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菅谷地区

菅谷村の沿革目次

  菅谷村

  志賀村1

  志賀村2

  平沢村

  遠山村

  千手堂村

  鎌形村

  大蔵村

  根岸村

  将軍沢村

稲村坦元先生菅谷村史原稿

  菅谷志

  志賀志

  平沢志

  遠山志

  千手堂志

  
鎌形志

  大蔵志

  根岸志

  将軍沢志

  畠山重忠事蹟之記


  鬼鎮神社

  流薬師堂

  平澤懐古

  遠山隧道

  木曽家三代事蹟之記

  笛吹峠考

  坂上田村麻呂事蹟之記

東松山市、滑川村からの越境通学問題について(更新) 1 1977年

   区域外就学問題 その経過を町長に聞く
 新学期を間近にひかえて、東松山市上唐子、滑川村【現・滑川町】六軒両地域からの、嵐山町菅谷小学校、菅谷中学校への区域外就学問題が焦点になっています。長い間、通学していた児童生徒になぜそれぞれの地区内の学校に帰ってもらわねばならないのだろう。三市町村当局や、区域外就学児童や、その父兄との約束はどうなっていたのだろう。教育についての法律ではどうなっているのだろう。……日刊紙などにはたびたび記事となっていますが、それだけでは、なかなか経過がつかめず、気になっている方も多いと思います。この問題に対して、報道では、昭和五十年の嵐山町・滑川村・東松山市の間の協定書(後述)に触れた以外は沈黙してきました。これほどこじれると予想しなかったことと、問題が表面化してからは、微妙な問題であるため、扱いによっては予想せぬ結果を生むということをおそれたためです。しかし、ここでひとつの期限を迎えることと、独自の判断ではありますが、状況の固定化ということで、関根嵐山町長、阿部教育長、議会の長島文教厚生委員長、井上副委員長に対して、その概要についてインタビューし、それをもとにここに掲載することになったわけです。一方の側からだけの話という弱味はありますが、これに当たった編集委員としては、協定書、議事録などの文書を参考にしながら、客観的事実関係をはずさないように、細心の注意をはらったつもりです。そのためもあり、ただ、問題の時間的流れと背景についての掲載にとらわれすぎた面はありますが…………。

三月七日(月)
場所 嵐山町役場応接室

  区域外就学のはじまった時期と背景、それからその当時の行政ベースでの了解事項がありましたらまずお聞かせください。
町長 ずっと以前から東松山市及び滑川村からの嵐山の小中学校に、ある程度の数が寄留をして通っておったのですが、ただ寄留では気の毒だということで、まず昭和三十年代から滑川村と協議をして正式に行政ベースに乗せた上で受け入れるようにしたのです。
 そういう際の文書には、いつでも嵐山の施設や設備の都合で受け入れを許すことができない場合にはお断わりしますよという一項がついています。たとえば昭和四十五年(1970)三月一日に私及び嵐山町教育委員長と滑川村長及び同教育委員長との間で取り交わした協議書には、「甲(嵐山町側)は、就学すべき当該学校が施設整備、その他の関係で就学させることが困難な場合は、保護者の申し出に対し承諾を拒否できるものとする」−来たいと言っても拒否できますよという一項が入っています。
 だから区域外就学の背景となった理由は、こっちが欲しいから来てくれと言ったのじゃないのです。にせ寄留をやって隠れた形であるから、これを正規の行政ベースに乗せてやっていこうじゃないかということで、学校教育法施行令九条の区域外就学によってやってきたというのが事実です。

  そうすると、新聞等に昭和三十年ごろの教師の確保や学級増を目的に菅谷村が入学を勧誘したというようなことが出ているのですが、この点についてはどうですか。
文教厚生委員長(以下「委員長」という) 昭和五十年(1975)三月十三日の定例議会で町長は議員の質問に答えて
 「お答えいたします。御指摘になりました問題は、今度の協議の最中にもこのような論法が出てまいりました。嵐山はかつて学級数が足りないときにうちの方から引っ張っていって学級編制をしたじゃないか、急にここへきてばっさり切るということは無慈悲であるというお話がありました。
 私の方は、当時、教育委員会並びにその後の村長、町長としての経験で申しますと、少なくとも行政機関がそのような措置をとったことは一度もありません。これは明言できます。ただ担任の先生あるいは学校長さんが懇意なところへ行ってひとつ来てくれないかというようなことがあったやに聞いています。その程度でございます」と述べています。
町長 それが事実です。強いて言えばそういうことがあったのではないかなという程度です。行政ベースじゃ全然ないです。

