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御用留からみた明治初年の民政

 志賀一区区有文書のなかに明治三年(1870)の「御用留(ごようどめ)」が残されている。「御用留」というのは江戸時代、村里において領主・幕府等からの触書(ふれがき)や回状を村役が書き留めて綴っておいた帳簿のことである。当時は大切な通知文書は必ず控えをとって保存した。其の習慣が明治になっても引き継がれてこの「御用留」になったのだろう。この「御用留」は志賀村名主水野僖一郎が明治三年八月より十月までに伝えられた回状・通達の控えを書き残したものである。
 1868年(慶應4)鳥羽伏見の戦に始まった戊辰戦争が1869年(明治2)五稜郭開城をもって終わり、江戸を東京と改めて遷都、ここに新政府が樹立した。新政府は天皇を中心に公家及び薩・長・土・肥等の下級武士によって構成された。彼等は錦御旗(にしきのみはた)を押し立てることで戦いに勝利したが、政権の座から永く遠ざかっていた為に実際の行政においては試行錯誤も多かった。1869年二官六省の制【神祇官・太政官(兵部・民部・大蔵・刑部・宮内・外務各省)】が置かれ、国民(農民層)へ対する行政は主として民部省から出された。別表の発信先をみると民部省或いは民生局・民政裁判所からの通達が多い。その他の発信人は下里村の関根玄友か鎌形村の簾藤万右衛門であり、回状の形をとっている。
回状と言うのは次の様なものであった。

            以回状啓上仕候然牛馬渡世之もの
            共御鑑札相渡相成拙者上御下
     相成候間為請取御出向可被成候尤御受
     書差出申候義付当人印形并村役人
     印形御持参可被成候 以上
       九月七日          簾藤万衛
      根岸村 千手堂村 志賀村 月ノわ村
                    右村々御名主中

上の文書は鎌形の簾藤万右衛門が出した回状で、牛馬売買人の鑑札がきているので当人と村役人の印鑑持参の上受け取りにお出向き下さい。という文面で、根岸・千手堂・志賀・月輪と順達するように村名主に宛てたものである。

 さて、この明治三年七月二十五日から十月八日までの御用留に控えられた三十二件ほどの用件(別紙参照)から当時の新政府が末端の農民に何を望んでいたのか探って行きたい。
 新政府が発足以来最も困っていた問題は経済であった。徳川幕府は八百万石という圧倒的な財力をもって天下を御(ぎょ)して来たが、新政府はほとんど無一文の出発で、除々に版籍が奉還され上知された土地を財源とするより他なかった。特に徳川家を七十万石で静岡に封じ込め、残りの所領(関東一円の旧旗本領)を中心の財源とした。従ってこの地方は恰好の徴税対象地域であった。
 先ず民部省に地理司をおいて各地に地誌の作成を命じた。これが村明細帳(村鑑)である「今般天朝より雛形の通りご布告之有り候」という文章で「村鑑帳」の雛形が伝えられた。明治三年八月二十三日附、天朝即ち天皇からの命令で九月五日までに雛形の通微細取調べ持参せよというのである。天皇のもつ権威をもって僅か十二日間で調査提出させようとした。「村鑑」の内容雛形をみよう。

 一、高何程 一、田何程 一、畑何程 一、石盛 一、何年度御検地
 一、水町(帳)損有無 一、小物成諸運上(うんじょう)有無
 一、家数何軒 一、人数何人 一、牛馬何疋 一、農間女稼
 一、林何ケ石 一、百姓林何ヶ処 一、秣場(まぐさば)何ヶ所
 一、漁猟場何ヶ所 一、御普請所 一、自普請所
 一、米津出(つだし)之場何ヶ所 一、東京迄里数 
 一、村方之内山里并豊窮之仕訳

以上の二十項目であるが、下線のものは田畑その他の収穫量或いは労働力に関係するもので、その他も経済にかかわる調査が目立つ内容である。新政府が如何に焦っていたかが偲ばれる。その他八月五日には畑からの収穫は金納(物で納めるのではなく金銭で納める)として納期をあらためて通達した。また、牛馬渡世の者(牛馬の売り買いを生業にする者・博労(ばくろう))には鑑札を渡し、かわりに冥加金(みょうがきん)(利益の一部を差し出すもの。一鼻綱(はなづな)に附き鑑札一枚冥加金三分)を徴集した。なお九月十五日には今年(午年)の年貢米を定免(過去五年から十年平均の年貢収納高をもって以降検見をおこなわず年貢を賦課すること)で承知し、例年の通り半紙に請書を書いて十八日までに差出すよう仰せ付けられた。その上十月八日、民生局から福田村・志賀村に対し「増米出精致し来る二十三日までに願書差出すべきもの也」と通達している。増米というのは定まっている年貢に上乗せして納める米である。また八月二十五日と九月十八日には出水・大風雨の災害の状況を雛形を示して調査させているが、新政府で破損箇所を修繕し救難しょうというのではない。何のための調査かというと「出水等にて亡所出来租税に相係り候分」即ち洪水で田畑が流され収穫できなくなり年貢(租税)に影響する分について巨細に取り調べよ、というのである。災害が徴税にどの程度影響するかをあらかじめ予測したかった。いづれにしても新政府の財政の苦悩を窺い知ることが出来る。
 次には宗教の問題である。江戸時代は仏教が中心となって民の精神界を支配し、行政にも深く関り、寺請制度等によって民の戸籍を管理し、又朱印地、除地等によって保護もされていた。しかし幕末、勤皇思想や倒幕、天皇親政の考えが成熟してくる背景に神道があった。日本は神の国であり、天皇はその末孫である、この国を統治するものは天皇である。という考え方である。新政府は天皇中心の新しい国を造っていく為には仏教を押えて神道を興隆させていかねばならなかった。1868年(明治元)年早くも「神仏分離令」をだした。これまで神宮寺のように神社と寺とが融合していたのを分離して、神社を独立させ引き立ててゆこうとした。以来廃仏毀釈(仏教と儒教を廃棄すること)の考えが鼓吹され、寺や聖堂がないがしろにされる傾向が生まれた。八月十八日に民政裁判所から「御支配所諸寺本末寺号始め元朱印地又は境内除地山林反別等明細取調差出候」よう通達があった。要するに寺が所有している年貢の免除地(朱印地・除地・山林)を調査し、これを削減して官有とし苦しい国の財政を潤し、同時に寺の勢力を殺ごうとした。次いで九月七日修験(役小角(えんのおずの)を祖と仰ぐ日本仏教の一派、山伏)に対しても調査している。「村々修験復餝神主に相成観音免とか地蔵免或いは虚空蔵免等と申仏名にて除地之有り候向は反別其の外取調」また「修験にて相続罷在候者所持の除地反別其の外巨細取調」差し出すこと。百姓でも仏号に付く除地反別、仏号の家作を所有する者の調査をさせた。これには但し書きがあって「神号に付く除地は書出しに及ばず候」とした。そうして民生局は廃寺を進めることとなる。九月二十九日「当管轄の村々無住無檀の寺院並びに修験復餝跡寺号の義更に廃寺申付候」ということで関係財産を取り調べ最寄三役へ十月十日限り差出すべしと通達した。十月四日志賀村の万福寺について下里村の名主玄友は志賀村の名主喜一郎の相談に応じ「村中一統御相談之上は勧農之御主意に基き是非共廃寺成られ候方然べく候」と、万福寺は廃寺となった。かくして廃仏毀釈はすすめられ神国日本が形成されていった。
 これに関連して日本は天皇の国であるという国体を明らかにしたかった。明治維新を創り出した新しい勢力は錦御旗(天皇家の家紋(菊花)を中央にあしらった錦織の旗)を押し立てることでそれを成就した。従って新政を推し進める上でも尊王思想を鼓吹したかった。太政官は「九月二十二日聖上御誕辰毎歳この日を以て天長節とし」と布告、末文に一昨年布告したが趣旨がよく徹底していないので周知させて奉祝せよ、というのである。またこれより先、七月太政官は「弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇右の通三帝御諡(おくりな)奉なされ候」と通達した。当時の農民もなんのことかと思っただろうが、これは皇統に関することで、この三人は争乱によって廃帝になったか、帝位につけなかった方々だが、これらに謚して万世一系の天皇家であることの証しとし権威づけようとしたのだろう。
 最後にもう一つ、七月、養蚕について民部省からの通達と諭告がみられる。諭告によれば「蚕卵紙(蚕が卵を産み付ける紙、種紙)の義は御国産第一の品にてその豊凶によりては御国内の損益のみならず貿易上にも差響き内外の人民商業の盛衰に拘る程のもの」で、当時としては農業についで養蚕は重要な産業であった。ところが近年製造が乱雑になり、私欲を謀り、衆人を欺く粗悪なものが多くなってきた。このように安くて粗悪な原産卵を使えば、翌年は減産に陥り養蚕衰微に至は必定である。そこで「諭告」を出したので養蚕に関るものには趣意をよく弁え説諭して、一時の利に拘泥せず精良の原産卵が国内に残り、将来の生産が倍殖するように世話すべし、と養蚕熟練者および村役人へ通達した。政府は九月五日には「蚕種製造規則同税則」を定め、養蚕製糸へ国が乗り出し、1872年(明治5)には国営の富岡製糸場の設置となっていった。
 この他にも陸軍の国章・旗章の布告、中学校の開校、下庁の役配等々の通達が控えられているが、大部分は新政府の財政に関連する調査・通達とみることができる。徳川幕府が大政を奉還して新しい天皇親政政府が出来上がっても財政は窮乏を告げ、それは農民層の負担に負うところとなった。
     ※志賀一区区有文書121 「明治三年御用留」 名主僖一郎
     ※岩波書店編『近代日本総合年表』

