GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

武蔵嵐山

台風6号で増水した都幾川・二瀬橋 2011年7月

二瀬橋上流
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左:都幾川、千騎沢橋 右:槻川、槻川橋

二瀬橋下流
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左岸:嵐山町菅谷 菅谷館跡、国立女性教育会館 右岸:大蔵

2007年に設置された「聖牛」(ひじりうし、せいぎゅう)
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2011年7月20日午前9時30分頃、二瀬橋から撮影

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2007年9月7日撮影

→『KLB嵐山ブログ』さんの「聖牛とは

空から見た嵐山町 310 嵐山渓谷 2011年6月

嵐山渓谷
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2011年6月22日、内田泰永さん撮影

A:大平山(標高178.9m)、B:塩山(標高164.9m)
C:大福寺(天台宗)、D:日枝神社(ときがわ町大字田黒字小倉)

大平山からの展望 2009年11月

大平山(嵐山町大字千手堂)からの展望
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2009年11月3日大平山(標高178.9m)から撮影

A:嵐山病院(嵐山町大字太郎丸)
B:パシオス嵐山バイパス店(嵐山町大字平沢)
C:ヤオコー嵐山バイパス店(嵐山町大字平沢)
D:滑川町配水場(滑川町大字羽尾)
E:関越自動車道(東松山IC-前橋IC開通は1980年7月)
F:明星食品嵐山工場(嵐山町大字川島)
G:筑波山(茨城県つくば市、標高877m)

嵐山町の桜 塩山 2008年4月6日

塩山(武藏嵐山)
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2008年4月6日撮影

嵐山町の桜 細原 2008年4月6日

細原(武藏嵐山)

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5862〜5869パノラマ

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2008年4月6日撮影

嵐山町の桜 大平山 2008年4月6日

大平山(武藏嵐山)

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5862〜5869パノラマA

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2008年4月6日撮影

嵐山町の桜 武蔵嵐山・トラスト3号地 2010年4月10日

武蔵嵐山・トラスト3号地(鎌形・遠山)

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2010年4月10日、井島宏さん撮影

嵐山町の桜 「嵐山町名発祥之地」記念碑(嵐山渓谷) 2010年4月4日

「嵐山町名発祥之地」記念碑(嵐山渓谷・細原)
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2010年4月4日、井島宏さん撮影

嵐山町の桜 細原(嵐山渓谷) 2011年4月5日

嵐山渓谷・トラスト3号地
桜は1〜2分咲き

塩山
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細原
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武蔵嵐山・一平荘の通行料徴収問題 1960年

   一平荘の通行料問題
 武蔵嵐山一平荘では、観光客から、一人当二〇円宛(ずつ)の入場料をとっているが、これは観光客にひどく不快の念を与え、非難の投書が度々村当局に送られて来た。
 これは折角再開の嵐山観光事業に暗い影を与えるものとし、村でも東武とも協議し、一平荘に対して、善処方を要望して来たが、未だにスッキリとした解決を見ることが出来ないでいる。
 ところが一平荘では此の程この入場料に、さらに輪をかけたような、道路通行料をとって、世人の憤激を買っている。事は、嵐山道路一平荘の手前、塩沢橋への岐路の附近に一平荘から出張して、二〇円の通行料を要求するという。外来者のみならず、村民までこの金をとられたといふので、新聞の投書やら村当局への陳情やら、喧々(けんけん)ごうごうの態である。
 そもそもこの道路は、千手堂から山の入口までが村道、以下遠山まで、松月楼主庄田氏(一平荘の前身)の作った私道である。「私道の維持費と一平荘の客の吸収策のために、料金を貰った」と川崎支配人はいっている。(料金をとれば折角金を払ったのだからといふので客は自然一平荘に入ってくる意)
 これに対して、村では「千手堂から山の入口までの村道を改修したり、バスの駐車場設定を斡旋したりして、観光事業の発展につくしている。村道の部分は村の責任で、私道の分は一平荘の責任で道路改良を実施し、誰でも自由に通らせるといふ約束である。村民からまで金をとるとは怪しからぬ。又村民ではなくとも観光客から通行料をとることは、観光事業の発展を著しく阻害するものだ。」といっているが、一平荘の交渉しても、今の処、やっぱり不得要領でハッキリした結論に到達しないらしい。

