GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

将軍沢

空から見た嵐山町 264 将軍沢 2003年11月

将軍沢
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2003年11月3日 内田泰永さん撮影

A:明光寺(天台宗)、B:将軍沢農村センター、C:日吉神社(将軍沢)
D:嵐山カントリー倶楽部クラブハウス、E:東鋼工業嵐山工場、F:嵐山町総合運動公園、G:B&G財団嵐山海洋センター(鎌形)
H:槻川橋(槻川)、I:二瀬橋(都幾川)
J:国立女性教育会館

嵐山町の絵馬 将軍沢・日吉神社 5 1918年

将軍沢・日吉神社絵馬 5 男拝み 1918年
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大正七年□月□□日 [   ]岡本□平

嵐山町の絵馬 将軍沢・日吉神社 4

将軍沢・日吉神社絵馬 4 男拝み 年不明
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嵐山町の絵馬 将軍沢・日吉神社 3

将軍沢・日吉神社絵馬 3 高砂 年不明
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敬白 将軍沢村 鯨井[    ]

嵐山町の絵馬 将軍沢・日吉神社 2 1818年

将軍沢・日吉神社絵馬 2 桃太郎 1818年
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奉献納 大願成就 文化十五戊寅年正月吉日
当所 忍田勇七

嵐山町の絵馬 将軍沢・日吉神社 1 1737年

将軍沢・日吉神社絵馬 1 武者絵 1737年
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奉納御宝前 元文二丁巳□月 □衛門
高い所に掲げられているので再調査が必要です。

古い写真 将軍沢・日吉神社 1970年10月25日

日吉神社(嵐山町将軍沢) 1970年10月25日
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日吉神社5web



日吉神社2web

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菅谷村の沿革(将軍沢村)』の日吉神社の項に「社中松ノ大樹鬱葱(うっそう)セリ。伝ヘ聞ク不添ヵ森(そわずがもり)ト云フハ爰(ここ)ノコトナルベシ」と1880年代の社叢林の記述があります。

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境内社の将軍社です。『神社明細帳(日吉神社)』には「当社古記録等伝フル無ク創立年紀詳(つまびらか)カナラス。唯(ただ)古老ノ口碑ニ傳フルハ往古(おうこ)坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人(どじん。土地の人)麦藁(むぎわら)ヲ将軍ニ焚(た)キテ暖(だん)ヲ与ヘリ。其后(そのご)土人将軍ノ功徳(くどく)ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋(おもうに)当社ニ因(よって)テ起リシナラン)御一新(ごいっしん)ニ至リ明治七年(1874)三月当所ニ奉遷(ほうせん)シ将軍社ト改称セリ」と由緒が書かれています。

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空から見た嵐山町 214(更新) 笛吹峠 2010年4月

笛吹峠の桜並木
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2010年4月11日 内田泰永さん撮影

A:笛吹峠駐車場(将軍沢)
B:嵐山カントリー倶楽部クラブハウス(鎌形)
C:東プレ埼玉(日野原工業団地)(ときがわ町玉川)
D:青い鳥福祉会嵐山四季の家(鎌形)
E:嵐山町営鎌形野球場(鎌形)
F:大沼(鳩山町須江)
G:海道端沼(鳩山町奥田)
H:地球観測センター(鳩山町大橋)
I:東松山市クリーンセンター(東松山市神戸)
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     2010年4月7日撮影
※『KLB日記』さんに1972年頃の笛吹峠の写真があります。「当時撮った写真は人物や観光写真がほとんどでなかなか近所の記録を撮ることがなかったので、これは貴重な写真です」とありますが同感です。

※笛吹峠の航空写真(国土交通省の「国土画像情報閲覧システム」)が、HP『日本の廃道』さんの『峠データベース』「笛吹峠」から閲覧できます(1974年、1980年、1984年、1986年、1990年)。
 「航空写真」の欄の「CKT-90-1-C17-11」(1990年)をクリックして、「100dpi」をクリックして全体を確認し、更に「400dpi」にすれば将軍沢の家並みも詳細にわかります。
 笛吹峠の位置は、嵐山カントリー倶楽部の位置を確認して、更に、「送電線の鉄塔位置」をたどればおおよそわかります。
 航空写真は20枚以上見られますが、将軍沢の集落や耕地の様子は、「CKT-74-18-C97-15」(1974年)、「CKT-86-2-C11-11」(1986年)がわかりやすいと思います。いろいろ試してみて下さい。
※国土地理院の『国土変遷アーカイブ』からは、1947年、1948年〜現在までの空中写真が閲覧、購入できます。例えば、1947年10月24日に米軍が撮影した空中写真も見ることができます。