寺子屋から小学校へ

 1872年(明治5)「学制」が頒布(はんぷ)された。その序文ともいうべき「被仰出書」に「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんこと」と述べて、全国を8大学区、32中学区、210小学区に分け、学区毎に各々学校を一校置くこととした。単純に計算しても全国に小学校を5万3760校設置して、不学の人のなくなることを希(こいねが)った。しかし簡単に計算通り小学校が設置された訳ではない。1872年(明治5)埼玉県が文部省に出した伺書に「中学一所ヲ置ケバ二百十小学校ヲ置ク可キノ御規則ニ候処、二三ノ黌(こう・校)ヲ興ススラ百方手ヲ尽サスシテハ其功成リ難キ」と訴え、1874年(明治7)になっても県下全体で小学校277校を数えるに過ぎなかった。小学校が曲りなりにも開設されていったかげには、江戸時代以来、継続盛行して来た寺子屋・郷学に負うところが多かったと思う。本町に於てその足跡を探ってみると次の様なものがあったことが考えられる。

〔広野〕広正寺 寛山和尚 1813年(文化10)生 1867年(慶応3)遷化 54才 広正寺住職 号:東雲庵字山子
 寛山の功績を讃えて建てられた筆塚「大般若経書廃筆記」の裏面に350余名の筆弟の名前が刻まれている。又、大蔵の大沢晩斎の著「余力集」にも寛山が病に罹ったのを憂えて贈った七言律詩中に「学弟一千人」とあり、なお右綺(下福田村光福寺隠居)の「筆塚碑蔭記」にも「弟子蓋数百人其入室昇堂者以十算之」とある。数はともかくとして多数の弟子達が寛山によって教導されたことは間違いない。寛山の寺子屋というべきか。

〔吉田〕宗心寺 光外栄老 宗心寺住職 生没年不明 1859年(安政6)住職を寛補にゆずる
 1872年(明5)2月に記録された「筆弟人数改帳」に筆弟68人の名前が連記され、内15人の死亡が記録されている。思うに光外が宗心寺住職を退任した1859年(安政6)以降寺内において弟子の指導に当ったものであろう。

〔杉山〕八宮神社 杉山宝斎 1825年(文政8)生 1889年(明治21)没 65才 幼名:多聞 名:義順
 1883年(明治16)建碑の「杉山宝斎退筆塚」があるが、その裏面の「旌真報恩鑑」に180余名の名が刻まれている。門弟その有縁者であろう。宝斎の営む寺子屋が存在し、それが椙山学校(すぎやまがっこう)へと引継がれたことは想像に難くない。

〔鎌形〕鎌形八幡神社 斎藤周庭 1811年(文化8)生 1890年(明治23)没 80才
 1883年(明治16)建立の「周庭翁碑」によれば、近隣の子弟を集めて教導、その数200余人と伝えられている。鎌形学校の先駆ということが出来るだろう。

〔大蔵〕自宅 大沢国十郎 1831年(天保2)生 1914年(大正3)没 84才 号:沢大器・晩斎
 1885年(明治18)の彼の履歴書に「嘉永五年(1852)十二月ヨリ家庭ニ於テ近隣村ノ児童ヲ教育シ読書習字等授業ス凡生徒二百有余名明治五年(1872)ニ至リ疾病ニ遭テ辞ス」と記している。又「童蒙入学録」には1852年(嘉永5)から1872年(明治5)まで在籍の氏名が88名記録されている。自宅を教場とした寺子屋が営まれていたのであり、次の大蔵学校の前身となったと考えられる。

 かくの如く、僧侶・神官・修験或いは農民が寺院・神社或いは自宅を教場として、附近の筆弟達を教育して来た。しかし学制発布以後村々にあった私家塾(寺子屋)は「不都合ノ儀モ有之候間悉皆(しっかい)令廃止候事」となり、前記の私塾・寺子屋も存続できなくなった。さりとて急速に公立の小学校を建設することは当時の社会経済体力から云って到底出来得なかったろう。1876年(明治9)1月比企郡全体を調査し記録した『武蔵国郡村誌』によって、学校の設置状況を見ると、鎌形村に「公立小学校(村の西方にあり生徒男六十九人女十八人)」、菅谷村に「公立小学校(村の乾の方東昌寺を仮用ス)」、杉山村に「公立小学校(東西十九間南北十三間の中央にあり生徒男四十九人女十三人)」とあり他の村々に学校の存在は認められない。学制発布以来4年が経過している。この間この地域に学校はなかったのか、『七郷村誌』によれば、「明治六年八月一日(1873)創メテ杉山学校ヲ設立シ大字杉山九番地民家ヲ以テ校舎ニ充ツ」としている。又杉山伊保利が1876年(明治9)4月12日椙山小学校の小学下等を卒業した証書が残されているが、当時の学制は下等小学校は4年間で、伊保利はこの時11年8ヶ月の年となっているので入学は8才、そして1872年(明治5)と推定される。又比企郡内公立小学校敷地調査表によれば、杉山学校敷地は二反二畝十五歩が「明治七年(1874)中敷地ニ御払下相成」となっているので1873年(明治6)頃には学校が存在したことが窺える。杉山学校の創立存在を立証して来たが、同様に『嵐山町誌』にも記された如く、1873年(明治6)班溪寺に鎌形学校が、1874年(明治7)に東昌寺に菅谷学校が置かれたことも首肯出来るように思う。即ち経済的困窮の状況に置かれた村落においては寺院や私邸を仮用して学校が開かれ急場を凌(しの)いだのである。
 学制による小学校は下等小学4年(6才〜9才)、上等小学4年(10才〜13才)の就学で各等8級に分け、「此二等ハ男女共必ズ卒業スヘキモノトス」と定めた。1874年(明治7)県から文部省に伺出た教則を別表に示した。教科の内書取・問答・復読・暗誦・作文は除いて読本・算術・習字について8級に別け表記したが、1つの級が6ヶ月で卒業となるので程度も高く、進度も速い。国民皆学となるとかなり無理があったと思う。
 又学制は「生徒幾分ノ授業料ヲ納メサル可カラス」として受益者負担を定めたが、「貧困ノ民多クシテ一時ニ学資ヲ弁ズルコト難シ」という状況で、「授業料ヲ厳ニ督促スルトキハ、寒郷荒駅ノ民情自ラ就学ヲ嫌避スル思ナキ能ハス」と云う程であった。1892年(明治25)9月七郷村長が県へ提出した「授業料額伺」は別表の通りで貧富と学年に応じ九等に分けて定めている。
 古里の田嶋家が昇進学校へ納付した授業料の領収書が残されているが栄三郎の分は1890年(明治23)7・8・9月分いづれも25銭、栄吉の分は1891年(明治24)8・10・11月分12銭5厘、1893年(明治26)4・5月分は22銭5厘である。地租の納付額、学年に応じて授業料に等差があったことを実証している。
 授業料は1893年(明治26)廃止となった。しかし経済的問題と旧来の陋習から就学を拒む者が多かった。広野村の1874年〜1876年(明治7〜9)の就学・不就学書上を別表に示し、全国との比較もしてみたが、就学率は著しく低いものであった。
 1873年(明治6)12月には早くも「学問ハ人民日用ノ急務タルヲ以テ、其ノ子弟ヲ小学ニ就カシムルコトヲ告諭ス」として、学に就かなければ「文盲ノ野人トナリ生涯人タルノ道ヲ得ル能ハズ」とまで云って督学を行ったが、急足に就学率をあげることは出来なった。1879年(明治12)学務委員制度が設けられ、「学令児女ヲシテ故ナク学ニ就カシメザル父母及ヒ後見人アルトキハ之ヲ説諭シテ就学セシムベシ」と督学にあたらせた。戸長を通じての執拗なまでの就学督励と、1890年(明治23)の教育勅語の発布の頃を契機に、教育は国民の三大義務(他は兵役・納税)の一つという認識が生れ、1890年(明治23)全国統計で平均就学率がようやく50%を超えることとなる。初等教育の定着にはほぼ4分の1世紀を要したということであり、これから更に充実発展期にかけて幾多の問題を処理しなければならなかった。