     『菅谷村報道』114号 1960年(昭和35)9月10日

古い写真 東松山駅−武蔵嵐山駅−武蔵嵐山定期バスが開通する(更新) 1961年9月

東松山駅−唐子−武蔵嵐山駅−武蔵嵐山定期バスが開通

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武蔵嵐山駅前

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武蔵嵐山駅前バス停車場

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私設武蔵嵐山バス停車場

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私設武蔵嵐山バス停車場

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私設武蔵嵐山バス停車場

   武蔵嵐山へ定期バス 観光道路も完成
 東武鉄道では、駅−嵐山、東松山−嵐山に定期バスを運行することになり、四月七日、東京陸運局に免許申請を出し、近く許可、開通の見込みである。
 運行時間割は、

駅発が、
 午前 八時三〇分
 〃  九時三〇分
 〃 一一時四〇分の三回
 午後 一時〇〇分
 〃  二時〇〇分
 〃  三時〇〇分
 〃  四時〇〇分の四回

嵐山発は、
 午前 七時三五分
 〃  八時四五分
 〃  九時四五分
   一一時〇〇分の四回
 午後 一時一五分
 〃  二時一五分
 〃  四時一五分の三回

料金は全線十円

 又、東松山−嵐山は午前が東松山七時、嵐山駅七時二五分、武蔵嵐山七時三五分。午後が武蔵嵐山四時三五分、駅五時〇三分、東松山五時三〇分の一回宛となっている。
 この料金は四〇円。
 尚、千手堂の登山口から、山の入口までの村道、及びここから六角堂上の駐車場に至る観光道路七百米は、巾員を四米−五米にひろげ、改良工事が完成した。この工事は、地元、千手堂、遠山地区の地主、区民が、全面的協力と奉仕をして、完成したものである。

     『菅谷村報道』110号 1960年(昭和35)5月15日

   嵐山駅定期バス
 昨年から話題に上っていた嵐山駅から、嵐山六角堂までのバス運行は、この程、運輸省の許可が出て、十月から開始出来る情勢になった。これについて東武では、村及び、一平荘の協力態勢如何により実施か否かに踏み切る腹をきめ、六月三十日、東上業務局の斉藤課長等が来村し、このことについて、村長と協議した。
 尚、一平荘の協力関係については、村長、議長が庄田氏と面接して協議を進めている。

     『菅谷村報道』124号 1961年(昭和36)7月20日

   東武バス開通
 かねて計画中の、武蔵嵐山駅、武蔵嵐山六角堂上までの東武定期バスは、九月十六日開通と決定、会社から役場に通知があった。
 停留所は、役場前、平沢、公会堂前の三ヶ所、運賃は全線十円の見込み。

     『菅谷村報道』125号 1961年(昭和36)8月15日

   東武バス開通祝
 別項のとおり、東松山−嵐山駅−武蔵嵐山間東武定期バスは、九月十六日から開通したが、地元、村、村観光協会、商工会ではこれを記念して、午前十時からその祝賀式を行った。折悪しく、十八、九台風の襲来で万国旗の飾りつけや、花火打上げ等の計画は不可能だったが、十時二十分先づ運転手、車掌さんに花束を送り、村長がテープを切って、新村建設以来最初のバスが動き出した。当日の参会者は主催者側、青木村長、小林助役、青木議長、市川副議長、福島商工会長、関根、内田副会長。来賓は、東武自動車局埼玉事務所長、東武の東上業務局長代理、嵐山駅長、関根茂良氏、一平荘川崎支配人等で一同は、嵐山まで便乗して、運行状況を視察、十一時から内田屋を会場とする祝賀の宴に臨んだ。

     『菅谷村報道』126号 1961年(昭和36)9月20日

   東武バス開通式
 嵐山駅と明覚駅間にバスが動いたのは昭和十二、三年頃(1937〜1938)、戦争中はこれがと絶えて以後十数年、槻川をはさむこの地区は、依然明治・大正時代の姿で映っていた。
 景勝地武蔵嵐山の開発も、今の処まだはかばかしくないが、村の要請が通って、九月十六日から、駅と嵐山の間に定期バスが開通した。村では県道の改修と伴って、これを南は玉川、北は古里まで延長する計画。バス開通は村民の眠りをさます黎明(れいめい)という訳か。写真はテープを切る青木村長。

     『菅谷村報道』127号 1961年(昭和36)11月30日

槻川の鮎漁 涼風颯々清流に満つ 1962年8月

 報道三十五号発行記念に、計画された鮎漁は本会主催で、全村八十余名の有志が参加して昭和二十八年(1953)八月二日に行なわれた。これは村民レクリエーション大会として後世に伝うべき一行事であった。以来、世も移り、新村*が誕生して満七年。人も変って、当時の花形も、すでに数人が故人となり失せた。歳月は流れて夢のように早い。報道も更に一〇〇号を加えて、この七月で一三五号となった。九年の昔を偲んで、槻川上に鮎漁の風物を捉えた。自然は変らない。槻川の清流に、颯々として昔ながらの涼風が吹いている。

