杉山村のねがらみの二つがこの例にあたる。
根岸村の本来の意味は「山の根岸の義なるべし」といわれている。根岸と呼ぶ地は大体この地形に一致している。岸というのはもと水際のことである。それが丘の麓まで根岸といって岸が転用されたということは、この土地が比較的新しい開発で、その名が各地に流用し通用したものであることを示している。
つまり人口の増加につれて、谷田のせまい水田では米の生産が不足して来る。そこで麓の沼地や低湿地の泥の溜まって水の退いたところに畔を作って、苗をしつけるようになる。根岸、つまり山の根はそこに家を作りそのような新田を作るのに便利なところであった。そこで誰かが言い出したのであろうが、これがもとで同じような地形で同じような開発をして住みついた人たちがだんだんこれを根岸と呼ぶようになった。そして根岸は一般に通用する地名となったのである。このような根岸が一方に存すると共に、もう一つの根岸が現われた。前述のように荘園が分裂して多くの「小名」が、各自、館を構えて、兵農の根拠とした。その時、その保護の下にある家来や百姓の住んでいたところを又根岸というようになった。館や城は防備の用にも供するものであるから、地形としては土地が高燥で生活に適し、従って展望も開け、前面に平地水田を有し、後方は山に続くという条件の地が一番よい。出来れば先ずこのような地が選ばれたのであろうから、根岸はその地形の一部分になっているわけである。だから館や城の根際となる性格を充分にもっていた。それで根古屋などと同じよ[う]に城下の村であるという観念に固って来たのであろう。「ねがらみ」も又岡の麓にある民家の地であろうといわれている。岡に沿うことをカラム、カラマクといった。越畑の「軽巻」はこのカラマクの転化であろう。城の二つの入口を大手、搦手という。搦手は険阻な山城の裏手から崖を斜めに下る出路である。根搦(ねがらみ)へ下りていくから搦手というのである。
そこで根岸村は、武士の館に関係あったかどうか。館の跡はない。然し「風土記稿」には或書に書いて、従って根拠はハッキリしないが「熊谷直実の子孫で、佐渡俊直という人が、根岸村に住して、松山城主の上田安独斎に属し……」とあるから、この佐渡俊直の館の周辺の地であったため、根岸と呼ばれたか、或は又、「沿革」には、大蔵郷に属すとあるから、例の「大蔵館」の根岸の地であったかも知れないとう想像が出てくる然し推測の範囲を出ない。
「ねがらみ」となると、確実に杉山城の「ねがらみ」であって、城山の麓の民家の地を一時このように呼んだ時代があると考えられる。根岸村と吉田村に「山下」という字名がある。根古屋や寄居によく似た城下の地域を「サンゲ」という地方がある。城山の下という意味である。山下と書くがサンゲと読んでいる。本町の山下もサンゲではないかと一応、村人に訊してみたが、そのような呼び方はしないという。山下(さんげ)は読みにくいので、いつの間にか、山下(やました)と変ったものとも思われないことはない。
- 嵐山町内の小字と同じ小字名がある隣接の旧市町村 1
- 嵐山町の小字と同じ小字名がある隣接の旧市町村 2
- 七郷村誌原稿目次
- 菅谷村の沿革目次
- 菅谷村の沿革(鎌形村)
- 七郷村誌原稿 太郎丸村(神社明細帳) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 太郎丸村(村誌) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 太郎丸村(地籍帳) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 杉山村(社寺明細帳) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 杉山村(地籍帳) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 杉山村(村誌) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 広野村(社寺明細帳・鬼鎮神社) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 広野村(社寺明細帳) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 広野村(地籍帳) ルビ・注
- 七郷村誌原稿 広野村(村誌) ルビ・注
- 市野川羽尾B地区入口・C地区出口 2012年9月18日
- 出水と窮民救済
- 古里に火力飼育による「養蚕伝習所」が生まれる
- 偉大なる村夫子 大澤晩斎先生
- 御用留からみた明治初年の民政
- 官許産婆第一号 嶋崎てつ
- 寺子屋から小学校へ
- 庶民の楽しみ相撲(角力)
- 「三峰紀行草」(1808)にみる菅谷近傍
- 古里村の相給
- 井上萬吉墓誌
- 井上萬吉年譜
- 井上萬吉小伝
- 鬼神宮(鬼鎮神社)をめぐる帰属争い
- 鬼鎮神社の名称の変遷
- 七郷の学校統廃合問題
- 正・副戸長と村政
- 馬場儀平次年譜
- 市川藤三郎と産業組合
- 百年前の年賀ハガキ
- 金泉寺祖舟和尚と筆子塚
- 久保三源次年譜
- 友愛に貫かれた儀平次と三源次の生涯
- 太陽暦と国の祝祭日
- 古里瀧泉寺のこと
- 賃貸された荷車
- 学制の発布と学校の開設
- 金札の発行
- 田幡和十郎の「太郎丸八景」 1828年
- 重輪寺の位牌座争い 1775年
- 通俗巡回文庫始まる 1910年
- 勤皇の志士 奥平栄宜(兵庫)
- 古里の助郷
- 草莽の師 塩村の千野文太郎
- 組頭の罷免 1857年