  そうした経過をたどるうちに二年前に協定書を取り交わして区域外就学者にそれぞれの市と村へ帰ってもらおうということになった理由は何ですか。
教育長 昭和四十五年ごろからの児童生徒数の急激な増加(現在菅小は四十五年の約二倍になっている)で嵐山町の実情が受け入れ困難になってきたということが第一番目です。
 それともう一つは、学校教育法施行令第九条の区域外就学という制度、教育委員会同士の協議書によってずっと受け入れてきたのですが、やはり学校教育法第二十九条に基づいて自治体の責任でもとの姿へ戻そうということが第二番目です。
 この二点で教育委員会とすれば協議を始めたということです。
町長 いまの点がまず基本です。もっと言うと、生徒の急増が見込まれて、適正規模以上の水準になってくると将来学校を分離しなくちゃいかぬ、約百七、八〇名もの大ぜいの人間を委託を受けてやっていることが、新しい財源を見つけて学校をつくるという行動に対して住民から抵抗がある、これを整理をしてからでなけりゃ新しい学校もできないのではないかというのが、昭和四十九年ごろの議会の意見だったわけです。
委員長 菅小、菅中ともあらゆる面が飽和状態であるという観点から、よそから来ている方はお断わりするよりほかはないのじゃないかということが議会からも出るし、特に監査委員から指摘されていると思います。

  そこで協定書作成ということになるわけですが、また、それまでにどのような交渉があったのですか。
町長 いま言った考え方を背景に、相手(東松山と滑川)に当たったところ、相手が同意して、三つの教育委員会同士で相当長期にわたって研究がなされたわけです。
 それから、もしかりに多数の児童生徒を受け入れるならば、教委同士の協議による区域外就学の事務の扱いで処理することは好ましくない、これは学校教育法第三十一条の事務委託にして三市町村の議決を必要とする方法にすべきだという主張がうちの議会から出ていたのです。
教育長 そこで、議会の皆さん方もご承知のほうが町民もよく理解していただけるということで五十年(1975)の三月議会で事務委託という議決事項になったわけです。少し経過を詳しくご説明しますと、それまでの教委同士の協議書の更新時期が二年ごとだったのです。で、ちょうど四十九年(1974)の三月が滑川が更新時期(東松山は五十年三月が更新時期)だったので、四十九年一月から滑川の教委と協議を始めたのですが、三月が目前だったので協議書の更新時期を一年延ばして、東松山と更新時期を同じにしたのです。また、東松山の教委にも四十九年の七月に嵐山の実情をご説明して協議を開始したのです。ところが四十九年の十二月の定例議会において先ほど町長の申した区域外就学については議決事項にすべしとの声が起こり、三市町村の教委である程度煮詰めたものを三首長と三教育長で最終的に五十年の三月一日に合議して規約をつくり上げたというわけです。そしてそれがそれぞれの議会で議決されていわゆる協定書が作成されたのです。
町長 大事なポイントはそこなのです。何も嵐山が案をつくって、これでどうだと一方的に通告したのじゃないのです。東松山と滑川がうちの実情と将来展望に同調して、約半年以上にわたって対等な合議をして最終的に合意に達したのが五十年四月一日から施行されている「滑川村・嵐山町教育に関する事務の委託に関する規約」(東松山市との間にも同趣旨のものがある)です。この協定書の特色は、五十二年三月三十一日で一応全部それぞれ関係の市と村へ引き揚げる、ただし、中学二年生については受験の都合もあるから卒業まで結構ですということです。また、この委託事務の実施期間を二年にしたのは、その二年間が受け入れ側の市と村の行政的な準備と当該住民の心理的準備を含めた準備期間だということなのです。  【つづく】
     『嵐山町報道』265号 1977年(昭和52)3月30日

※『嵐山町報道』に7頁にわたって掲載された菅谷小学校、菅谷中学校への東松山市上唐子(かみがらこ)と当時は村であった滑川町六軒(ろっけん)からの「区域外通学」(越境通学)問題特集を掲載する。
※現在の嵐山町外から嵐山町内の小・中学校に就学する区域外就学制度については、嵐山町HP「くらしの情報 教育」、「指定校変更と区域外就学について」(pdf)を参照。

