「三峰紀行草」は旗本三枝(さえぐさ)家の家臣松岡本固が主君の代参として江戸より三峯神社へ旅をした折の旅日記(紀行文)である。
先ず何故に松岡本固は主命を奉じて三峯神社に代参したのか。文化文政期頃「三峯講」というものが関東一円に盛行していた。三峯講というのは山犬信仰ともいわれ、「社記」によれば享保12年(1727)9月の夜、日光法印と云う方が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼の群がやってきて境内に満ちた。法印はこれを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬(狼)の神札を与えたところ霊験があった。この山犬が神の御眷属であり、その護符によって農作物を守り盗賊や災難から身を守ろうと「講」が組まれ、代表が護符を受けるために三峯神社詣が流行した。
旗本三枝家でも紀行文に述べられている様に「封邸(知行屋敷)都(すべ)て災異のこと無らん為」或は「本支(本家・分家)の榮福臣庶(家来・百姓)の安全を祈り給ふ」の故をもって幣をささげ、護符を受ける事を毎年の業としていた。即ち御眷属信仰の「三峯講」の代参として本固が派遣されたのである。
この旅は松岡本固(まつおかもとこ)が従者(官二)(かんじ)を伴って、文化5年(1808)3月16日に江戸を発って3月24日帰着した9日間の旅の記録である。先ずどの様な行程であったか追って見よう。
16日 三枝邸(市ケ谷加賀町)―曹子ケ谷(雑司ケ谷)―池袋―金井ケ窪―前野―中窪―下板橋―錬馬(練馬)―河越(川越)方面―白子―野火止(平林寺)―膝折・大和田―大井(大和侯領内)−石原―川越(城)泊
17日 川越(笠山遠望)−/入間川/―平塚―塚越―石井―島田の渡し<越辺川>―三戸―日彩原(にっさいかはら)(入西)・餅搗原―比企の岩殿観音(秩父第十千手観音)―郷土(ごうど)(神戸)―可楽(からく)(唐子)―菅谷(すがや)―小川 泊
18日 小川―腰越―帯澤―小草(おぐさ)―坂本―三沢(官地)|粥煮嶺(かゆにとうげ)|―栃谷(とちや)(妙音寺・秩父第一番の観音寺)−大原野(三沢から此処まで阿部忍侯の封)−右第23・左第21番の観音寺―大宮(秩父)―第13自現寺 井上茂十郎の館 泊
19日 大宮(武甲遠望)−禅刹金仙寺―影森―平沢―久奈(久那)−第27観音―上田野―/荒川/―三峯方面―小野原(牧野大和守の封)―日向(ひなた)(官地)ー酒店の前石表あり(三峯へ至る迄三里)/贄(にえ)川/―猪ノ鼻(阿部侯の村)ー大瀧(官地)ー強石(こわいし)―太田原(官地)ー禅刹円通寺―大和多(おおわた)―三峯山頂上―二王門(是より女人を禁ず)―院 泊
20日 三峯・本院―/贄川/―日向村―上田野村第28馬頭観音―洞天(ほろあな)ー観音(第幾番なるかを失す)ー大宮 泊
21日 大宮の館―第15番の寺―妙見の堂(木表に不許汚穢之者と)―第11番の寺(十聖人の像あり)ー三戸村・坂氷(さかこおり)−第10刹―柳生(阿部侯の封)―芦ガ窪(官地)―店(子の権現の程(みちのり)を問う 三里半と)―禅寺茂林寺―庄丸(官地)ー南川―│権現山│―華表(神社の門・鳥居)(扁に左文山・大鱗山とあり)ー中澤(官地)ー中藤(なかとう)(田安卿の封)―原市場―石倉(いしくら)―直(なお)竹(たけ)―店(青梅の程(みちのり)を問う 二里余と)―郡足(ぐんたり)―中里・黒澤―青梅、三枝氏の門 泊
22日 <三枝家に逗留> 勝沼―青梅―青梅山金剛寺―/玉川/―桃花村―大井―三枝家 泊
23日 青梅―下長�隅(しもながぶち)―雨間(あまま)―吉兆(きっかけ)・宮ノ下―赤坂―狗目(いぬめ)―│高尾山遠望│―/和田川/―四家(よつや)―旧八王子邑―八町乃原―横山原<駅―駒来関―橋頭二幡建つ是より高尾山内―七曲―宮―久野来(くのぎ)―八王子千人坊(まち)―八王子駅 泊
24日 八王子―横山―/和田川/―和田村―新田―日野―/玉川/―柴崎村・立川―藪―本村―府中(六所宮)−金井―井之頭(明静山大盛寺)―高�羔(だかいど)―邸
以上のようであった。
