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比企地方

「三峰紀行草」(1808)にみる菅谷近傍

 「三峰紀行草」は旗本三枝(さえぐさ)家の家臣松岡本固が主君の代参として江戸より三峯神社へ旅をした折の旅日記(紀行文)である。
 先ず何故に松岡本固は主命を奉じて三峯神社に代参したのか。文化文政期頃「三峯講」というものが関東一円に盛行していた。三峯講というのは山犬信仰ともいわれ、「社記」によれば享保12年(1727)9月の夜、日光法印と云う方が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼の群がやってきて境内に満ちた。法印はこれを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬(狼)の神札を与えたところ霊験があった。この山犬が神の御眷属であり、その護符によって農作物を守り盗賊や災難から身を守ろうと「講」が組まれ、代表が護符を受けるために三峯神社詣が流行した。
 旗本三枝家でも紀行文に述べられている様に「封邸(知行屋敷)都(すべ)て災異のこと無らん為」或は「本支(本家・分家)の榮福臣庶(家来・百姓)の安全を祈り給ふ」の故をもって幣をささげ、護符を受ける事を毎年の業としていた。即ち御眷属信仰の「三峯講」の代参として本固が派遣されたのである。

 この旅は松岡本固(まつおかもとこ)が従者(官二)(かんじ)を伴って、文化5年(1808)3月16日に江戸を発って3月24日帰着した9日間の旅の記録である。先ずどの様な行程であったか追って見よう。

 16日 三枝邸(市ケ谷加賀町)―曹子ケ谷(雑司ケ谷)―池袋―金井ケ窪―前野―中窪―下板橋―錬馬(練馬)―河越(川越)方面―白子―野火止(平林寺)―膝折・大和田―大井(大和侯領内)−石原―川越(城)泊

 17日 川越(笠山遠望)−/入間川/―平塚―塚越―石井―島田の渡し<越辺川>―三戸―日彩原(にっさいかはら)(入西)・餅搗原―比企の岩殿観音(秩父第十千手観音)―郷土(ごうど)(神戸)―可楽(からく)(唐子)―菅谷(すがや)―小川 泊

 18日 小川―腰越―帯澤―小草(おぐさ)―坂本―三沢(官地)|粥煮嶺(かゆにとうげ)|―栃谷(とちや)(妙音寺・秩父第一番の観音寺)−大原野(三沢から此処まで阿部忍侯の封)−右第23・左第21番の観音寺―大宮(秩父)―第13自現寺  井上茂十郎の館 泊

 19日 大宮(武甲遠望)−禅刹金仙寺―影森―平沢―久奈(久那)−第27観音―上田野―/荒川/―三峯方面―小野原(牧野大和守の封)―日向(ひなた)(官地)ー酒店の前石表あり(三峯へ至る迄三里)/贄(にえ)川/―猪ノ鼻(阿部侯の村)ー大瀧(官地)ー強石(こわいし)―太田原(官地)ー禅刹円通寺―大和多(おおわた)―三峯山頂上―二王門(是より女人を禁ず)―院 泊

 20日 三峯・本院―/贄川/―日向村―上田野村第28馬頭観音―洞天(ほろあな)ー観音(第幾番なるかを失す)ー大宮 泊

 21日 大宮の館―第15番の寺―妙見の堂(木表に不許汚穢之者と)―第11番の寺(十聖人の像あり)ー三戸村・坂氷(さかこおり)−第10刹―柳生(阿部侯の封)―芦ガ窪(官地)―店(子の権現の程(みちのり)を問う 三里半と)―禅寺茂林寺―庄丸(官地)ー南川―│権現山│―華表(神社の門・鳥居)(扁に左文山・大鱗山とあり)ー中澤(官地)ー中藤(なかとう)(田安卿の封)―原市場―石倉(いしくら)―直(なお)竹(たけ)―店(青梅の程(みちのり)を問う 二里余と)―郡足(ぐんたり)―中里・黒澤―青梅、三枝氏の門 泊

 22日 <三枝家に逗留> 勝沼―青梅―青梅山金剛寺―/玉川/―桃花村―大井―三枝家 泊 

 23日 青梅―下長�隅(しもながぶち)―雨間(あまま)―吉兆(きっかけ)・宮ノ下―赤坂―狗目(いぬめ)―│高尾山遠望│―/和田川/―四家(よつや)―旧八王子邑―八町乃原―横山原<駅―駒来関―橋頭二幡建つ是より高尾山内―七曲―宮―久野来(くのぎ)―八王子千人坊(まち)―八王子駅  泊