東松山市、滑川村からの越境通学問題について(更新) 2 1977年

  協定書があり、また二年間の準備期間というものがおかれたにもかかわらず、なぜ理解が得られなかったのですか。
町長 ですから、両方の市と村がそれぞれに努力をなさったと私は思っているわけです。特に滑川などは何千万もかけて歩道をつくっている。そのように対応策を、よそのことですからあまりくわしくはわかりませんが、努力をしていらっしゃると思います。東松山については議会で調べてあるのでは。
委員長 調べてありますから、のちほど委員会の経過のときに。

  東松山や滑川の父兄の働きかけはどのような形でなされましたか。
町長 結局、請願ということですが、これは議会の方から。
委員長 五十一年九月二十四日の受付で、上唐子地区より嵐山地区への地域外通学に関する請願が来ております。(資料参照)

  これに対して、東松山・滑川両当局の動きというものはありましたか。
町長 議会が請願書を委員会に付託したわけです。その間に、滑川も東松山もこの問題が協定とちがう形になればよろしくお願しますということはいわれていますが、議会で審議中であり口を出すべきことではないという考えを持っていたわけですから、何も申し上げられないということでした。

  請願の審議過程についてお話を願いたいのですが。
委員長 東松山市上唐子地区の父兄からの請願に対しまして、昭和五十一年第三回定例会の最終日の九月三十日に、本会議で当委員会に調査が付託されました。
 そこで、十月二十一日第一回委員会を開き、紹介議員から趣旨説明を受け、これに対する質疑を行うとともに、教育長の経過説明を受けました。
 十一月十三日には、別の件で委員会を開いたあと協議会を開きました。
 十一月二十九日は、午前中、学校施設調査特別委員会と連合審査を行い、午後第二回委員会を、協議会にきりかえたあと東松山市教育長、担当課長の出席を得て話を伺いました。
 十二月七日第三回委員会、十二月十日第四回委員会を開き、結論をすぐ出すかどうか長時間協議した結果、継続審査とすることに決定し、十二月十七日開かれた町議会第四回定例会にその旨を申し出ました。
 本会議では、次の議会までという条件づきで当委員会に再び付託となったわけです。
 また、この議会では、滑川村六軒地区より、区域外就学を認めて欲しい旨の陳情があったわけですが、本会議で不採択となっています。
 五十二年(1977)一月十九日、この件についての第五回委員会を開き、教育長、そして町長への質疑が終了した段階で、請願撤回の申し出があり、同時に上唐子地区区域外通学対策協議会名で町議会議長あてに要望書が出されました。そこで当委員会としては審議を停止したわけです。
 この撤回申し出は一月二十五日に開かれた臨時議会で正式に承認されました。
(この一月十九日の委員会の様子は資料を参照ください。)
委員長 また、十一月十三日の協議会で決定しました事にしたがいまして、東松山市の当局者の出席を求めますために、正副委員長で東松山市を訪ねた時に伺ったんですが、先ほどの、地元の理解を得るということで、東松山当局の対応は次のようであったということです。
 昭和四十九年(1974)五月十八日、五月二十一日、六月十八日、八月十日、八月十四日、八月三十日に地元代表者との会談、十二月四日には全体との会談を行い、昭和五十年(1975)には三月十九日に地元代表者との会談一回を行っています。昭和五十一年(1976)に入って、三月二十六日、五月二十七日、八月二十一日、八月二十二日、九月九日、九月十七日に地元代表者との会談を行っているという話でした。

  一月二十五日の臨時議会で請願撤回が承認された後、嵐山町と東松山市並びに滑川村との間で何か交渉が持たれたのですか。
町長 五十二年一月二十六日、二月一日、二月八日の三回にわたって、東松山市の教育事務所で、教育事務所長の立ち会いのもとに区域外就学問題に関する三市町村長並びに同教育長による六者会談が持たれ、そこでいろいろ話し合ったわけです。特にその第一回目の会談で東松山市より受け入れ態勢(校舎整備、通学路整備等)が不十分だから区域外就学期間を一年延長してほしいとの要望があったのです。(なお二月四日には東松山市長から嵐山町長あてに「区域外就学期間延長について」の依頼書がいる)それに対してうちとしては、協定書の変更は議決事項だから、議会に提案するには上唐子の父兄の一年後には東松山市に児童生徒を送り込むという誓約書か何かをつけてもらわなければ議会に提案できないと言ったのですが、第二回目の会談のときに東松山市としては努力したが誓約書はとれなかったということだったわけです。また、嵐山町内でも住民運動が起こってきている。それから一年延期することによってまじめに準備した自治体が非常な混乱を起こすということも言ったのです。
 それから二月二日にうちの議長並びに常任委員長が集って全議員の区域外就学に対する考えをまとめた結果、約七割の議員が協定書どおりにやれとの意向であったという報告を私は二月三日の朝に受けています。また二月七日にうちの議会の全員協議会を開いて、前期の東松山市長からの依頼文の説明とそれまでの経過報告を行ったわけです。そして最後の六者会談に臨んで、うちとしては前述のような諸種の条件を考えると、せっかくの東松山市のご要望ではあるが、受け入れるわけにはいかないといくことを言ったわけです。それに対していろいろな意見を出し合った末、これ以上嵐山を苦しめることはないだろう、協定書どおりにいくべきだという結論に達して、それを三者の覚書という形で文書化したのです。それでこの問題については各自治体とも相当どろもかぶるしきずもつくが、とにかく協定書の方向で努力しようということを誓い合って別れたのです。