この頃「三峯講」はこの地方でも伊勢講や大山講と並んで行われていたようで、御眷属(山犬)信仰の護符が残されている。恐らく前掲18日19日の小川から三峯往復の行程で参詣又は代参が行われていたと思われる。以下17日・18日の両日川越から大宮(秩父)までの旅の中で見聞したこと、人情、民の生活等について見てみょう。
16日江戸を発って最初の宿は石原宿にとった。石原は川越の外れであるが、川越について次の様に語っている。国主<松平大和守>の組屋敷が七八町(770〜880m)つづき、城下町には家が千戸以上もあり、裕福な家は江戸に比べても多かつた。城は慶長の昔北條氏の要塞であったもので、名城と呼ばれているものであると。
17日川越出発に当って遠くの山々を眺めると、一際目立つ山が見られたので、村人に聞くと、俗に笠山と言い余り高い山ではないが、いくつもの国から見ることの出来る山だと云うことだった。今、菅谷の地からも笠山が遠望できる。やがて島田の渡しを渡るのであるが、これは越辺川にあった渡し舟であろう。いまは立派は木橋が架けられ、「島田橋」と云う埼玉の名物橋となっているが、古来重要な交通路であったのだろう。渡しを越えると、海かとみちがえるほど広漠とした畑の道をすすんだ。土地の農婦がいうには、余り広々としているので、自分の畑を間違えてしまうほどだと。しかも日照りの強い日は一本の木もないので木陰もなく、弁当を食べたり休むところもなく苦しむと。筆者も農民の苦しみの中でも苦しいことだろうと同情している。
やがて比企の岩殿に至る。「是所謂秩父第十千手観音即鎌倉の時の比企判官の護身仏とする者也」と記しているが、ここ岩殿山正法寺は坂東第十番の札所で「秩父」では無い。千手観音が比企判官能員の護身仏であったろう事は頷ける。門前左右に三四十戸ほどの村があり、石の階段を百段余り上って平地になり、又三四十段上って寺の庭となる。堂迂は扁平で賞賛すべきものもないが、ただお堂の後は十余丈(30m余)の切り立った嶮しい断崖で、草木も生えないような山を斬崩してお堂を建てたのであろう。里人が云うには近年八年ぐらいの事で山の上にはうつつの冥府(地獄)ありと。「浮屠(ふと)氏の誣(ぶ)なり見ることを欲せず」即ち僧侶が事実をいつわり人をあざむき、地獄があるなどと言っているので私は見たくないと、空海上人の御影だけを買って去った。近くの店に入ったが、雨激しき中人多く集まるのを不思議に思い、どうした事かを問えば「月の十八日は秩父霊場の開建の日故にこの日を開帳として村の老若僧を請じ回向す」と、「また芝居を買う、今日戯場なしといえどもその回向の為なり」と。岩殿観音は十八日が御開帳で、必ず回向(えこう)のために芝居がかかったと云う。
岩殿観音をくだってまた山に入り、棘の道を進み郷土(ごうど)(神戸だろう)を過ぎて小流を渡ると可楽(からく)(唐子か)に出た。ここは松ノ木が多く、切り倒し適当な長さに約めて積み上げてあった。薪材だろう。ここは現東松山分だが一帯松樹多く薪として江戸に送り生業としていたと聞く。ここを過ぎて山、林、原、丘をこえて二里(8km)ばかりで菅谷に至る。その間左に常に川(都幾川だろう)が見え、その岸に茆屋(茅屋=かやぶきのあばら家)が点在し、必ず上流を背にした一人用の小屋であった。不思議に思って民家に寄り尋ねると、「これは楮(こうぞ)を晒す所だ」と乾瓢のようなその皮を示して「外側は麁紙(粗末な紙)にし、内側は上品(上等な紙)とする」と。そこでその製法を聞くと「日に晒し、流れにあらい、囲炉裏火にくさらかし、のちこれを搗く」と教えてくれた。紙漉はこの地方から小川にかけての伝統的な産業であった。一里ばかり歩くと小川宿に入った。小川宿は戸数八百戸もある当時としてはかなり大きな宿場である、「富める者多し」と記しているので、豊かな町と感じたのだろう。この地はもと素麺の生産において有名だったが、今は多くを製せず、かえって近村より出していると言っているが、現今この地方が素麺の産地というようなことは聞かない。その晩は小川に泊った。
翌18日曇り空ながら意気盛んに出発した。右を山左を川の流れを見て進む。恐らく川は槻川であり、山は官ノ倉山であろう。まもなく道の左に碑を見付ける。「背に銘有村学村木春延なる者、洪水の為に道を修の事を自誌也」と、即ち田舎の学者である村木春延が洪水で失った村の道を修復したと云う事跡を自記したものであった。ただ文章は簡潔であるが称讃するようなものではなく、しかも末尾に地名を記さず、「当所」としたのは卑俗だと酷評しているが、「然れども避邑(かたいなか)此人ある亦懐(おもう)へし」村木春延を忘れてはならないと諭しているが、今はどうなっているのだろうか。