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送電線の鉄塔位置

空から見た嵐山町 7(更新) 将軍沢 2010年4月

将軍沢
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2010年4月11日 内田泰永さん撮影

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2009年6月7日 内田泰永さん撮影

※笛吹峠、将軍沢については、
峠のロマン“論争”尾を引く笛吹峠 1978年」「
武蔵野話 笛吹峠・将軍沢村 1815年」「雪見峠は笛吹峠」 「嵐山町誌128 将軍沢」「昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その1) 関根昭二 1950年」「昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その2) 関根昭二 1950年」「町の今昔 史蹟・笛吹峠 安藤専一 1968年」「町の今昔 ケツあぶり 長島喜平 1968年」「桜の花を訪ねて7 将軍沢のさくら 関根昭二 1981年」「古老に聞く 笛吹峠の記念碑 福島愛作 1962年

空から見た嵐山町 117 将軍沢 2009年6月

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2009年6月7日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 98 将軍沢 2009年12月

将軍沢
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2009年12月16日 内田泰永さん撮影

嵐山カントリー倶楽部武蔵松山カントリークラブ
A:明光寺(みょうこうじ)(天台宗)、B:日吉神社(ひよしじんんじゃ)(将軍沢)
C:安養寺(天台宗)、D:大蔵神社(大蔵)
参照:『KLB嵐山』さん「旧街道・歴史の道の旅」の「鎌倉街道上道

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 坂上田村麿事蹟之記 ルビ・注

菅谷村大字将軍澤字大宮ニ将軍社アリ、即チ往昔(おうせき)平安ノ當初朝野(ちょうや)*1ニ英明嘖々(さくさく)タリシ*2征東将軍坂上田村麿ヲ祭神ト崇敬セルノ先蹤(せんしょう)*3タリ、當社ニ關スル古記録等ハ永禄(えいろく)(1558−1570)兵燹(へいせん)*4ニ失ヒシヨリ其實ヲ傳(つた)フルナク創立年紀詳(つまびらか)*5ナラズト雖(いえど)モ、古老ノ口碑(こうひ)*6ニ據(よ)レバ、往古坂上田村麿将軍東夷(とうい)*7征伐ノ際、近傍(きんぼう)*8岩殿山ニ巨蛇アリテ土地人民ヲ害セリ、将軍其ノ被害ヲ憫(あわれ)ミ一朝(いっちょう)*9之ヲ退治シテ土人(どじん)*10ヲ安堵セシメタリ、時恰(あたか)モ*11盛夏タル六月朔日(ついたちひ)*12ナリシモ、天變雹雪(ひようせつ)*13ヲ降ラシ寒気強カリシタメ、土人麦稈(ばっかん)*14ヲ焚(たき)キ将軍ニ煖ヲ供(そな)エ、其後将軍ノ功徳(くどく)*15ヲ頌(しょう)シ*16之ヲ祭祀(さいし)*17崇敬セリト云フ、今モ尚(な)ホ年々六月(陰暦)一日土人麦稈ヲ焚(たき)テ記念祝祭ヲナス慣例アリテ、比企南部入間北部ノ諸村落ニ及(およ)ベリ、當社古来本村旧字大宮ト唱(とな)フル地ニ鎮座在リテ坂上田村麿将軍大宮権現ト称シ、規模最モ宏壮(こうそう)*18タリシモノニテアリシト云フ(本村元ノ村名及旧大宮ノ地名共ニ當社ニ因(よっ)テ起リシモノ、蓋(けだし)シ*19他説ニ利仁将軍ニ関セル如クアルハ訛(あやまり))維新明治七年(1874)三月ニ至リ當所ニ奉遷(ほうせん)シ将軍社ト改称セリ、以上ハ傳説ニ止マルモ正史ニ於(お)ケル田村将軍ノ忠良仁勇國家ニ大功有リ、威信並存(へいぞん)*20シテ其名聲ノ嘖々(さくさく)タルハ茲(ここ)ニ言フヲ俟(ま)タザル所、獨(ひと)リ當比企入間地方トシテノ将軍ニ慶頼(けいらい)*21シタルノ美談ニシテ苟(いやしくも)モ*22自餘(じよ)*23ノ考證ノ無キ限リハ、本説ハ洵(まこと)ニ*24将軍ノ為メ一部ノ逸史(いつし)*25傳タルヲ信ズ

  *1:天下。
  *2:もてはやし評判すること。
  *3:先例。
  *4:戦争のために起こる火事。
  *5:くわしいさま。
  *6:昔からの言い伝え。
  *7:蝦夷(えぞ)の称。
  *8:近所。
  *9:わずかの間。
  *10:土着の人。
  *11:ちょうどその時。
  *12:月の初め。
  *13:ひょうやゆき。
  *14:むぎわら。
  *15:ごりやく。
  *16:ほめたたえる。
  *17:まつり。
  *18:広く大きく立派なこと。
  *19:まさしく。
  *20:いくつかの事が並び存すること。
  *21:喜び頼りとする。
  *22:もしも。
  *23:このほか。