  それから三月二日に上唐子地区地域外通学対策協議会から区域外通学一年延長の確認を求める要望書が提出されたということが新聞に出ていたのですが、町長はそれにどのように対応されたのですか。
町長 私は、要望書に指摘されているようなことはなかったのですが、とにかくそれに対して三月三日に、指摘されるような合意は成立してないので確約する根拠がないという回答書を出したわけです。
(確認要望書及びそれに対する町長の回答は資料を参照ください。)

  嵐山町内で起こっている住民運動の動きを知っておりますか、その動きと東松山の運動に影響をされることはありましたか。
町長 そのような動きは具体的にはわからないが、それによって嵐山をこれ以上混乱させてはならないということが私の決定に影響したろうと思います。
 それから、いわゆる両サイドの動きにはどっちにしても影響されたということですね。同時にまた、うちの議会の皆さんの非公式な意見だけれども、約七割の議員が協定書どおりにやれという意向であるということも影響したと思います。そういう動きがあってなお混乱するなら原則どおりだと、物事というのは混乱してくれば決まったことをやるしかないだろう。この上に変化を求めることはできないだろうということです。

  この問題に対する町長の基本的な考え方と今後の対応について、最後にお聞かせください。
町長 第一に、私にとっては全てが正しく伝えられているとは思っていない。しかし、新聞等を通じ何回も報道されて、住民の皆さんが不愉快な思いとご心配をなさっているであろうと想像して、この点は本当に申しわけないと思います。
 それから第二に、しかしながらこのような事態に対して今後の進め方としては、議決された協定書に盛られた内容を一貫して実現することに向けていく以外にないと、まあ何が起こってくるかわからないことでありますが、まずそれが基本線です。
 それと第三には、これは決して嵐山が一方的な通告をしたというものじゃありません。すべてが三者、三市町村の合意事項で行政ベースでは今日まできておりますので、ぜひとも合意された事項については東松山市も滑川村も全力を挙げて対応するようにご努力を願いたい。私の方も応援−応援というか、なすべきことがあればなしてまいります。
 それと第四は何といっても長い間の歴史、流れをここでその方向を変えるわけです。二年の準備期間があったといっても、長い間の歴史といいますか、通学という流れを変えることでありますから。住民の方々、特にこの区域外就学の児童や生徒並びにその父兄も大変だと思いますが、手順を踏んで今日まで積み重ねてきたことでありますから、ぜひ決められてあることをお守りいただけるようご努力を願いたいと思います。
 ぜひ町民としては正しく実態を知っていただいて、正しいご理解をいただきたいということだけは申し添えておきます。

  本日は、どうも長時間ありがとうございました。
     『嵐山町報道』265号 1977年(昭和52)3月30日

※『嵐山町報道』に7頁にわたって掲載された菅谷小学校、菅谷中学校への東松山市上唐子(かみがらこ)と当時は村であった滑川町六軒(ろっけん)からの「区域外通学」(越境通学)問題特集を掲載する。

東松山市、滑川村からの越境通学問題年表(更新) 1977年

   現在までの経過
昭和30年(1955)頃 東松山市上唐子地区、滑川村六軒地区の児童生徒の一部が、嵐山町に寄留の形で菅谷小中学校に通学

昭和32年(1957)2月18日 菅谷村長、教育委員長と東松山市、滑川村の首長、教育委員長の間で「学齢児童生徒の教育事務委託に関する契約書」を交わし、行政措置で区域外よりの就学が行われることとなる。