道は槻川の本支流に沿い腰越―帯澤―小草―坂本と進んだが、途中何度も川を渡らねばならず、その度に話題をうんだ。この辺りに架かっていた橋は多く土橋(圯はし)で増水のためか落ちて、修理されていない状態だった。最初にめぐりあった川は「広さ七八丈瀰漫深浅をしらず」即ち川幅21mから24mでひろびろとみなぎり深いも浅いも分らなかった。困っていると子供たちが渡って行くのが見えて、これに従い渡ることが出来た。次にまた川に出逢い、土橋もまた落ちていた。前の川の上流だが流れが激しく、向う岸で洗濯をしている村の婦人を見つけ、渡しのことを聞いたが声届かず。逡巡して困っていると、向うから一人の裸の男が渡って来て私を背負って渡してくれた。「地獄に仏を拝する者是か」と大いに喜び、感謝した。また土橋の落ちた川に逢う、粗末な一軒の家に行きつき、川渡りの方法を問う。「従者(官二)が先ず試しに渡り次いで私を背負って渡ってはどうか」と。ある人が云うには「背負って渡るのはだめだ。一つ間違えば二人とも失敗する。相携えて渡るにしかず」と。「これは兵法にいう魚貫(ぎょかん)(魚を串に刺したように連ねるさま)して渡るの理である」と、大いに悟りこれに従って渡ることが出来た。当時旅人にとって橋の無い川は旅の大きな障害となったことだろうが、山間の人々の情や知恵に助けられた。坂本宿を過ぎ三沢に着いた。
茅葺の貧しい一軒の茶店あり。腹が減ってきたのでここに入り飯を注文したが、みすぼらしい衣を着た百歳にもなろうかと思われる爺が出てきて、飯は無いという。飯の出来るあいだ爺が語って聞かせてくれた話。ここの山上り下り三里を粥煮嶺と云う。鎌倉のころ、ここに角王と云う鬼がいて人を取って食らうということがあった。庄司重忠(畠山)がこれを討伐しようと願いい出て、「右府も亦卒を発す」とあるが、右府は右大臣のことで織田信長を指すことが多い。源頼朝が右近衛大将だったのでそれと錯覚したのだろう。とにかく重忠は頼朝の応援をえてこの山に陣を布いたが、山に布陣する時は兵を損ねる、即ち病にかかること多いのに配慮して、粥を煮て糧としたという。粥煮嶺の名ここに起こる。竈の跡山の乾(北西の方角)にあり。角王は生け捕られ蔦(つた)で松の木につながれ、いよいよ切り殺される時に臨み、「俺はこんな仕打ちを受ける覚えはない、松と蔦の二物は誓ってこの山に生やさぬぞ」と云って死んだ。従ってこの山には松と蔦のあることは少ないと、たしかに松蔦はなかったと云う。粥煮嶺は今粥新田(がゆにだ)峠と呼ばれている所だろう。
峠を下ると栃谷である。秩父第一番の観音の寺、妙音寺(四万部寺の別当寺)があった。寺域は狭かったが二王門があり堂宇も、そこに掲げられた篆書の扁額も世間並みであった。坂道の途中に車井戸の櫓を見る。上から見ればこれは普通の井戸だが、下から見れば流れを天に汲むものである。「何人の子貢(しこう)がこの機(からくり)を作(なす)」と、子貢は孔門の十哲といわれた賢者である。そんな賢い人が何人よってこの仕掛け作ったのだろう。水に乏しい山村で力を省くこの仕掛けは驚くべきことであると感嘆している。
山を越え川を渡り百戸ばかりの集落大野原宿を過ぎて荒川の下流を渡ると二流の幡が立てられていた。右は秩父第23番音楽寺、左は第21番観音寺である。しばらくしてここを去り五六町(500〜600m)にして大宮に着いた。大宮は今日の秩父市であろう。戸数四百戸ばかりの宿場で裕福な家が多かったが、そのなかでいつも奉仕者の定宿となっている井上茂十郎という者の館に泊まった。
以上菅谷近傍の様子を探ろうとしたが、結局川越から菅谷を通り秩父(大宮郷)に至る間、松岡本固が見聞したことを見てあるくことになってしまった。今から約二百年以前(文化5年1808)からこの地方の人々はこの道を歩き、み聞きしてきていたのだろう。そのように思ったのでやや冗漫になったが、昔を偲んでここに書き記した。
※埼玉県立浦和図書館蔵「三峯紀行草」松岡本固著。埼玉県立図書館デジタルライブラリー