菅谷村の沿革 将軍沢村(現・嵐山町)

   武蔵国比企郡将軍沢村

沿革
1.名稱 本村ハ利仁将軍ノ霊ヲ祭リシ大宮権現ノ社アルヲ以テ将軍澤ノ名アリ。
1.所属 本村ハ玉川領ニシテ大蔵郷ニ属ス。明治五年(1872)二月大小区名ヲ置キ六大區四小区ト唱フ。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ヲ置キ、同十七年(1884)七月本村外八ヶ村ヲ以テ菅谷村聯合戸長役場ヲ置ク。
1.分合 ナシ
1.管轄 昔時上野国世良田長樂寺ノ蔵セル文書ニ
  武蔵国比企郡南方将軍沢郷内、爲燈明用途田三段、任家時(いえとき)申置之旨、所奉寄進世良田御寺也、若於致違乱之輩者、永可為不孝之仁、仍寄進之状如件。正安元年(1299)八月十一日沙弥静真
  世良田長楽寺為修理用途、奉永代寄進武蔵国比企郡南方将軍澤郷内二子塚入道踪在家壹宇並田三段、毎年所当八貫文事。右、依為代寺、為末代修理、永代奉寄進者也、然者雖及子孫不可致違乱、背此之旨輩者、永可為不孝仁、仍自筆之状如件。元徳二年(1330)八月二日、源満
 義静真ハ世良田三河前司ノ子次郎教氏ノ法名ナリ。満義ハ教氏ノ孫弥次郎満義ナリ。之レニハ古ヘ世良田氏ノ領知ナルコト知ラル。南方将軍沢村ト記セシハ往古郡中ノ南北二ツニ分レシ故ノコトナリト。元禄十一年(1698)村内ヲ割テ大島長門守知行タリ。残地ハ御料所トナリ、宝暦年中(1751〜1764)清水殿御領知トナル後再ヒ御料所トナル。降ッテ天保十四年(1843)癸卯年八月御代官関保右衛門支配セリ。同年(1843)九月廿日武州川越領主松平大和守采地トナル。明治四(1871)辛未年十一月入間縣ニ轉シ、同六酉年(1873)熊谷縣ノ所管ニ代リ、同九年(1876)九月埼玉縣ニ転シ、同十二年 (1879)四月比企横見郡役所ノ管理ニ属シ、同十七年(1884)七月菅谷村聯合戸長役場ノ支轄ニ属ス。

位置彊域
1.位置 比企郡西ノ方
1.東 比企神戸村山嶺及根岸村耕地
1.西 鎌形村山林
1.南 同郡須江村、奥田村山嶺
1.北 大蔵村平林

幅員
1.東西 九町十三間
1.南北 十五町四十一間
1.周回 壹里廿七丁廿九間三尺
1.面積 五十三万七千四百四十四坪

地味
1.色 黒 赤混シ
1.質 壚土(くろつち)
1.適種 早稲小麦ニ宜シ、茶ニ適ス

地勢
1.山脈 東方神戸村鞍掛山仕止山ヨリ起リ草山起伏シテ本村ノ南部ニ来リ。笛吹峠ノ山嶺高ク小シク西部ニ延キテ柴草鬱生。西ヨリ北部ハ一般ニ平坦(へいたん)ノ林地ニシテ樹木雑生ス。
1.水脈 南方鎌形村境ヒ笛吹峠北部梺(ふもと)ヨリ発水シテ、本村字高城ヲ経テ村ノ中央ヲ北ニ向イ、田地ノ間ヲ曲流シテ東方根岸村地内前堀ヲ會シテ都幾川ニ入リ、運輸ノ便ナシ。
1.東部 耕地及山林
1.西部 平林
1.南部 山嶺
1.北部 耕地及住家
1.全地形勢 東方ヨリ南ニ延キ山嶺起シ、南方正面笛吹峠ノ山岳高ク渾(すべ)テ北方傾斜。西部ハ一般平林及村民住ス其間畑地アリテ平坦(へいたん)ノ黒壚(くろつち)ニシテ至ッテ粗地ナリ。北方大蔵村界ヨリ南方須江村界ニ及同郡今宿村ヲ経テ八王子往還ノ里道アリ。平年水旱損ノ悪害夛シ。