昭和45年(1970) この頃より、菅谷小学校の就学児童の急激な増加が始まる。昭和50年(1975)までの5年間でおおよそ倍にもなっている。

昭和49年(1974)1月 嵐山町と滑川村の間で、議会の議決を経る委託に関する協定書作成という方向で、受入の期限も含めて協議を始める。

昭和49年(1974)7月 東松山市とも協議を開始。

昭和50年(1975)3月1日 六者(嵐山町、東松山市、滑川村の首長、教育長)会談で、今後のスケジュールについて打合わせ。

昭和50年(1975)3月 それぞれの議会で協議書を可決。

昭和51年(1976)9月24日 上唐子地区より嵐山町議会に請願書。この件は30日に文教厚生委員会に付託とされた。

昭和51年(1976)12月17日 嵐山町議会第四回定例会で前記の請願は期限つきで継続審査となった。また、六軒地区より陳情が出されたが、本会議で不採択となる。

昭和52年(1977)1月19日 第五回文教厚生委員会。請願者から請願撤回の申し出があり、審議は停止となる。

昭和52年(1977)1月25日 臨時議会で撤回を承認。

昭和52年(1977)1月26日 東松山地方庁舎で関係市町村の首長、教育長会議。
 町内では、菅谷を中心に、期限延長反対の住民運動が始まる。

昭和52年(1977)2月4日 東松山市長より期限延長の依頼文書。

昭和52年(1977)2月8日 六者会談の結果、三市町村長による協議どおりの実施の覚書。

昭和52年(1977)3月2日 上唐子地区より、一年期限延長の確認要望書出され、翌日嵐山町長の回答がなされた。

昭和52年(1977)3月20日 『嵐山町報道』第265号に「区域外就学問題 その経過を町長に聞く」、「区域外就学関係資料」が掲載される。

昭和52年(1977)4月8日 東松山市上唐子地区父兄と児童146名の東松山市教育委員会への「東松山市唐子小学校、南中学校への入通学校指定処分取り消しを求める訴え」、浦和地裁で決定が出る。これをうけて嵐山町では、東松山市上唐子地区と滑川村六軒地区の菅谷小学校通学児童のうち、四年生、五年生、六年生は卒業まで受け入れを継続することとした。

     『嵐山町報道』265号、266号 1977年(昭和52)3月、6月

東松山市、滑川村と越境通学問題の協定書が結ばれる(更新) 1975年

   東松山市嵐山町教育に関する事務の委託に関する規約
(委託事務の範囲)
第一条 東松山市(以下「甲市」という。)は甲市上唐子(上北原地区、西原地区及び上原屋敷地区の一部)に住所を有する小学校及び中学校の学齢児童生徒のうち、嵐山町(以下「乙町」という。)の小学校及び中学校に入学を希望する者の教育に関する事務(就学に関する事務を除く、以下「委託事務」という。)を乙町に委託する。
(管理及び執行の方法)
第二条 前条に掲げる委託事務の管理及び執行については、法令に別段の定めがあるものを除くほか、乙町の条例並びに乙町教育委員会の規則及び規定の定めるところによるものとする。
(経費の負担)
第三条 委託事務の管理及び執行に要する経費は、甲市の負担とし、乙町にこれを交付するものとする。
2、前項の経費の額は小学生一人年額一万円、中学生は一人年額二万円とする。
(連絡会議)
第四条 乙町長は、委託事務の管理及び執行について連絡調整を図るため、必要に応じ甲市長と連絡会議を開くものとする。
(委託事務の実施期間)
第五条 委託事務を実施する期間は、昭和五十二年三月三十一日までとする。但し昭和五十二年四月一日に中学校三学年に進級する生徒に係る委託事務に限っては昭和五十三年三月三十一日までとする。
(その他)
第六条 甲市及び乙町は、委託事務の実施に当って、偽りの住民登録等による不正な就学の防止に努めなければならない。
第七条 前条の趣旨に反してその事実が発生した場合には、直ちにその者に係る委託事務を中止するものとする。
   附則
 この規約は、昭和五十年四月一日から施行する
     『嵐山町報道』265号 1977年(昭和52)3月20日