【参考文献】
  宗心寺文書186「三休山光外栄老筆弟人数改帳」
  杉山貞夫家文書104「杉山伊保利卒業証書」
  大沢知助家文書661 履歴書 825・826「余力集」・104「童蒙入学録」
  田島定栄家文書36・37・38・83・84・92・93・97・98・107 授業料納付書
  広野区有文書49・55 就学不就学書上・167 学令人員取調手続
  埼玉県文書 比企郡内公立小学校敷地調査表・七郷尋常小学校授業料額伺
  埼玉県史料叢書2 埼玉県史料二 政治部 学校
  武蔵国郡村誌 比企郡 巻之六 巻之七
  私家版『七郷村誌』 安藤専一著
  『嵐山町誌』
  『嵐山町学校沿革誌』嵐山町教育委員会編
  『日本近代教育史大事典』(平凡社)
  大沢知助家文書「東雲庵先生遺稿」

太陽暦と国の祝祭日

 明治五年十一月太政官は「今般太陰暦(たいいんれき)ヲ廃シ太陽暦(たいやうれき)御頒行(ごぶんこう)相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候」と布告し、「諸祭典旧暦月日ヲ新暦日ニ相当シ施行可致事太陽暦一年三百六十五日 閏年三百六十六日四年毎ニ置之」とした。従来の暦は正確には太陰太陽暦というので、小の月を29日、大の月を30日とし、12ヶ月で354日とし、太陽の運行の1年365日に合せるために19年間に7度の閏月を置いて調整して来た。布告文の中で「太陽暦ノ如キ各国普通之ヲ用ヒテ、我独リ太陰暦ヲ用ユ、豈(あに)不便ニ非ズヤ」と述べているが、月の運行を主とする太陰暦に矛盾がある上に、我国も開国以来諸外国との交際、貿易が頻繁となると不便を感ずるのは当然であった。しかし、一般国民の生活としては江戸三百年以来親しんで来た旧暦を一朝にして改めることはむずかしかった。政府も二、三年太陽暦の下で太陰暦を比較したならば、「下民モ必ズ其便ヲ覚フベシ」と考えていた。ところが1876年(明治8)正月を迎えるに当って「農事又ハ金銭融通之都合ヲ以テ旧暦正月ニ至リ休業慶祝可改旨協議罷在候宿村モ有之哉ニ相聞」ということで、祝祭日も政府の思う通りに行われず、布達第百廿五号をもって「自己之都合ヲ以旧暦相用候義ハ最不相す事ニ候 一月一日は不及申兼テ布達之通諸祝日相祝可申様」と区長を以て懇切に説諭するよう指示している。降って1887年(明治20)12月比企郡平沢村から連合戸長に提出した「御請届」によれば「積年之習慣一時ニ蝉脱セス政令謹順ナラザル向モ有之」と改暦以来15年を経過しても尚旧暦に拘泥して、新年の佳節及国の祭日も区々で、これでは忠君愛国の臣民の分にも悖(もと)り、外国人に対しても愧(は)ずべきことであるとして、堅く新暦を守ることを誓約している。続いて布達百廿五号は「太陽暦遵守奉表祝意候ニ付テハ左ノ条項ヲ履行スベシ」と言葉力強く命じている。即ち祝祭日が列挙されているが、今日のそれと比較すると大部趣を異にしている。
    上段(旧暦)                   下段(新暦)

一月一日   松飾国旗掲出        一日 元旦
         神拝年礼ノ事         第二月曜日 成人の日
   三日   元始祭
   三十日  孝明天皇祭
二月十一日 紀元節              十一日 建国記念の日
三月廿日   春季皇霊祭                    二十日 春分の日
四月三日   神武天皇祭          二十九日 みどりの日
五月                       三日  憲法記念日
                          四日  国民の休日
                          五日  子供の日
七月                       二十日  海の日
九月廿三日 秋季皇霊祭          十五日 敬老の日
                          二十三日 秋分の日
十月十七日 神嘗祭             第二月曜日 体育の日
十一月三日 天長節             三日  文化の日
   廿三日 新嘗祭             二十三日 勤労感謝の日
十二月                      二十三日 天皇誕生日

 上段、当時の祝祭日は神と天皇を慶祝する日であり、天皇制による神国日本の国体をよく表している。なお最後に「旧暦年賀及び五節句(*)等は断然廃止の事」と結んでいる。旧暦による行事が横行していたことが窺える。
 また、文中「御国旗ヲ掲出スル事以下同断」とあり、祝祭日には国旗を掲出する様指示されている。1873年(明治6)11月布達第125号にも「御国旗相掲け可奉祝之御日柄及布達」の文言があり、既に10月14日定められた祝祭日に国旗を掲出するよう布達されていた。掲出すべき国旗「日の丸」についてはその発生に諸説あるが、1873年(明治6)10月10日熊谷県令河瀬秀治が各区正副区長へ出した告文の中に「日の丸」の旗の形状規定を示している。「流曲尺ニテ二尺五寸 竪壱尺七寸五分 日ノ丸差渡し一尺五分 先ノ明七寸五分 乳ノ方明七寸」、これれをメートル法に直して図指すると左の如くになる。国旗の制定の時期を確定することはむずかしいが、明治三年十月の太政官日誌の御布告写によれば「海軍御旗章、国旗章別冊之通ニ候条」とあって図示されたものと同じである。この国旗(日の丸)を祝祭日には掲出せよということであった。後世、祝祭日を旗日と呼んだのはその名残りであろう。

*:五節句
  正月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、
  七月七日(七夕)、九月九日(重陽)

【参考資料】
  井上清家文書 ���   4 内外各種新聞要録附録 明治五年十一月
  中村常男家文書 ���546 用留 明治五年
      仝    ���  551 用留 明治七年
  内田喜雄家文書 ���102 御請届 明治廿年十二月
  『新聞が語る明治史』 明治元年〜明治廿五年 (原書房)
  『日本史広辞典』 (山川出版)
  『近代総合年表』 (岩波書店)

組頭の罷免 1857年

   村方三役 組頭の罷免
 江戸時代、村の行政は領主の支配のもとで、村方三役(名主・組頭・百姓代)と呼ばれる人々によって行われてきた。名主は村の代表であり村政のすべてを処理した。組頭(与頭)は村長に次ぐ村役で村長を補佐する役どころで、村が分割されているところでは二、三人で勤める処もあった。百姓代は名主以下の職務を観察する目的で後年設けられ、小前(高持の小百姓)から公選されたので小前総代ともいった。いづれの村役も村内の信望が高く、ある程度の経済力を持った人々であったが、時としては行政上の不信や後任選びの縺(もつ)れ等による問題も発生していた。 
 これは古里村市川又兵衛知行所の出来事である。
 1857年(安政4)4月、同知行所の名主徳次郎が死亡し、その後跡について差縺(さしもつ)れが起こった。小前総代であった仙次郎は百姓要蔵、源三郎、常次郎、権六、善五郎を代表して、1857年(安政4)9月4日、出府の上、当時組頭であった明三郎の不行跡4ヶ条を地頭所へ訴え、その名主就任を阻止しようとした。即ち4ヶ條は次の様な事であった。