地種
1.官有地 第一段別 壱反貳畝拾九歩 筆数 一筆
1.官有地 第三段別 五拾六町七反四畝廿六歩 筆数 七拾六筆
1.官有地 第四段別 壱反五畝拾貳歩 筆数 一筆
1.官有地 小計段別 五拾七町貳畝廿七歩 筆数 九十八筆
1.民有地 第一段別 百廿壱町六反七畝十八歩 筆数 八百廿筆
1.民有地 小計段別 百廿貳町壱反壱畝廿七歩 筆数 八百二十九筆
1.總計 段別 百七拾九町壱反四畝廿四歩 筆数 九百二十七筆

里程
1.元標所在 本村中央字西方
1.本縣庁ヘ 十里二十八丁
1.本郡役所ヘ 一里廿九丁
1.近驛
 東 松山町ヘ 一里廿九丁三十七間
 西 小川村ヘ 二里十二丁
 南 越生村ヘ 二里廿七丁
 北 熊谷驛ヘ 四里三十二丁
1.著名市邑 東京日本橋ヘ 十六里廿八丁

耕宅地及鹽田
民有地

1.田 段別 拾五町貳反六畝廿五歩
   筆数 貳百壹筆
   地価 五千八百四拾貳円三拾九銭三厘
1.畑 段別 九町四反九畝廿七歩
   筆数 百拾八筆
   地価 八百五十壱円九銭七厘
1.宅地 段別 貳町壱畝廿歩
   筆数 二十筆
   地価 三百八拾九円九拾六銭三厘
1.總計 段別 貳拾六町七反八畝拾貳歩
   筆数 三百三十九筆
   地価 七千八拾三円四拾五銭三厘

字地
1.中山(なかやま) 旧字 西方、大谷
  段別 五町六反九畝十三歩
  筆数 三十八筆
1.西方(にしかた) 旧字 芝原、崖崩(がけくずれ)
  段別 七町八反五畝十七歩
  筆数 五十壱筆
1.上大谷(かみおおがい) 旧字 大谷、西原
  段別 九町貳畝廿六歩
  筆数 五拾九筆
1.下大谷(しもおおがい) 旧字 清水、沼向、高城(たかしろ)
  段別 五町九畝拾歩
  筆数 三十六筆
1.八反田(はったんだ) 旧字 大宮裏、反間、前田、落合、熊市、別当
  段別 拾三町六段七畝三歩
  筆数 百三十九筆
1.東方(ひがしかた) 旧字 百八将軍前、山王下
  段別 拾貳町壱反四畝七歩
  筆数 百廿九筆
1.一町田(いっちょうだ) 旧字 焼面(やけっつら)、根岸前、栗狹(くりばさみ)
  段別 九町貳反壱畝九歩
  筆数 九十九筆
1.丸山(まるやま) 旧字 丸山、糟谷
  段別 拾三町七反七畝十九歩
  筆数 五十一筆
1.三反田(さんたんだ) 旧字 坂上
  段別 七町七反五畝十九歩
  筆数 七十一筆
1.田向(たむかい) 旧字 吉田、金糞谷
  段別 四町六段七畝壱歩
  筆数 三十四筆
1.稲荷林(いなりばやし) 旧字 稲荷林
  段別 貳町貳反三畝貳歩
  筆数 廿壱筆
1.仲ノ町(なかのまち) 旧字 段別 仲ノ町
  段別 壱町三段七畝拾歩
  筆数 廿三筆
1.大平(おおびら) 旧字 沼ノ西、巡禮街道
  段別 六町四段九畝廿五歩
  筆数  十七筆
1.坂上(さかうえ) 旧字 観音海道、大沼下
  段別 四町貳反五畝壱歩
  筆数  三十一筆
1.南鶴(なんづる) 旧字 鶴巻、西谷
  段別 壱町壱反八畝八歩
  筆数 十一筆
1.鶴巻(つるまき) 旧字 新林(しんばやし)、観音上
  段別 七町四反九歩
  筆数  六十八筆
1.高城(たかしろ) 旧字 笛吹峠
  段別 九町八反壱畝廿歩
  筆数 三十筆

戸籍
1.平民 本籍 廿戸
   内現住 廿戸
   出寄留 入寄留 ナシ
   小計 廿戸
1.合計 本籍 廿戸
   内現住 廿戸
   出寄留 入寄留 ナシ
   總計  貳拾戸

人口
平民
1.本籍 戸主 男廿人 女〇人 計廿人
  家族 男五十二人 女八十二人 計百三十四人
  合百五十四人
   内現住 百五十四人 出寄留 入寄留 ナシ 以上差引
1.總計 百五十四人
1.本籍 戸主 男廿人 女〇人 計廿人
  家族 男五十二人 女八十二人 計百三十四人
  合百五十四人
   内現住 百五十四人 出寄留〇 入寄留〇
1.合計 男七十二人 女八十二人 計百五十四人 以上差引