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   六軒地区52年度から宮小、滑中へ
            嵐山町と −話合い決まる
 これまで、嵐山町に近い六軒地区の小中学生は、通学の条件や地元の要望などによって、嵐山町と村との話し合いで菅谷小学校や菅谷中学校へかよっていました。
 しかし、近年嵐山町でも地産団地などができたため人口の増加がいちぢるしく、滑川から通学する生徒の受けいれが困難になっていました。
 このような事情により、一昨年嵐山町教育委員会から「区域外からの入学を引き受けることはこれ以上続けられないので、六軒地区の児童生徒も滑川村の学校へ行くようにしてほしい」ということが、嵐山町の教育委員会から村の教育委員会へ申しいれられました。
 村では、生徒や父母の希望をできるだけいれるように努力し、嵐山町と話し合いを続けてきましたが、嵐山町の学校はすでに子どもたちの収容能力の限度に達しており、最終的には昭和五二年度から小中学校の児童生徒に村の学校に通ってもらうなど、次のように決まり、地元のみなさんにご了承をお願いすることになりました。
一、昭和五十年度、五十一年度の二ヵ年は現状のままとする。
二、昭和五十二年度に小中学校児童生徒全員を滑川村立小中学校に引受ける。
三、昭和五十二年度中学三年生(現在小学六年生)だけは嵐山町で引続き委託を引受ける。
     『広報なめがわ』80号 1975年(昭和50)2月10日

※滑川町六軒地区の世帯数増加の背景には、東武東上線開通により武蔵嵐山駅(当初は菅谷駅)が開業したことや、菅谷小学校、中学校に越境入学が出来たことを挙げてゐる月輪区長・金井利安さんの記事(『広報なめがわ』第141号・1980年5月)も参考になる。→「空から見た滑川町49 六軒 2010年6月

空から見た嵐山町 360 市街地 2011年10月

嵐山町市街地
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:武蔵嵐山病院(嵐山町太郎丸)(たろうまる)
B:埼玉県道69号深谷嵐山線
C:精進橋、D:川袋橋、E:新市野川橋(市野川)
F:粕川橋(粕川)(かすがわ)
G:第一公園、H:川島自治会館、I:きかず薬師、J:根岸電材埼玉工場(嵐山町川島)(かわしま)
K:嵐山志賀郵便局、L:志賀二区自治会館、M:嵐山町立志賀小学校、N:下沼(堂沼)、O:上沼(堂沼)、P:観音堂、Q:志賀第一集会所、R:嵐山町第二浄水場(嵐山町志賀)(しか)
S:シロックス東京物流、T:カインズモール嵐山、U:太陽インキ製造嵐山北山事業所、V:ヤオコー嵐山バイパス店、W:パシオス嵐山バイパス店、X:紅葉堂、Y:昭和機器工業、Z:共和合成武藏工場、a:嵐山変電所(嵐山町平沢)(ひらさわ)
b:JA埼玉中央嵐山農産物直売所、c:嵐山ゴルフ練習場(嵐山町千手堂)(せんじゅどう)
d:ヤオコー嵐山東口店、e:知識の森嵐山町立図書館(嵐山町むさし台3)
f:新田沼公園(嵐山町むさし台1)
g:東側公園(嵐山町むさし台2)
h:武蔵嵐山駅(東武東上線)、i:埼玉りそな銀行東松山支店嵐山出張所、j:JA埼玉中央菅谷支店、k:東昌寺(曹洞宗)、l:嵐山郵便局、m:ふれあい文化センター、n:菅谷神社、o:嵐山町立菅谷小学校、p:嵐山町立菅谷中学校、q:国立女性教育会館、r:郷学研修所(きょうがくけんしゅうじょ)・金𨿸神社(きんけいじんじゃ)・安岡正篤記念館(やすおかまさひろ)、s:菅谷館跡、t:大妻嵐山高等学校・中学校(嵐山町菅谷)(すがや)

古い写真 菅谷婦人会新年会 1959年1月

菅谷婦人会新年会
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1959年(昭和34)1月5日、菅谷小学校校庭で撮影
中央:青木義夫菅谷村長

菅谷地区神社祭日調 菅谷村(現・嵐山町) 1940年8月

鎮座地・社格・神社名・祭日(例祭日・祈年祭日・新嘗祭日)

大字菅谷字山王回68・村社・日枝山菅谷神社・(10月17日・2月17日・11月23日)

大字志賀元広野・村社・鬼鎮神社・(3月15日・2月28日・11月25日)

大字志賀・村社・八宮神社・(10月17日・4月3日・12月25日)

大字平沢・村社・白山神社・(9月9日・4月3日・11月23日)

大字遠山・村社・八幡神社・(8月18日・4月3日・10月19日)

大字千手堂字明神前・村社・春日神社・(4月15日・2月11日・10月17日)

大字鎌形字清水1993・郷社・八幡神社・(10月13日・3月3日・11月30日)

大字大蔵・村社・大蔵神社・(7月15日・4月14日・10月21日)

大字根岸字前山・吾妻神社・(4月4日・3月4日・12月11日)