 一、1855年中(安政2)、御林山(おはやしやま)(領主の直轄した山林でお留山と呼び勝手に伐木厳禁の場所)の雑木を理不尽に伐木。それを止(と)めたが役権をもって願済みとして伐木におよんだこと。
 一、1854年(安政元)、明三郎は潰れ百姓(つぶれひゃくしょう)(破算した百姓)伊三郎の持ち山、字藪谷(やぶやつ)において雑木を並外れて伐採し自宅へ運び込んだこと。
 一、1855年(安政2)、源三郎の所有する字船久保(ふなくぼ)の畑地内に明三郎の畑地二畝歩(せぶ)余り入り交じり、是まで横領されていたので畝歩だけ引き揚げるといいだし、取調べたところ源三郎の持ち地に相違ないことが判ったが、難題を持ちかけ多分の金子を貪(むさぼ)り取る計画だったこと。
 一、明三郎と隣接していた潰れ百姓孫七の屋敷内、横二間三尺竪(たて)十五間余囲い込み、組合のものが見付け掛け合いに及んだが、境筋は其の方には分らないだろうと、役権をもって不法申募り、取りあってもらえなかったこと。

 この外にも種々悪計をたくらみ小前に難渋を強いていた。訴状は「明三郎差配(指図)此上請候様相成候而者潰及退転(落ちぶれてその地を立ち退くこと)候外無御座難儀至極仕候」と、即ちこのままでは潰百姓になるか、夜逃げでもする外よりないというぎりぎりの窮状を訴え、組頭明三郎の罷免を願い出た。
 1857年(安政4)9月8日、明三郎も、地頭所の仙次郎達へ年番名主(年毎に交代して勤める名主)を命じても障りはないかのお尋ねに答える恰好で前の訴状へ対して次のような返答書を提出している。
 伊三郎の家は流行病で一家死失し、一人残った盲目の娘は村岡村のごぜ(三味線を弾きうたを歌って銭を貰う盲目の女)の弟子とし、やがて跡相続させたいと思っていたところ、仙次郎外二人名主徳次郎と馴れ合い、断りもなく伊三郎の家財道具、屋敷、野山、竹木までも売り払い横領した。
 又、仙次郎達は潰百姓佐助方も相続人が居るのに人別を除き、私に断りもなく佐助の跡式を横領した。
 又、仙次郎達は私が役儀を勤めていては銘々の悪事が露顕してしまうことを恐れているのである。
 この様な者共に年番名主仰せ付けられてはこの上どのような悪巧みをするか計りしれないので、私は「右様之者共之支配請不申候」と答申した。
 それぞれに相手を誹謗し、己の立場を主張したが、一体地頭所の裁可はどうなったのだろうか。「明三郎申口不相立」と、返答書の抗弁は少しも聞き入れられず、「明三郎義役儀も乍相勤不行届之儀ニ付退役被仰付候」という結果となった。
 名主徳三郎は死し、明三郎は退役となっては「跡役一同で相談の上取り決め、その者の指図を受けよ」と仰せ渡された。1857年(安政4)9月、百姓要蔵・善五郎・明三郎は連印の上「済口証文」を地頭所に提出している。
 跡役は誰がなったのだろうか。事件の翌年の1858年(安政5)5月27日の文書は市川又兵衛の御林山の雑木を長井五右衛門知行所の名主常三郎が理不尽に伐木したことを訴えたものであるが、その文書の末尾に訴人の名が記されている。
     名主 源三郎
     組頭 善五郎
     百姓代 要蔵
いずれも組頭明三郎を弾劾して訴出た百姓六名の中から選ばれた人々であった。

村の法度 五人組帳

 江戸時代の農民統制は領主にとって極めて大切なことであった。この時代の経済の基本が米価であり、所有する土地からの米の収穫高(石高)が人の地位価値を決めるほどであったから、「農は国の大本」といわれ、それに従事する者の身分は「士農工商」と社会の第二に置かれていた。従って幕府・領主の農民に対する政策は重要な課題とされてきた。その一端を示すものが「法度」である。法度というのは掟(おきて)・禁令・触(ふれ)・議定等名称は区々であるが、生活を規制・拘束する法律の総称である。
 農村に対してはどんな法度が課せられたのだろうか幕府の庶民統制として知られている制度に「五人組」制度がある。五人組は五戸前後の家を組み合わせて設置されたもので、年貢の納入、キリシタン・浪人の取り締まり、日々の生活にまで立ち入って、彼等に連帯責任、相互監察の役目を負わせ、支配の末端組織として重要な役割を荷(にな)わせた。名主は「五人組帳」というものを毎年領主に差し出した。この五人組帳には組員全員が署名捺印している部分と、その前に彼等が守らなければならない法度が数々記された部分とがあり、この法度の部分を「五人組帳前書」といつている。
 1836年(天保7)、吉田村の「五人組帳」の前書を見て行こう。この五人組帳は「山本大膳版」と刻印され、木版仕立のものであり、旗本山本大膳(600石)の知行所全部へ配布されたものと思われる。
 冒頭次ぎの様に述べて、五人組のあり方をしめしている。

一、兼(か)ねて仰(あおせ)出され候通大小百姓五人組を極(き)め置き、何事によらず五人組内にて御法度に相背(そむ)き候義は申上るに及ばず、悪事仕(つかまつ)り候もの之有り候はばその組より早速申し上べく候、 (中略) 若(もし)五人組に外れ申し候もの御座候はば名主組頭曲事(くせごと)(法に背く事柄)に仰附らるべく候事

 即ち大百姓から小前、下人に至るまで全てを五人組で組織し、組員で法度に背いたものを報告させ、若し隠しておいて他から判明した時は五人組員、名主全員が処罰された。謂所五人組のあり方は連帯責任制であり相互監視で、そのことを始めに規定している。五人組帳前書の内容項目は地域、時代により区々であり数か条から五十ヵ条、百ヵ条にも及ぶものもあったが、この吉田村のものは12項目で、比較的少ないものであった。1項目は前書のとおりであるから第2項から逐条概略見ておこう。

 一、欠落(かけおち)者、あやしき者、一人(ひとり)者に宿を貸さぬこと。
  但し縁者のときは名主組頭で穿鑿(せんさく)し証人を立て許可すること。
 一、手負い(傷を負っているもの)行き倒れ(病気、疲れ、寒さ等で路上に倒れること)        の者があれば報告すること。煩っている者は看病し早速申し上げること。
 一、奉公人の請け人(保証人)には猥(みだ)りにならぬこと。
 一、浪人を抱え置くときは名主に申上げよく理解し請け人を立て手形を取って役所      役所の帳簿に記載すべし。
 一、切支丹宗門御制禁のこと。不審なる者は捕らえ置くこと。また召仕(めしつかい)等は寺請状(庶民がキリシタン信徒でなく寺の檀家であることを檀那寺に証明させた書状)を取り入念吟味すること。
 一、耕作商売もせず遠国まで遊び歩き博奕(ばくえき)賭け事を好み不似合いの衣裳を着るような不審なる者あれば早速報告すべし。一夜泊まりで他所へ外出するときでも行き先用事の仔細を名主五人組へ断るべし。
  附り、 盗人訴人は密々御役所の定めの筒に書付を入れること。
 一、鉄砲は許可ある以外所持すべからず。
 一、聟取養子取は名主組頭立合い念を入れ後日争いにならぬようにすべし。
 一、婚礼の節は貧富によらず一汁一采有り合わせの野菜肴二種に限り、過酒をせず、衣類櫛簪等は華美にならぬこと。
 一、婚礼の節は奢ることなく名主組頭の内一人立合い客は親類組合本家分家に限るべし。
 一、婚礼の節大勢にて申し合わせ途中にて妨害したり、船着場で船頭穢(え)多(た)非人祝儀をねだったりすることあれば訴出るべし。

 末尾に「月々再々読諭し悪事に移らず善事に導候様心掛け申すべし」とむすんでいるので、毎月五人組の者共へ読んで諭しこの法度を徹底させようとした意図が窺える。なおこの法度に違背したものがあれば組合員は言うに及ばず、村役人までも罰せられることが再度うたわれている。
 更に1838年(天保9)には鉄砲の再調査があり「議定連形之事」として「相改候得共鉄砲は勿論筒台似寄候品にても一切無御座候」と山本・松下・菅沼・折井知行所村々小前全員が署名捺印して報告している。鉄砲の不法所持の禁止取締りである。
 又1858年(安政5)には「議定一札之事」として「博奕宿は申すに及ばず二銭壱銭之諸勝負事一切致間敷候」と山本・松下・菅沼知行所小前役人連印して議定書を提出している。
 そして又、1866年(慶応2)、「組合村々一同相談之上議定取極御趣意左之通り」と組合村々31ヶ村が評議して次の事柄を議定し連印の上報告した。その内容は、