本籍年齢
1.五年未満 男十一人 女十五人 合廿六人
1.五年以上 男十一人 女十人 合廿一人
1.十年以上 男八人 女五人 合十三人
1.十五年以上 男六人 女七人 合十三人
1.二十年以上 男四人 女七人 合十一人
1.二十五年以上 男六人 女五人 合十一人
1.三十年以上 男六人 女七人 合十三人
1.三十五年以上 男四人 女三人 合七人
1.四十年以上 男三人 女五人 合八人
1.四十五年以上 男二人 女四人 合六人
1.五十年以上 男三人 女四人 合七人
1.五十五年以上 男四人 女五人 合九人
1.六十年以上 男三人 女三人 合六人
1.六十五年以上 男〇人 女〇人 合〇人
1.七十年以上 男一人 女〇人 合壱人
1.七十五年以上 男〇人 女一人 合壹人
1.八十年以上 男〇人 女一人 合壹人
1.總計 男七十二人 女八十二人  計百五十四人

生死及就籍除籍
1.出生 男三人 女一人 合四人
1.就籍 男〇人 女一人 合一人
1.計 男三人 女二人 合五人
1.死亡 男一人 女〇人 合一人
1.除籍 男〇人 女一人 合一人
1.計 男一人 女一人 合貳人

牛馬
1.馬 内種 牡十三頭 牝一頭 小計十四頭
    外種  ナシ 小計〇
1.總計 拾四頭


 ナシ


 ナシ

神社
日吉神社
(ひよしじんじゃ)
1.所在 村ノ北ノ隅ニアリ 坪数貳百三十坪
1.祭神 大山咋命(おおやまぐいのみこと)
1.社格 村社
1.創建年月 未詳
1.祭日 九月十九日
1.氏子 貳拾戸
1.末社 五社 坂上利仁将軍社 神明社 山神社 稲荷社 愛宕社
1.現任宮司若クハ祠官ノ名 渡辺好雄
1.雑項 社中松ノ大樹鬱葱セリ。伝ヘ聞ク不添ヵ森(そわずがもり)ト云フハ爰ノコトナルベシ。

寺院
堅横山明光寺
(けんおうざんみょうこうじ)
1.所在 村ノ中央字八反田
1.坪数 四百七拾坪
1.宗派 天台宗
1.寺格 比企郡下青鳥村浄光寺末派
1.開基人名 明海
1.開基年月 未詳
1.現住ノ姓名 須田明観
1.雑 医庵院(いあんいん)ト号シ本尊薬師ヲ安置ス

道路
八王子道
1.等級 里道
1.長 北ノ方大蔵村界ヨリ南方須江村界ニ至ル。十六町壱間三尺。
1.幅 貳間
1.形状 北方大蔵村界ヨリ南ニ向イ、五丁廿五間ハ平坦ニシテ、左ニ折レ五十五間ニ高城橋アリ。夫ヨリ平地一丁来ッテ笛吹峠ノ坂路ニ至ル。八丁五十五間ニシテ南方須江村界ニ至ル。

地所
明治九年(1876)十二月二十四日調査ノ分
官有地
1.村社 段別 壱反貳畝拾九歩
1.用材林 段別 壱町貳反六畝拾八歩
1.芝地 段別 拾四町八反四畝拾五歩
1.秣場 段別 三拾貳町貳反五畝拾七歩
1.恵知河【前川のことか?】 段別 八反九畝壱歩
1.池 段別 貳拾歩
1.溜池 段別 九反壱畝拾四歩
1.用悪水路 段別 六反六畝三歩
1.道路 段別 五町九反廿八歩
1.寺院境内 段別 壱反五畝拾貳歩

民有地
1.田 段別 拾五町貳反六畝廿五歩
1.畑 段別 九町四反九畝廿七歩
1.郡村宅地 段別 貳町壱畝五歩
1.林 段別 九十三町貳反五歩
1.萓生地 段別 九反貳畝拾歩
1.芝地 段別 壱反廿歩
1.墓地 段別 三反貳畝拾八歩
1.斃馬捨場 段別 壱反壱畝廿壱歩
1.合計