大字将軍沢・日吉神社・(10月19日・4月10日・12月11日)


※1940年(昭和15)は紀元二千六百年にあたるとして、各地で様々な奉祝行事が行われた。「紀元二千六百年神名帳編纂上必要有之候趣ヲ以テ内閣紀元二千六百年祝典事務局長ヨリ照会有之」として県から各市町村に依頼された「神社祭日調」の回答で、村内各神社の例祭・祈年祭・新嘗祭の日にちを報告している。

※鎌形八幡神社秋の祭典・芸能大会 1997年10月13日
秋の祭典・芸能大会19971013

武蔵嵐山・一平荘の通行料徴収問題 1960年

   一平荘の通行料問題
 武蔵嵐山一平荘では、観光客から、一人当二〇円宛(ずつ)の入場料をとっているが、これは観光客にひどく不快の念を与え、非難の投書が度々村当局に送られて来た。
 これは折角再開の嵐山観光事業に暗い影を与えるものとし、村でも東武とも協議し、一平荘に対して、善処方を要望して来たが、未だにスッキリとした解決を見ることが出来ないでいる。
 ところが一平荘では此の程この入場料に、さらに輪をかけたような、道路通行料をとって、世人の憤激を買っている。事は、嵐山道路一平荘の手前、塩沢橋への岐路の附近に一平荘から出張して、二〇円の通行料を要求するという。外来者のみならず、村民までこの金をとられたといふので、新聞の投書やら村当局への陳情やら、喧々(けんけん)ごうごうの態である。
 そもそもこの道路は、千手堂から山の入口までが村道、以下遠山まで、松月楼主庄田氏(一平荘の前身)の作った私道である。「私道の維持費と一平荘の客の吸収策のために、料金を貰った」と川崎支配人はいっている。(料金をとれば折角金を払ったのだからといふので客は自然一平荘に入ってくる意)
 これに対して、村では「千手堂から山の入口までの村道を改修したり、バスの駐車場設定を斡旋したりして、観光事業の発展につくしている。村道の部分は村の責任で、私道の分は一平荘の責任で道路改良を実施し、誰でも自由に通らせるといふ約束である。村民からまで金をとるとは怪しからぬ。又村民ではなくとも観光客から通行料をとることは、観光事業の発展を著しく阻害するものだ。」といっているが、一平荘の交渉しても、今の処、やっぱり不得要領でハッキリした結論に到達しないらしい。

     『菅谷村報道』114号 1960年(昭和35)9月10日

農繁期・農休み 1952年7月

   赤痢予防
 本村【菅谷村、現・嵐山町】では昨年度三三名(内疫痢九、赤痢二一)の伝染病患者が出たが、その大部分が赤痢及び疫痢であった。そこで村では今年こそ一人も伝染病を出さないやうにと早くから予防につとめているが、その一つとして、赤痢にかからぬ注意を要約して印刷しこれを村内各戸に配布した。見易い所に貼っておいて、実行して貰い度いといっている。

     『菅谷村報道』23号 1952年(昭和27)7月1日

   農繁期防犯月間
 麦刈、田植等一家総出の野良仕事で、家は自然老人や子供が留守居をすることになるが、その間隙(かんげき)をねらって空巣(あきす)や押売(おしう)りがばっこするおそれがある。そこで自警団では警察と呼応し、七月九日までを防犯月間と定めて警戒をすることになった。この間中学生の協力による防犯ポスターを配り、防犯立看板を立てて村民の警戒心を喚起している。

     『菅谷村報道』23号 1952年(昭和27)7月1日

   農休み
 本年は天気都合もよく農繁期の仕事も順調にかたづいているので、例年のやうに七月初旬に恒例農上りが出来るだらうといふ。期日は六月末に区長が協議して決定することになるだらうが、大体十三日前後と見られている。

     『菅谷村報道』23号 1952年(昭和27)7月1日

   農休み
 六月三十日、各字代表は役場会議室に集って、主として今夏の農休みの期日について協議した。その結果、大体十三日の日曜を中心に三日間ということになったが、菅谷は津島神社の例祭、鎌形は八坂神社の例祭の関係で若干前後することになった。

     『菅谷村報道』24号 1952年(昭和27)8月1日

   青年団散髪奉仕
 大字千手堂青年団では毎月一日、十五日に公会堂で、字民の為に散髪の無料サーヴィスをしているが、七月は農休みの十二日に実施して字民を喜ばせた。

     『菅谷村報道』24号 1952年(昭和27)8月1日

   赤痢発生減る
 昨年は、七月二十日までに赤痢、疫痢計十五名という多数の伝染病患者が発生したが、本年は僅かに二名の発病に止っている。
 これについて村当局は、これは村民や衛生役員等がよく予防に注意している結果と思うが、昨年は八月に十名、九月に二名という記録を示しているから、決して油断は出来ない。一層予防に努力して貰いたいと要望している。