   岩間ゆく 清き川瀬にあそびけん
     鮎にしあれば 見るも涼しき
               伊藤左千夫

   飛鮎の底に雲行くながれ哉
               鬼貫**

     『菅谷村報道』136号 1962年(昭和37)8月5日

*:1955年、菅谷村と七郷村が合併し菅谷村(現・嵐山町)が誕生した。
**鬼貫(おにつら):上島鬼貫(うえしまおにつら)、1661年(万治4)〜1738年(元文3)。江戸時代中期の俳諧師。「夕暮は鮎の腹見る川瀬かな」もある。

村民懇親鮎漁大会が開かれる 8 1953年8月


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   記録 鮎漁大会会計
一、収入  一万七五〇〇円
 会員八〇名分 一万六〇〇〇円
 寄附 一五〇〇円(報道委員会 一〇〇〇円 万民新聞社 五〇〇円)
二、支出 一万七三九五円
 料理材料 二八三五円
 酒    九三七五円
 サイダー 一〇二五円
 弁当   三七四〇円
 会員章   四九〇円
 燃料    一〇〇円

     『菅谷村報道』36号 1953年(昭和28)8月10日

村民懇親鮎漁大会が開かれる 7 1953年8月

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   記録 鮎漁大会参加者
 別項、村民鮎漁大会はこの計画発表と共に村内は勿論、他町村からも絶大なる賛同を得て、遂に八月二日、早朝より日没に亘って開催、予期以上の成果を得てその幕を閉じたが、この会の参加者は次の通り八十三名の多数に達し、その顔ぶれは、村内の各界各層を網羅して名実共に村民大会の盛況を示し、更に会員外の手伝参加者等を加えれば百二十名の多数に上って、その交歓の声は、しばらく槻川畔を制圧して賑いを極めた。
○菅谷
 根岸巷作、馬場光男、関根子之助、木村光男、細谷信一郎、関根長倭、中島正男、松浦高義、中島操、山岸一利、中島勝哉、福島秀雄、米山永助、根岸卯平、米山時次郎、根岸義次、高山千吉、吉野巌、新井一平、青木高、岡村定吉、須沢襞治、山岸宗朋、田幡順一、関根由平、島本茂信
○川島
 島和一郎、森田清、岩附木一、権田喜又、権田和重、権田徳寿、吉田又五郎
○志賀
 滝沢長重、大野文平、根岸喜儀、儘田雪光、高崎達蔵、恒木美浪
○平沢
 小林忠一、小林久、奥平竹次【武治?】、山田巌、内田実
○遠山
 小菅山栄、栗原彌之助、吉野賢治、山下賢治
○千手堂
 高橋正忠、瀬山修治、内田佐助、中島元次郎
○鎌形
 杉田喜平、中島金吾、小林才治、杉田寅造、内田武一、山下欽治、長島甲子雄、杉田喜作、杉田武平、内田源作、大野優弘、小林博治、小林康雄
○大蔵
金井宣久、金井示夫、山下伝次郎、山下庫次郎、金井東輔、金井倉次郎
○将軍沢
 鯨井軍次、小久保幾喜、忍田喜三、金子幾太郎、加藤重太郎
○その他
 内田家寿、小沢利政、荻山栄一、藤田真造、長島林平、木村幹次、橋本儀一

     『菅谷村報道』36号 1953年(昭和28)8月10日

村民懇親鮎漁大会が開かれる 6 1953年8月

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   鮎漁大会役割り
      一人の傍観者もなし
 村民鮎漁大会は文字通り、全く村民の協力一致によって成立したもので、参加会員が各々その得意とする役割りを自ら引受けて、持場持場でその責任を果し、一人の拱手(きょうしゅ)傍観者もなかったのであり、その役割りに甲乙はないが、尚後日の参考のため各係りを記録すれば次の通りである。
○投網
 岡村定吉、米山永助、細谷信一郎、内田武一、杉田善作、杉田寅造、山下倉次郎
○釣
 新井一平、関根由平、吉野巌、木村光男、根岸卯平、小林康雄、中島正男、山岸一利、大野文平、中島勝哉
○料理及び会場の準備
 米山時次郎、高山千吉、木村光男、恒木美浪、杉田喜平、小沢利政、新井一平、加藤重太郎、小菅山栄、大野優弘、中島元次郎、小林康雄、藤本真造、国立喜代子、松浦千代野、大野克子、中村美江
○受付、案内
 福島秀雄、森田與資、忍田喜三、金井宣久

     『菅谷村報道』36号 1953年(昭和28)8月10日

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