1.總計
外調査末済ニシテ段別詳ナラズ

山嶽
高城山
1.所在 村ノ南隅(なんぐう。南のすみ)
1.形状 嶺上ヨリ三分シ、南ハ須江村山林ニ属シ、西ハ鎌形村大ヶ谷原ニ連ル。東ハ本村ノ原野及奥田村ノ山林ニ接シ、北ハ本村字高城ヨリ発ス恵知川ヲ帯タリ。
1.高 四十余丈
1.周回 本村限リ廿丁五十間
1.登路 一条ニシテ北方字大ヶ谷ヨリ上ル。六丁二十間ニシテ易。
1.樹木 松、雑木繁生ス。
1.景致 中腹以上岩石多ク柴草ノミ生シ樹木生セス。中腹以下樹木生。東ハ仕止山鞍掛山連リ、其下都幾川ノ流ヲ近望シ、西ノ方上大ヶ谷ヨリ発ス恵智川ヲ帯ヒ、北ノ方不添ヵ森ノ松林ヲ近眺セシム。
1.雑項 伝ニ曰ク。板東十番比企郡巌殿山ニ毒蛇ノ住ナシ近郷ノ民ニ害ヲ偽スコト一方ナラズ。坂上利仁将軍勅命ヲ奉ケ此ノ地ニ発向セシ。此山ニ陣営ヲ布(し)キタルトキ合図ノ笛ヲ吹キシ由、依テ山部中ノ笛吹峠ノ名アリ。

林籔
1.民有地 字中山 段別 五町三段三畝十貳歩 主用 薪炭材
1.民有地 字西方 段別 九段六畝十貳歩 主用 用材
1.民有地 字西方 段別 三町八段六畝十一歩 主用 薪炭材
1.民有地 字上大谷 段別 壹町五畝廿八歩 主用 用材
1.民有地 字上大谷 段別 七町壱反四畝 主用 薪炭材
1.民有地 字下大谷 段別 七反壱畝廿四歩 主用 用材
1.民有地 字下大谷 段別 三町五反九畝廿七歩 主用 薪炭材
1.民有地 字八反田 段別 九反四畝貳歩 主用 用材
1.民有地 字八反田 段別 五町三反七畝歩 主用 薪炭材
1.民有地 字東方 段別 七町七反四畝廿貳歩 主用 薪炭材
1.民有地 字一町田 段別 三町三反壱歩 主用 用材
1.民有地 字一町田 段別 貳町貳反廿六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字丸山 段別 拾三町六反壱畝十三歩 主用 薪炭材
1.民有地 字三反田 段別 五反壱畝十一歩 主用 用材
1.民有地 字三反田 段別 二反六畝十六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字田向 段別 一町二反貳畝廿二歩 主用 用材
1.民有地 字田向 段別 二町八反三畝拾二歩 主用 薪炭材
1.民有地 字稲荷林 段別 壱町三反四畝十六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字仲町 段別 八反三畝十九歩 主用 薪炭材
1.民有地 字大平 段別 三町六反拾六歩 主用 薪炭材
1.民有地 字南鶴 段別 六反貳畝廿歩 主用 薪炭材
1.民有地 字鶴巻 段別 壱町三反七畝十五歩 主用 用材
1.民有地 字鶴巻 段別 四町七反五畝十八歩 主用 薪炭材
1.民有地 字高城 段別 三町二反四畝廿七歩 主用 用材
1.民有地 字高城 段別 六町四反五畝二歩 主用 薪炭材
1.合計 九拾三町貳反五畝五歩

原野
仕止ヵ原(しとめがはら)
1.所在 村ノ東ノ方ニアリ。
1.所属 東ハ鞍掛山、吾妻山ニ接シ、南ハ高城山、笛吹峠ニ連ル。西北ハ本村耕地ヲ帯ヒ。民有ニ属シ、平素村民秣場ナリ。
1.段別 三拾貳町貳反五畝十七歩
1.形状 全原平坦ナシモ小シク北面ニ傾斜ス。中央ニ一条渓間ニ小田數夛アリ。
1.生産 芝草鬱生ス。

河渠
恵智川
1.発源 同郡鎌形村大ヶ谷原ノ北端ヨリ発ス。
1.流状 東北ヘ曲流シテ水勢緩慢。
1.所属ノ長 廿九丁四十間。
1.廣 最廣十余間 最狭三間
1.深 最深四尺 最浅壱尺
1.水質 薄澄
1.潅漑 養水ニ少シク便ス。

橋梁
高城橋
1.所在 村ノ南方
1.長 四間
1.幅 壱間
1.構造 土製
1.架設年月 明治十二年(1879)八月

湖沼
仲町池【大沼】
1.所在 村ノ東ノ方ニアリ。
1.経 縦 南北四十七間 横 東西廿七間
1.面積 九百廿九坪
1.水利 凡田三町七反三畝歩ノ用水ニ供ス。
1.雑項 ナシ

古墳
坂上田村麿墳
1.所在 村ノ中央字八反田ノ山林ニアリ。
1.坪数 八坪
1.形状 三尺許ノ墳ノ上ニ木製ニシテ三尺四方ノ小宮アリ。
1.雑項 昔利仁将軍此地ヲ経歴シタルトキ、此墳ニ息ヘシト。想フニ延暦中巌殿山毒蛇退治ノトキニモアラシカ。将軍ノ美ヲ祭リテ大宮権現ト称ス。明治十年(1877)九月村社ノ地中ニ移ス。