 一、婚礼・紐解(幼児が附け帯をやめ帯を用いる祝)・孫祝(初子の誕生祝)等の祝儀 の折酒は一切無用、婚礼のみ酒一升、客は両隣、組合総代、親類総代、村役人各一人とすべし
 一、葬儀に酒は無用、追善法事も質素にすべし
 一、諸振舞(饗応すること)の儀は相止めるべし
 一、九月九日の日待ちに客の行来を止め、初米を神仏に備える儀は家内限りとすべし
 一、正月の祝も門松も質素に、餅は支度せず、酒盃一切無用、年頭品は紙一折とすること
 一、村々の付き合いと称して良いにつけ悪きにつけ酒を用いたが今般取極め候上は致さざること
 一、日々の食物なるべく粗食相用うべきこと

の七項目だが、祝儀不祝儀、年中行事付き合い、日々の食生活まで細かく規定している。
 吉田村の五人組帳を中心に幕末の村の法度をみてきたが、要するに切支丹宗の制禁、博奕の厳禁、鉄砲不法所持の禁止、祝儀不祝儀日常生活の質素倹約、浪人部外者の排除対応等々が中心になっていた。
 思うに、幕府は天変地災(旱天・大水)から飢饉となり困窮疲弊の農民が一揆を企て、欠落、逃散した農民が浪人博徒に操られて騒乱を起こすことを恐れて、治安の維持のためこの様なやや過酷とも思われる法度が定められたのであろう。

明治時代のムラ規約

 江戸時代から農民に対する法令・生活規範を示す掟は数多あった。
 1643年(寛永20)、田畑の売買を禁ずる「田畑永代売買の禁」、1649年(慶安2)「諸国郷村江被仰出」という副題付で、農民生活を三十二ヶ条にわたって規制した「慶安の御触書」*1、そして寛永年間、五人組制度(5軒を一つの単位とする相互扶助的行政制度)が整えられてからは五人組帳が数年毎に書かれるようになった。その前書に法度の遵守、貢租の完納、治安の維持、キリシタンの禁止等農民の厳守すべき事柄が示され、これに対し五人組が連署して了承させられてきた。こうした法令・触書・取締条項はいずれも幕府の「農は国の大本」、「農民は生かさず、殺さず」の方針に従って作成され、農民達は一方的にこれに従わされて来た。
 明治期に入ってもこうした意向はあらかた踏襲されていったが、部落単位、小字単位で農民自身の手になる掟が創られるようにもなってきた。ここに挙げる「広野村下郷規定」はそれに当たるものであろう。これは1884年(明治17)12月15日定められたもので、広野村の中の下郷地域にのみ通用する規定であった。小前総代栗原保之丞が中心になり、19名が連署している。おそらく当時下郷は19軒で構成されていて、全員が賛同したということだろう。掟、規定がどうして出来るのかというと、その地域の中での社会生活を円滑に行っていくための約束が必要になった時、或いはある方針を徹底遂行しようとする時に成立する。
 この規約の場合、文末に次の様な一節がある。「村方下郷是迄不極リ(ふきまり)*2ニテ落葉掃取草刈等ノ義ニ付度々(たびたび)苦情(くじょう)申者有之候、近頃(ちかごろ)又私が総代人ニナリタルヲ以テ右等之義ニ付書面ヲ差シ出ス者アリ或ハ苦情ヲ唱(とな)フル者有之候ニ付」と、即ち、肥料となる落葉を勝手に掃取るものがいたり、飼料としての草を気侭に刈ることへの苦情が絶えなかったことが、この規定を創った理由である。
 定めの条項は5つで、落葉掃取の日限を定める事、他人の所有地に入って、野荒(田畑の作物を荒らし取ること)したものは見つけ次第通報する事、野荒人からは50銭とる事、馬入道や道端の落葉掃取は自由とする事、草刈でも芝刈でも一切野荒にかかるものは見付け次第科料(50銭)とする事である。決め事はさしたる事ではないように思われるが、当時の人々にとっては困り果てた事柄だったのであろう。
 なお、この決定に当たっては住民皆が参加して協議し、不参のものには分かり易いように全文仮名をつけて回覧している。承諾の捺印についても、印形は大切な品なので追って日時を定め、「拙宅(総代の家)」へご持参の上捺印するようにと、細かく配慮している。又「別紙規定ノ通二而者差支ノ御方も可有之ニ被存候ニ付集会ノ節ノ相談ニ而若し差支ノ者ハ地主ニ話シ貰ヒ置クベシト申し候間、是亦添へて申上置候」とあくまで丁寧に、承服出来兼ねる者は申し出るように伝えている。
 維新以来政治の体制が大きく転換したとはいえ、この規定の内容、制定に至る過程等見るに、実に丁重で、かつての幕政時代の上意下達式の法令、規定とは大きく様変わりし、農民達自身が自分達のために作成した様子が強く感ぜられる。
 降って1905年(明治38)に作られた「規約書」は前者とは大分趣を異にして江戸時代の上意下達的に作成されたものと思われる。この規約の制定された年は日露戦争中であり、日清戦争後国家経済は逼迫し、その上未曾有の大戦に突入した訳で、国家全体の経済負担は著しいものがあり、勢い国民の末々に至るまで節約・倹約が強制されるに至った。こうした国家統制といった背景からこの規約は作成されたものである。1905(明治38)2月12日に七郷村長久保三源次は「目下時局ノ大勢ニ鑑ミ」として、歳末歳首について餅搗・回礼・〆飾り・来客への酒食献酬を禁じ、「其他諸事質素ヲ旨トスベシ」と、各地区の常設委員へ通達している。この主旨を戴して規約は作成されたのだろう。なお同様の規約は大蔵・千手堂地域にも存在しているので、行政機関からの指示指導があって成立したものと考えられる。
 内容はとかく華美になり勝ちな「祝儀」の簡素化を規定し、祝い事の席には客を招かないか、少数とし「酒ハ三杯ニ限ル」と極端に制限している。また、見栄を張る風潮にあった「葬儀」についても、念仏玉(供養のためにくばられる菓子と小銭)の遣り取りを禁じ、忌明・年回も客は親戚縁者のみに限定し、「穴掘リ人足(墓穴を掘る人)ハ四人ト定メ、穴場ノ酒ハ一升ニ限ル」と細かく規定している。また、当時農村部で盛んに行われ、農民達の唯一の楽しみとなっていた講・日待についても、新規の講(社寺を参詣する同好者の組織)をつくることは見合せ、各社寺への代参人は一講につき一人、代参なき日待は全廃と制限した。夜明かしで酒宴を張った男の日待(田植え・稲刈り・正月・庚申等)は規定から省かれたが、「婦人の遊日待ハ壱年一回ニ限ル」とした。男尊女卑感の強かったこの時代においては女性の遊楽は冗費と考えられていたのだろう。そして最後に前出した他人所有の山林での落葉掃採・柴草刈の禁止を定めている。
 文末には内田蔦五郎他49名が署名捺印しているが、これは前出の署名とは異なり江戸時代以来の慣行によった請書(うけしょ)としての署名捺印と思われる。
 この規約は非常時とはいえ全体として極めて厳しい、ゆとりのない規定であり、農民の生活を厳しく規制するものであった。そしてこうした傾向はこの後も永く生活規範のなかに君臨していったのである。

 *1:慶安の御触書(けいあんのおふれがき)は、1649年(慶安2)、江戸幕府が農民統制のために発令したとされてきた文書。現在では1697年(元禄10)、甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が、慶安年間出された幕法であるとして広まったものであると考えられている。
 *2:体裁がわるいこと。きまりがわるいこと。

嵐山町制施行記念で作成された手拭い 1967年4月

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菅谷村が嵐山町になった1967年(昭和42)4月に配られた手拭い

新編武蔵風土記稿嵐山町分目次

  古里村(巻之百九十四 比企郡之九)

  吉田村(巻之百九十四 比企郡之九)

  越畑村(巻之百九十四 比企郡之九)

  勝田村(巻之百九十四 比企郡之九)

  広野村(巻之百九十四 比企郡之九)

  杉山村(巻之百九十四 比企郡之九)

  太郎丸村(巻之百九十四 比企郡之九)

  菅谷村(巻之百九十五 比企郡之十)

  志賀村(巻之百九十五 比企郡之十)

  平沢村(巻之百九十四 比企郡之九)

  遠山村(巻之百九十三 比企郡之八)

  千手堂村(巻之百九十四 比企郡之九)

  鎌形村(巻之百九十一 比企郡之九)

  大蔵村(巻之百九十一 比企郡之九)