     『菅谷村報道』24号 1952年(昭和27)8月1日

菅谷婦人会の成長 根岸き 1952年

わが婦人会員で元赤十字社に居られた、志賀の出野ミツさん(憲平氏夫人)の処へ赤十字本社からの御依頼がありまして、会員の皆様の思召(おぼしめし)による募金をお願ひしましたところ、可哀そうな人々のため何かの助にと御婦人方のお優しいお心のもとに集められたお金が二千二百三十五円にも上りましたので、六月上旬、出野さんに本社までお届けしていただきました。誠に皆様ありがとうございました。
菅谷村婦人会も生れて満一才と何ヶ月、こうして社会奉仕までできるように成長いたしました事を思いますと涙ぐましい気持が致します。皆様には尚一層夫人の美しい心を大きく育てて下さるようお願い致します。
各字の役員の方々には御多忙の中を本当にお手数でございました。(根岸き)
『菅谷村報道』24号 1952年(昭和27)8月1日

古い写真 稚蚕共同飼育所 2 1974年

稚蚕共同飼育所
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第六回菅谷村民体育大会が開かれる 1954年10月

第六回村民体育大会
菅谷チーム連続優勝 第二位は鎌形
吉例村民体育祭り。第六回村民体育大会は、十月九日、小中学校の校庭で開催された。各字から選出された少年、青年、壮年の代表選手。これを激励する字民総出の応援団。まことに村民体育祭の名にそむかぬ村中総出の祭典であった。午前六時、景気のよい花火の炸裂から始まった村中の興奮は昨夜来の雨も完全に霽(は)れて青い高い空が、雲間から覗き出した午前九時、開会と共に次第に高調となり、追いつ、追はれつ、各字の得点が進むに従って、益々白熱化し、歓声、嘆声、叫声……熱狂の声が場内をうづめたが午後五時、優勝菅谷チーム、準優勝鎌形チームが決定して、大会は目出度く終了、運動場は夜のとばりの訪れと共に次第にもとの平静に帰った。尚この夜、各字とも慰労会が行はれて歓談のどよめきが、体育祭の余韻をただよはせた。

『菅谷村報道』51号 1954年(昭和29)10月25日

開会式
アルバムB393

興農研修所の応援団
アルバムB391

鎌形・長島道子さんの走高跳1位
アルバムB389

興農研修所・新堀正さん800米走1位
アルバムB390
2位は平沢・奥山四郎さん

優勝旗を受ける菅谷チーム
アルバムB392

嵐山釣友会「釣り大会」 1953年6月

   嵐山釣友会夏季大会
 本村名物嵐山釣友会の大会は六月二日早朝より月田橋から嵐山にいたる一帯の川筋で開催された。この日午前六時、島本釣具店前に勢揃ひした参会者二十数名は各々愛用の竿を肩に、自慢の腕を撫(ぶ)しつつ思ひ思ひの釣場所に向った。空は半晴で無風状態、数日前の雨で推量も絶好で、まことに快適な釣日和であった。
 かくて、或は「流し」或は「かばり」或は「たたき」に各自得意の釣法によって妙技を競ひ、午後二時の締切、審査の結果十等までの入賞者は次の通りであった。
  一等賞  中島宣顕   二四二匁
  二等賞  小沢栄太郎  二四〇匁
  三等賞  木村光男   二四〇匁
  四等賞  根岸義次   二三五匁
  五等賞  根岸卯平   二三〇匁
  六等賞  上条明二   一八一匁
  七等賞  大野文平   一七二匁
  八等賞  内田米造   一六七匁
  九等賞  細内節治   一四八匁
  一〇等賞 杉田(七郷)  一四五匁
  大物賞  上条明二   八匁はや
 続いて午後三時より河原に陣取って、米時【米山時次郎氏】が快心の腕を奮った川魚料理でにぎやかな懇親会が催された。
 尚この釣友会は現在会員は五十五名。世話役が、島本釣具店主、嵐山坊水心事吉野巌氏、たたきの名手新井一平氏。名誉会員に、村長、助役、農協組合長等が加わっている。

     『菅谷村報道』33号 1953年(昭和28)6月10日

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