租税
1.地税金 貳百拾円三拾七銭壱厘
1.合計金 貳百拾円三拾七銭壱厘

地方税
1.地租割金 三拾七円四拾九銭四厘
1.戸数割金 拾三円貳拾五銭貳厘
1.営業税金 四円貳拾銭
1.合計金 五拾四円九拾八銭六厘

旧租
1.田高 米三拾七石九升三合 石盛十二、十、八、六 免
1.畑高 永十一貫四百九文七分九厘六毛 石盛 八、六、四、二 免
1.屋敷高 永六百六拾八文二分四毛 石盛 十 免
1.合計地租 米三拾七石九升三合 永拾貳貫七拾八文

旧雑税
1.綿売出 永百三文八分
1.爪木代【つまき。薪にするための小枝。たきぎ】 永百三拾五文
1.合計 永貳百三拾八文八歩

旧検地帳表書合計
1.表書 寛文八年(1668)  案内 源左衛門 彦右衛門 吉兵衛
  武州比企郡玉川領将軍沢村申御縄打水帳
    戊申七月晦日四冊ノ内 深谷喜右衛門
1.合計 上田 壱町五反三畝七歩
  中田 壹町七反八畝廿八歩
  下田 三町壱反四畝廿七歩
  下々田 貳町五反六畝廿五歩
  上畑 貳町四反三畝廿七歩
  中畑 貳町二反一畝七歩
  下畑 六町五反八畝三歩
  下々畑 九町六反二畝廿三歩
  屋敷 五反七畝八歩

旧検地帳所載ノ字
  寛文八年(1688)戊申年七月晦日四冊ノ内  検地役人 深谷喜右衛門
 矢ノ袋 壹丁田 八反田 前田 百八田 落合 薬師堂前 高城 焼面 栗狭 反田 丸山 境 鳴池 中ノ町 孫三谷 鶴巻 薬師堂原 三反田 田向 大平 順礼街道 蟻久保 西ノ原 越生街道 仕止山 入加 山王下 久保 稲示場 トウカ田 山尻 田端 堀間 池尻 屋敷尻 新田ノ下 東裏 浦地 沼端 カゲ下 粟久保  以上四十二字

物産
1.米 生産高 三十五石三斗 輸出地方 比企郡小川村
1.糯米 生産高 廿二石五斗九升
1.大麦 生産高 廿六石九斗八升
1.小麦 生産高 廿一石四斗
1.粟 生産高 九石
1.大豆 生産高 十四石五斗
1.蕎麦 生産高 八石
1.甘薯 生産高 五百貫メ
1.實綿 生産高 廿四メ目
1.まゆ 生産高
1.製茶 生産高 三貫五百メ
1.楮皮 生産高 三十五貫メ

民業
1.農業 二十戸
1.農商兼業 二戸
1.工業 専業者ナシ
1.農工兼業 四戸
1.雑項 農事ヲ主トスルモノ十中ノ八九。男子ハ農間山稼ヲナス。婦女子ハ紡織ヲ業トス。

空から見た嵐山町 6 都幾川右岸(将軍沢・大蔵・根岸) 2009年6月

都幾川右岸(中央・将軍沢)
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2009年6月7日 内田泰永さん撮影

将軍沢ダム対策地区委員会が作られる 1968年

   将軍沢ダム対策地区委員会成立 鯨井軍次氏会長に推される
 嵐山町議会ダム調査特別委員会は、長い間ダム問題の調査研究を重ねてきたが、今後の情勢に対処する上から、本年(1968)四月以降会名をダム対策委員会に切替えて、この対策を進めることとなった。
 ダム対策に関する地区の考え方については、それぞれ多少の観点を異にしている向もあったようであるが、議会対策委は四月以降地区一円の対策委員会を組織して対処することを提案要望して今日に至った。
 七月二十三日東昌寺において開催の集会は右の趣旨によって企てられた第一回の会合で、議会特別委の斡旋の結果、正式にダム対策地区委員会が成立され、幹部役員には次の諸氏が互選により決定された。
     会長 鯨井軍次(将軍沢)
     副会長 長島正平(鎌形)
     〃   金井佐中(大蔵)
     〃   小沢正作(根岸)
     〃   福島和一(将軍沢)
 役員決定のあと、会長を中心にダム対策の基本方針、陳情請願等について話合い、左記について確認した。
 一、生活権確保の面から、ダム建設は絶対反対であること。
 一、請願陳情については、次回対策委員会において詳細に協議して実施すること。

 なお、地区委員会より要望があったので、次に議会ダム調査特別委員会の中間報告を記す。
  報告書
 嵐山町議会は県当局の将軍沢ダム建設構想に呼応して、議会内に将軍沢ダム調査特別委員会を設置し真剣にこの問題を討議研究を続け対処してまいりました。
 発足以来今日に至る調査研究の結果を集約し、特別委員会の中間報告といたします。