  根岸村(巻之百九十一 比企郡之九)

  将軍沢村(巻之百九十一 比企郡之九)

  ※嵐山町内を流れる川(比企郡・横見郡総説より)

嵐山町内を流れる川 新編武蔵風土記稿

都幾川 郡ノ中程ヲ流ル。水源ハ秩父郡大野村ノ山間ヨリ出、郡中慈光山ノ渓澗(けいかん)ヨリ湧出スル清水ト合シテ一条ノ川トナル。慈光山ヲ都幾山ト号ス故ニ此川ヲ都幾川ト号スト云フ。又郡西別ニ槻川アリテ下流、コノ川ニ合ス。トキトツキトハ音モ近ク似テマギレヤスシ。『源平盛衰記』ニ木曾越後ヘ退キシニ頼朝勝ニ乗ニ及ズトテ武蔵国月田川ノ端(はし)アヲトリ野ニ陣取トアリ。今下青鳥村ハ郡ノ中央ニテ則コノ川槻川ト合セシヨリ遙二下流ノ崖ニアリ。サレバ彼記ニ月田川ト記(しる)セシハ此川ヲサスコト明ラカナリ。田ノ字モシ衍字(えんじ)ナランニモ当時下流マデツキ川と号セシナラン。サレド今ハ槻川ト合テヨリ下流ハスベテ都幾川ト号シテ槻川トハイハザルナリ。此水流都幾山ノ下ヨリ艮(うしとら)ヘ流レ鎌形村ノ北ニテ槻川トアヒ、東流シテ又巽(たつみ)二ヲレ上井草村ノ西ニテ越辺川ニ入ル。川路七里バカリ上流ハ山間ナリ。下流平地ノ間ニハ堤ヲ築キて水溢(すいいつ)ニソナフ。河原ノ濶(ひろさ)二百間水清浅ナレバ所々ニ歩行(かち)渡スル所アリ。冬春ノ間バカリ橋ヲ架シテ往来ヲ通ス。

槻川 西ノ方ニアリ。水原ハ秩父郡白石村ノ山間ヨリ出、郡中腰越村ニイリ東ノ方ヘ屈曲シテ小川村ニ至ル。此所ニテ兜川ト云フ小流ト合シテ一トナリ、鎌形村ノ北ニ至リテ都幾川ニ入ル。水源ヨリコヽニ至リテ三里バカリ、川幅大抵五十間。

市ノ川 郡ノ中央ヨリ北ニヨリテアリ。水源ハ男衾郡無礼村溜井ノ余水、巽(たつみ)二流レ郡中高見村ニ入リ、是ヨリ大抵東流シ松山町ノ北ニ至リテ北ニヲレ、又東ニ曲リテ横見郡トノ郡界ヲヘテ鳥羽井新田ノ北ニ至リ猶東流ス。コヽヨリハ泥川トナリテイヨイヨ郡界ニソヒ、小見野郷十ケ村ノ地ニ至リテ荒川ニ入ル川幅十間程。此川昔ハ鳥羽井新田ノ北ヨリ艮(うしとら)ノ方、横見郡ノ地ヘ流レシヲ享保八年(1723)井沢惣兵衛鈞命(きんめい)ヲ受ケテ、今ノゴトク郡界ヘ新川ヲ穿(うが)チシヨリ水流カハリシト云フ。故ニ今鳥羽井新田ヨリ下流ハ新市ノ川ト呼ベリ。ソノ辺ハ霖雨(ながあめ)スレバ水溢(すいいつ)スル故堤ヲ築キテ是ニソナフ。此川スベテ屈曲多シ。大凡(おおよそ)九十九曲ニ及ブ。コレヲ延(のべ)てハカレバ川路二十里ニ及ブト云フ。

滑川 水源ハ吉田・古里ノ二村ノ悪水流レ、古里村ニテ一条トナリ。三里バカリ流レテ、松山町ノ北ニテ市ノ川ニ入。スベテ砂利川ナリ。


   新編武蔵風土記稿比企郡之一総説

    『新編武蔵風土記稿16 比企郡・横見郡』21頁〜22頁

      (新編武蔵風土記稿刊行会、修道社発売、1957年1月発行)

空から見た嵐山町 392 関越自動車道 2011年11月

関越自動車道
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2011年11月26日、内田泰永さん撮影

A:水房橋、B:下中郷橋、C:広野中郷橋、D:関越自動車道嵐山小川インター料金徴収所、E:愛宕橋、F:立山橋、G:嵐山パーキングエリア(上り線)(関越自動車道)
H:滑川町立月の輪小学校(滑川町月の輪6)
I:千代田メモリアルランド、J:おおむらさきゴルフ倶楽部(滑川町中尾)
K:嵐山町立菅谷中学校、L:嵐山町立菅谷小学校、M:大妻嵐山中学校・高等学校、N:東武東上線嵐山駅(嵐山町菅谷)
O:明星食品嵐山工場(嵐山町川島)
P::嵐山町立志賀小学校(嵐山町志賀)
Q:嵐山町役場、R:嵐山町立玉ノ岡中学校(嵐山町杉山)
S:嵐山町立七郷小学校(嵐山町吉田)

武蔵国郡村誌嵐山町分目次

  古里村

  吉田村

  越畑村

  勝田村

  広野村

  杉山村

  太郎丸村

  菅谷村

  志賀村

  平沢村

  遠山村

  千手堂村

  鎌形村

  大蔵村

  根岸村

  将軍沢村

嵐山町制施行記念手拭い 1967年4月

嵐山町制施行記念手拭い
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1967年(昭和42)4月15日

→「嵐山町歌・嵐山音頭が制定される

→「古い写真 嵐山町歌・音頭発表会が行われる 1967年12月

嵐山町母子愛育会合同研究会『嵐山町における保健福祉問題』 1968年

 嵐山町は、昭和41年(1966)度に「保健福祉活動推進地区」に指定。母子愛育班がこの活動の推進組織である。
 指定当初から、従前からの母子愛育班の活動そのままが、当町の保健福祉活動であるという型で進行。
 この間の活動で、優れた実績がある。例として、年1度開催の“嵐山町母子愛育会合同研究会”である。この研究会は班員たちが自主的に、自己の体験、活動経験、研究成果を発表する場である。
 この研究会では、自分たちの農作業時間調査、農家の過重労働と妊産婦の問題、共働き世帯における育児、保育の問題など、母親たちの当面し切実な課題と活動を明らかにした。
 これらの課題は、ひとり母子愛育班の努力では解決しない。多くの町民の理解と協力を得ることが絶対必要となり、地区組織活動の大切さが出てきた。
 昭和42年(1967)度には、アンケートを実施し、活動に班員の要望をとり入れる所もでてき、昭和43年(1968)度当初、菅谷、七郷地区の役員は合同協議し、これからの地区組織活動のすすめ方について話し合う。
 その結果、次のような活動目標が明らかになった。

 1 料理講習―離乳食、幼児食、成人病食中心の講習
 2 乳児相談―若夫婦だけの世帯で希望
 3 血圧測定―部落毎に実施希望
 4 育児教室―平沢団地で3ヶ月に1回実施
 5 虫歯予防―予防の知識について講習
 6 鉤虫対策―集団的に駆虫まで行う
 7 環境衛生―環境衛生とは何かの知識を学ぶ
 8 レクリエーション―地区住民の親睦、年寄りと若い人の交流
 9 地区座談会―会員全般に組織活動と理解、徹底
10 ごみの処理―ハエ等の駆除、危険物の処理

 その後、各地区ごとに座談会がもたれ、新しい問題や要望が出された。「子どもの遊び場が必要」「保育所が欲しい」「側溝にふたをし道路の巾を拡げてほしい」等である。

 世の中全体が変化しているように、嵐山町も変り、地区組織活動にも変化のあらわれがある。
 ,澆鵑並針擦砲覆蝓¬魄のなり手がない。人が集らないので会合が開けない。
 ∋劼匹發魄蕕討△欧真佑楼Π虍匹亡愎瓦鬚發燭覆ぁ

 今後、嵐山町の地区組織活動、保健と福祉の諸施策を一層着実にすすめる必要がある。このために、母親自身、父親、町民の多くに魅力を感じさせる活動や、諸施策をうちだす。この内容に、みんなの生活が求めるものを盛りこむ努力が必要である。
 会員や町民に、たえず町民の生活や健康の実態を知らせ、広げ、深めていくこと。そして、みんなで一緒に話しあい、考えあい、求める課題を決めていくようにする。