1、ダム建設の可能性必要性
 昭和三十八年(1963)県予算に将軍沢ダムの調査費が計上され、三ヶ年間県独自の調査が行われた*。
 続いて昭和四十一年度(1966)より始めて【初めて】国家予算が計上され、昭和四十二年度(1967)は一二〇〇万円の大型調査費の計上となり、本格調査の段階にはいってまいりました。昭和四十三年度(1968)は九〇〇万円の予算要求に対して六〇〇万円の調査費が計上されています。この六〇〇万円の調査費は最終調査のための予算計上であり、四十四年度は実施設計の運びとなり、ダム建設は必至の情況下にあり、将軍沢地区農民の絶対反対の態度とは裏腹に急速にすすめられつつある現況にあります。このような客観的條件を究明してみるに国県としてもこのダム建設を国営事業として推進することは確定的と断定される。このダム建設の必要性は、受益地帯の現状からして農業政策上の観点社会公共性の視点からは、その必要性を認めざるを得ない。

2、関係地主とその現況
 本町関係地主は概ね次のとおりとなる。将軍沢三九名大蔵三一名鎌形三六名根岸一九名その他(町外)となっている。その総面積は一一九、七八五町歩である。(等高線余裕巾一二米、海抜六〇米)これを生活権の上から分析すると将軍沢の地主三九名は予定地域内の農耕地を有し、それにより生活権を確保している者が総てである。その他の地域の地主は山林原野の所有者が多く生活権確保の面から分析する場合これに及ぼす影響は将軍沢部落と大差あることが認められる。この依って立つ基盤の相違からダム建設に対する考え方も大差がある。将軍沢部落の絶対反対の意志は当初より一貫している。他の大蔵根岸鎌形の関係地主は賛否は明言していないが調査は諒承している。この相違は営農上の問題であり、直接生活権の問題と関係することは疑う余地はない。

3、ダム建設の責任の所在
 将軍沢ダム建設の構想は、本町の行政上の問題点としての発想であり得ないことは、町民等しく認めるところでありこの責任は県当局が行財政の両面から全責任をもって対処すべきである。所謂この構想は県の農業政策上の問題点として着眼した埼玉県の米の主産地形成の一環として打出されたものであると解する。この主産地形成の水不足対策の施策であり、国費の調査計上も知事の申請により計上されたものであるので、その責任は県当局にあることは言を俟たない。然しながら県当局は、常に犠牲地区農民の意志を無視し、受益地区農民の側に立った一方的行政姿勢で調査を続けていることは甚だ遺憾であり、問題解決に一歩も前進しておらず、数千万円の調査費の浪費にもなりかねない現状である。
 去る三月五日開催のダム調査特別委員会に要求した県農林部長、関東農政局係官も出席せずその誠意の程が伺われる。県当局の責任は重大である。

4、ダム調査特別委員会の態度と今後の方向
 イ、特別委員会は将軍沢地区農民の意志を尊重する。
 ロ、特別委員会は関係地主と懇談会を開催し意見交換と併せ民心の調査研究を行なう。
 ハ、特別委員会は、民心調査終了後、国、県に対し必要な手段方法により対処の方途を講ずる。(陳情請願等)
 ニ、特別委員会は今後も存続し調査活動を積極的に行なう。
 ホ、将軍沢地区農民と部落との同一歩調の取れるように努力する。
 ヘ、特別委員会は今後の情勢の変化に伴ってはこれを発展的解消し将軍沢ダム対策特別委員会(仮称)を設け、地域住民の権利を守りこれに対処する。
 ト、県農林部長の県議会答弁中に特別委員会誤認の言辞あるは不満であり、正常な行政姿勢であり得ない。
   昭和四十三年(1968)三月十八日
             嵐山町議会将軍沢ダム調査特別委員会 委員長 山田巌
     『報道』186号 1968年(昭和43)7月30日

*1965年(昭和40)3月11日の埼玉県議会での松本幸男県議の質問
 三十七番(松本幸男君) ……(オ)国営のかんがい用水事業として計画している将軍沢ダムについては、すでに一昨年来調査費が計上され、本年度も調査費が計上されているが当該地元の農民は工業開発のための工業用水ではないかという不信をもっているようだが、この点を伺(うかが)いたい。……
  …………
農林部長(伊藤豊夫君) ‐軍沢ダムについては、農業用水事業として推進している。すなわち都幾川筋の四千町歩の水田の用水確保、さらに取水の合理化を目指して現在調査を実行中である。……
     『埼玉県議会史』10巻 1983年(昭和58)3月 1023頁、1028頁

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