 嵐山町には、町民の健康について次のような問題がある。

 1.人口動態年次別推移

  年度   出生率  乳児  新生児     死産率
            死亡率 死亡率  総数  自然  人工
  昭38      15.6      27.8     6.9      58.8    32.7    26.1
   39      15.8      20.3     6.8      63.3    44.3    19.0
   40      16.5      19.2    19.2      31.1    31.3      −
   41      11.9      60.9    26.1      72.6    64.5     8.1
   42      17.9      11.4     5.7      33.0    27.5     5.5
 東松山保健  18.4   22.7    14.9   56.1  41.7   14.4
 所管内   
 昭41県全体    16.5      20.5    12.6      53.1    44.2     8.8

 乳児、新生児死亡率そして死産率とも、昭38年(1963)当時と比べ低くなっている。保健所管内平均値、県全体とくらべても、非常によい傾向にある。
 推進地区の指定期間中にこのような前進があった。
 また、出生率は増加している。町全体の人口は、昭和41年(1966)9587人。昭和43年(1968)9944人。
 人口増加の原因は何かとか、町の人口構成は年令階層別にどうなっているかを見きわめながら、これからの福祉や衛生の問題と、それに対する対策を考えていく必要がある。

 2.嵐山町の病因別死亡状況

地区別    年別         病因別        死亡総数
            脳卒中 悪性腫瘍 心臓病 肺炎 事故
菅谷地区   昭41      31.7      7.3    24.4  4.8  12.2     41
       昭42      30.3     24.2     9.1  3.0   9.1     33
七郷地区   昭41      29.7      3.7    18.5  7.4  18.5     27
       昭42      38.4     11.5    30.8  3.8   3.8     26

 菅谷地区では、死亡の割合は減っているのに、悪性腫瘍のみが急激に増え、七郷地区では、肺炎、事故を除き、その他の全ての割合が高くなっている。何故なのだろうか。
 両地区の42年(1967)の状況では、心臓病、脳卒中、肺炎が七郷地区の方が多く、悪性腫瘍と事故による死亡は菅谷地区に多い。
 両地区の住民の家族構成、年令構成、職業構成、就業の形態など、生活の様相や環境に即して原因を明らかにし、対策をたてることが望ましい。過去からの踏しゅうだけの対策だけでなく、いろいろな活動を寄り合わせ、その上で総合的な成果を得るようにする。

 3.嵐山町における国保診療による疾病分類

   区分           受診件数       費用額
分類↓   年度→            37     39    43       37    39     43
伝染病疾患及び寄生虫病       8.9    2.8    4.6      9.6    3.6    3.8
結核(再掲)                 1.8    2.0    0.8      4.4    2.9    1.7
悪性新生物                   1.1    1.3             6.0    6.8    0.9
内分泌、栄養、代謝の疾患     3.0    4.4    0.9      2.7    4.4    0.6
血液、造血器の疾患           0.4    0.2    0.2      0.5    0.1    0.2
精神障害                     0.9    0.9    1.3      2.7    4.0    6.6
神経系感覚器疾患            13.4   14.8   13.7      9.8   10.6    8.7
眼の炎症性疾患(再掲)       6.5    6.2    3.6      4.0    3.2    1.4
循環器系の疾患               9.7   10.9   17.0     12.0   14.0   24.8
高血圧疾患(再掲)           8.7    8.6   10.0     10.5    9.5    9.3
呼吸器系の疾患              14.5   14.4   19.7      7.8    7.2   15.8
感冒、気管支炎(再掲)       9.3    8.1   14.4      3.0    3.9    8.1
消化器系の疾患              26.7   28.9   22.0     27.0   31.4   17.6
歯牙疾患(再掲)            14.6   16.5   13.0     11.4    8.3    6.7
胃及び十二指腸(再掲)       3.0    5.5    6.8      3.0    5.3    6.7
性・尿器系の疾患             3.3    2.6    2.8      3.1    1.4    2.4
妊婦分娩・産じょく合併症     0.5    0.5    0.6      3.5    1.0    4.7
皮ふ・皮下組織疾患           6.6    6.4    9.3      3.7    2.9    4.9
筋骨格系結合組織             6.3    3.4    6.6      7.6    4.1    5.5
症状・診断不明確             0.1    0.1    0.6      0.5    0.2    0.4
不慮の事故・中毒・暴力       4.5    8.4    2.7      3.0    8.3    3.1

 伝染病は減少し、感冒やいわゆる成人病疾患は増。母と子だけでなく、家族全体の健康対策に一層具体的な努力が望まれる。

 4.嵐山町の国保加入状況

              世帯         人口
区分    総世帯数 国保加入世帯 加入率   総人口 国保加入者数 加入率
嵐山町        2131      1408    66.0      10252    5778      56.0
七郷地区       600       504    84.0       3288    2311      70.0
菅谷地区      1531       904    59.0       6964    3467      49.7

 一般的に、純農村に加入率が高く、当町でも七郷地区は高い。菅谷地区は、勤人の移住、商店・工場の増加に伴ない健康保険加入率の方が伸びる。
 当町では、都市化の傾向があり、活動も都市型の社会福祉への転換を迫られてこよう。

 5.結核患者、結核検診の状況

○結核患者登録の現状
 年度別 登録患者数     新登録患者の発見方法
           総数   医療機関   住民検診  その他
 昭38      77        15        9           5         1
 昭39      81         8        8
 昭40      90        13        8           2         3
 昭41      93        13       12           1
 昭42      94         7        5           2

 ○結核健康診断の年次推移
 区分↓  年度→  35    36    37    38    39    40     41    42
該当者数          1913  2239  2014   2856  1740  4106  4967  4804
受検者数          1894  2037  1620   1770  1305  2967  3213  3236
受診率             99.0  90.9   80.0   62.2   75.0  71.6   65.4   67.3
患者発見割合       0.13  1.17   1.85   1.52   0.15  0.06   0.04   0.07

 結核検診の受診状況は良好である(県平均22%)。しかし、最近の受診率は低下し、患者発見の割合も低くなっている。
 受診率の減少や未受診者をどうするか、充分検討する必要がある。

 6.嵐山町の鉤虫状況

○鉤虫対策地区検便成績
 区分→  地区     該当者数  被検査者数  鉤虫卵保育者数
年度↓                実数    %   実数    %
昭35  広野・越畑           937      930    99.2    219    23.4
 36    広野・越畑・鎌形    1805     1685    93.3    592    35.2
 37    大蔵・根岸・将軍沢   879      732    83.2    258    35.2
 38    志賀・吉田          1096      921    71.5    343    37.2
 39    川島・平沢・千手堂  1005      619    61.6    162    26.2
       遠山
 40    古里・勝田・杉山     958      657    68.5    266    40.4
       太郎丸

○鉤虫保有卵者の駆虫状況
  区分→  該当数   駆虫実施者数   陰転率
年度↓          実数  %
昭35     219    175  79.9    81.8
 36     592    458  77.3    97.1
 37     258    202  78.2    91.0
 38     343    277  80.7    91.2
 39     162    120  74.0    92.6

 卵の保有者数は多い。駆虫は冬場をねらい、地域住民に具体的な資料を出し理解と協力を得、地域ぐるみで行う必要がある。単に投薬だけでなく、生活改善の問題ともからめて、駆除対策を考えていく。

 7.嵐山町の妊婦検診

○妊娠届出状況
年別   届出総数  医師証明  助産婦証明     妊娠月数
                        4ヶ月まで 5ヶ月以降
昭40   136    63(46.3%)  73(53.7%)   21     115
 41   153    78(51.0%)  75(49.0%)   53     100
 42   188    119(63.3%)  69(36.7%)   69     119

○妊婦健康診査結果
年度別   受診妊婦数  異常のあるもの(高血圧、蛋白尿、浮腫)
                実人員     %
昭39     86         24      27.9
 40     44          7     15.9
 41     23          6     26.0
 42     27          5     18.5

 4ヶ月までの早期届出が徹底している(県全体74.3%、東松山保健所管内は72.7%)。
 受診率は15%程度で低い(県全体49.3%、保健所管内51.7%)。届出に対し受診者のすくないのは、医療機関で受診するためであろう。助産婦から医師へ移る傾向である。

 8.乳幼児一斉検診

年度別  該当数  受診率       発育状況    要健康指導
               総数  大  中  小
昭38   264   85.6   226  76  69  81   33
 39   156   94.2   147  49  38  60   −
 40   104   89.1    91   15    73   3     −
 41   153   86.9   133  54  49  36   −
 42   146   82.8   121  65  35  21   −

 発育大の傾向は、保健指導の徹底効果である。受診率は低下の傾向にある(41年県平均61.8%、保健所管内71.6%)。この原因を追究する必要がある。

 9.3才児検診の状況

年度別 該当児数 受診率    発育状況      要健康指導
            総数  大 中 小  身体面 精神面 虫歯あるもの
昭38  164  91.5  150 43 44 63  −   −   139
 39  148  89.2  132 39 48 45  −   −   121
 40  135  89.6  121 31 40 50  −   2   114
 41  174  92.5  161 62 37 62   1   −   142
 42  175  87.4  153 70 46 37  −   −   125

 検診は41年(1966)県全体で64.8%、保健所管内79.9%の受診率であるが波があるのは何故か。
 虫歯のある児童が非常に多い。家庭教育を徹底し、治療を促進する必要があろう。

 10.成人病検査状況(含老人健康診査)

年度別  受診者数     精密検診内容     地区別
           受診者数 要医療 要注意
昭38   215     62   51   11   七郷地区
 39   199     45   26   14   菅谷地区
 40   183     51   36   15   七郷地区
 41   225     76   66    9   菅谷地区
 42   231     52   31   21   七郷地区

 要医療者が多い。特に農村部の成人、高令者の疾病原因を明らかにして、保健衛生対策の強化が期待される。

※参照:「嵐山町の母子愛育会活動 1960年代」、「愛育班を育てましょう 1960年」。

官営富岡製糸場の伝習工女 越畑村からも参加

  開国によって生糸の輸出が盛んに
 江戸幕府は、1854年(安政元)に日米和親条約を結んでアメリカに門戸を開き、さらに1858年(安政5)には日米修好通商条約を結んでアメリカと通商する体制に入った。同じような条約がイギリス、ロシア、オランダ、フランスとも結ばれ、200年以上にわたる幕府の鎖国政策は終りを告げた。自由貿易港の一つとして横浜港が開かれると、蚕種、生糸、茶などが欧米各国に盛んに輸出されるようになった。
 埼玉では最初は蚕種の輸出が主流だったが、やがて生糸の輸出が盛んになった。生糸の生産は、児玉・大里・秩父・比企・入間の各郡で盛んになった。


  政府は官営模範工場の建設へ
 生糸と蚕種の輸出は明治政府にとって重要だったが、輸出が盛んになると粗製濫造のものも出回るようになった。政府はそれを防ぎ、海外市場での競争力を強めるため、新しい製糸技術の習得と普及をめざすことを決意し、1872年(明治5)群馬県の富岡に、官営模範工場として富岡製糸工場を建設した。
 官営模範工場の基本的な考え方は、次の三つであった。一、洋式の製糸機械を導入する。二、外国人を指導者とする。三、全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地にもどり地元の指導者とする。
 フランス人ポール・ブリュ―ナは、製糸場の建設、フランスからの技術者集め、そして工場運営の指導者として活躍した。今も富岡に残るブリューナ館は、彼が家族とともに住んでいた建物である。


  製糸場で働いた工女たち
 1872年(明治5)に製糸場は開業されたが、最初は製糸工女がなかなか集まらず大変だった。フランス人技師がブドウ酒をよく飲んでいたことから「生き血をとられる」という噂が広まったからといわれていた。渋沢栄一の従兄で、初代富岡製糸場長の尾高惇忠(おだかあつただ)は自分の長女勇(ゆう)を工女として入所させ、自分の出身地手計村(てばかむら、現深谷市)から広く工女を勧誘した。
 富岡製糸場の「工女名簿」によると、養蚕の盛んであった入間県(熊谷県)から、1872年(明治5)の年末までに93人が入所している。そのなかに嵐山町域からはただ一人越畑村の福島作(さく)が入所している。旧埼玉県から1872年に入所したのは、桶川宿からの5人だけだった。そのため旧埼玉県参事白根多助(しらねたすけ)は、1873年(明治6)に管内の各区に対して、工女を入所させて修行させるようにという通達を出した。養蚕の盛んであった入間県と違って工女を集めるのは大変だったようである。その結果、1973年だけでも69人の工女が入所した。しかし士族の娘が圧倒的に多いのが注目される。それに対して、入間県から入所した工女は、士族の娘が2人だけで、それ以外は農家の娘と思われる。最初の2年間に入間県と旧埼玉県から入所した工女は延べ178人で、長野県からは180人、群馬県からは170人だった。
 こうした工女の一人として越畑村から先にのべた福島作が1872年(明治5)9月に入所している。24歳だった。工女は16歳から18歳が多かったので、リーダー格で働いたものと思われる。伝習を終了した工女は地元に帰って指導者として活躍するというのが模範工場建設の基本方針だったので、工女は1年から2年で退所している。越畑村の福島作の場合は74年(明治7)5月に退所している。1年9ヶ月の間工女として働いたことになる。越畑村に戻ってからの具体的な活動については、記録が見つかっていないのでわからないが、おそらく地元で養蚕の指導者として活躍したものと思われる。伝習工女は近代日本の産業の基礎を築いた人たちだった。


※参考資料「富岡製糸場県内出身工女一覧 明治五年〜二四年」
        (表紙)「工女名簿」
       (新編埼玉県史 資料編21 近代・現代3 農業・経済1)

古い写真 菅谷・七郷・唐子青年学校特別訓練査閲 1942年9月

菅谷・七郷・唐子青年学校特別訓練査閲記念写真
市川貢家122
1942年(昭和17)9月10日、菅谷国民学校玄関前で撮影

※当時の新聞記事
●「青校特別訓練を査閲 青年教育振興を目指して青校特別訓練が実施され偉大な成績をあげてゐるとき、県では県下の青校査閲を実施することになり九月十日午前八時比企郡菅谷青年学校で青校特別査閲を実施する。これは査閲実施に際しその方法を全査閲官が集まって決めるもので、この日特に師団長、知事、聯隊区司令官等も臨席する。なほ指導査閲の行はれる菅谷青校は県下切っての模範学校である。」(『東京日々新聞』埼玉版8月23日)

●「比企三ケ村の査閲 比企郡菅谷、七郷、唐子三ケ村青年学校教練特別訓練査閲は十日午前八時半から菅谷青年学校庭で行はれた 臨席官として師団長豊島房太郎中将、原副官ほか兵務部員数名、東京聯隊区から鳥海大佐、横須賀聯隊区から後藤少将ほか部員数名、浦和聯隊区より藤田少将ほか査閲官全員が臨席、県からは大津知事始め福森青年教育官、郡下町村長、学校長、有志多数が出席、受閲生徒は三ケ村四百廿名査閲官藤田賚三中佐の指揮で閲兵にはじまり十時半全員の閲兵分列、試問、訓辞その他があって正午終了、午後一時からは県下査閲の基本研究会が開かれた。」(『東京日々新聞』埼玉版9月11日)

※当日(9月10日)の青年学校生徒の日記
菅谷青年学校本科5年 吉野孝平
埼玉縣標準指導査閲。7時集合。査閲官は藤田中佐殿。師団長、聯隊長(浦和)、地方長官臨席せり。菅谷、七郷、唐子青年学校校長以下四百餘名

菅谷青年学校本科3年 吉野勇作
今日は愈々待ちに待った査閲の日だった。五時半頃登校。七時から始まる筈である。七時前司令官が自動車で学校についた。六時四十■で師団長外大勢ついた。奉迎の体形から玄関前にあつまって国家奉唱、勅語奉読。この時おくれて知事がついた。宮城遥拝等にはじまった。終って閲兵、教練、研究科まで終って、五分小休止。水をのむ間位だった。だんだん陽がつよくなってきて汗が流れる。体操にはじまって競技、牽引、俵運。終って戦闘教練、分列、朝の体形に集まって査閲官の試問、訓辞。司令官、師団長、大津知事等の訓辞で聖壽萬歳で終った、一時だった。訓辞としては七郷校がよかった。菅谷、七郷、唐子指揮者以下四百五十何名かだった。神社でひるを食って半日なのでかへる。……

菅谷青年学校本科2年 冨岡寅吉
早く起きて蚕に桑くれをした。早く学校へ行った。査閲官殿と浦和レン隊区指令官がお見えになった。師団長閣下、県下査閲官殿がお見えになった。十二名。不動の姿勢、敬礼、速足行進で早く終った。昼に廻ってから終った。(→「冨岡寅吉日記 昭和17年9月)
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