 24日 八王子―横山―/和田川/―和田村―新田―日野―/玉川/―柴崎村・立川―藪―本村―府中(六所宮)−金井―井之頭(明静山大盛寺)―高�羔(だかいど)―邸

以上のようであった。

 この頃「三峯講」はこの地方でも伊勢講や大山講と並んで行われていたようで、御眷属(山犬)信仰の護符が残されている。恐らく前掲18日19日の小川から三峯往復の行程で参詣又は代参が行われていたと思われる。以下17日・18日の両日川越から大宮(秩父)までの旅の中で見聞したこと、人情、民の生活等について見てみょう。
 16日江戸を発って最初の宿は石原宿にとった。石原は川越の外れであるが、川越について次の様に語っている。国主<松平大和守>の組屋敷が七八町(770〜880m)つづき、城下町には家が千戸以上もあり、裕福な家は江戸に比べても多かつた。城は慶長の昔北條氏の要塞であったもので、名城と呼ばれているものであると。
 17日川越出発に当って遠くの山々を眺めると、一際目立つ山が見られたので、村人に聞くと、俗に笠山と言い余り高い山ではないが、いくつもの国から見ることの出来る山だと云うことだった。今、菅谷の地からも笠山が遠望できる。やがて島田の渡しを渡るのであるが、これは越辺川にあった渡し舟であろう。いまは立派は木橋が架けられ、「島田橋」と云う埼玉の名物橋となっているが、古来重要な交通路であったのだろう。渡しを越えると、海かとみちがえるほど広漠とした畑の道をすすんだ。土地の農婦がいうには、余り広々としているので、自分の畑を間違えてしまうほどだと。しかも日照りの強い日は一本の木もないので木陰もなく、弁当を食べたり休むところもなく苦しむと。筆者も農民の苦しみの中でも苦しいことだろうと同情している。
 やがて比企の岩殿に至る。「是所謂秩父第十千手観音即鎌倉の時の比企判官の護身仏とする者也」と記しているが、ここ岩殿山正法寺は坂東第十番の札所で「秩父」では無い。千手観音が比企判官能員の護身仏であったろう事は頷ける。門前左右に三四十戸ほどの村があり、石の階段を百段余り上って平地になり、又三四十段上って寺の庭となる。堂迂は扁平で賞賛すべきものもないが、ただお堂の後は十余丈(30m余)の切り立った嶮しい断崖で、草木も生えないような山を斬崩してお堂を建てたのであろう。里人が云うには近年八年ぐらいの事で山の上にはうつつの冥府(地獄)ありと。「浮屠(ふと)氏の誣(ぶ)なり見ることを欲せず」即ち僧侶が事実をいつわり人をあざむき、地獄があるなどと言っているので私は見たくないと、空海上人の御影だけを買って去った。近くの店に入ったが、雨激しき中人多く集まるのを不思議に思い、どうした事かを問えば「月の十八日は秩父霊場の開建の日故にこの日を開帳として村の老若僧を請じ回向す」と、「また芝居を買う、今日戯場なしといえどもその回向の為なり」と。岩殿観音は十八日が御開帳で、必ず回向(えこう)のために芝居がかかったと云う。
 岩殿観音をくだってまた山に入り、棘の道を進み郷土(ごうど)(神戸だろう)を過ぎて小流を渡ると可楽(からく)(唐子か)に出た。ここは松ノ木が多く、切り倒し適当な長さに約めて積み上げてあった。薪材だろう。ここは現東松山分だが一帯松樹多く薪として江戸に送り生業としていたと聞く。ここを過ぎて山、林、原、丘をこえて二里(8km)ばかりで菅谷に至る。その間左に常に川(都幾川だろう)が見え、その岸に茆屋(茅屋=かやぶきのあばら家)が点在し、必ず上流を背にした一人用の小屋であった。不思議に思って民家に寄り尋ねると、「これは楮(こうぞ)を晒す所だ」と乾瓢のようなその皮を示して「外側は麁紙(粗末な紙)にし、内側は上品(上等な紙)とする」と。そこでその製法を聞くと「日に晒し、流れにあらい、囲炉裏火にくさらかし、のちこれを搗く」と教えてくれた。紙漉はこの地方から小川にかけての伝統的な産業であった。一里ばかり歩くと小川宿に入った。小川宿は戸数八百戸もある当時としてはかなり大きな宿場である、「富める者多し」と記しているので、豊かな町と感じたのだろう。この地はもと素麺の生産において有名だったが、今は多くを製せず、かえって近村より出していると言っているが、現今この地方が素麺の産地というようなことは聞かない。その晩は小川に泊った。
 翌18日曇り空ながら意気盛んに出発した。右を山左を川の流れを見て進む。恐らく川は槻川であり、山は官ノ倉山であろう。まもなく道の左に碑を見付ける。「背に銘有村学村木春延なる者、洪水の為に道を修の事を自誌也」と、即ち田舎の学者である村木春延が洪水で失った村の道を修復したと云う事跡を自記したものであった。ただ文章は簡潔であるが称讃するようなものではなく、しかも末尾に地名を記さず、「当所」としたのは卑俗だと酷評しているが、「然れども避邑(かたいなか)此人ある亦懐(おもう)へし」村木春延を忘れてはならないと諭しているが、今はどうなっているのだろうか。
 道は槻川の本支流に沿い腰越―帯澤―小草―坂本と進んだが、途中何度も川を渡らねばならず、その度に話題をうんだ。この辺りに架かっていた橋は多く土橋(圯はし)で増水のためか落ちて、修理されていない状態だった。最初にめぐりあった川は「広さ七八丈瀰漫深浅をしらず」即ち川幅21mから24mでひろびろとみなぎり深いも浅いも分らなかった。困っていると子供たちが渡って行くのが見えて、これに従い渡ることが出来た。次にまた川に出逢い、土橋もまた落ちていた。前の川の上流だが流れが激しく、向う岸で洗濯をしている村の婦人を見つけ、渡しのことを聞いたが声届かず。逡巡して困っていると、向うから一人の裸の男が渡って来て私を背負って渡してくれた。「地獄に仏を拝する者是か」と大いに喜び、感謝した。また土橋の落ちた川に逢う、粗末な一軒の家に行きつき、川渡りの方法を問う。「従者(官二)が先ず試しに渡り次いで私を背負って渡ってはどうか」と。ある人が云うには「背負って渡るのはだめだ。一つ間違えば二人とも失敗する。相携えて渡るにしかず」と。「これは兵法にいう魚貫(ぎょかん)(魚を串に刺したように連ねるさま)して渡るの理である」と、大いに悟りこれに従って渡ることが出来た。当時旅人にとって橋の無い川は旅の大きな障害となったことだろうが、山間の人々の情や知恵に助けられた。坂本宿を過ぎ三沢に着いた。
 茅葺の貧しい一軒の茶店あり。腹が減ってきたのでここに入り飯を注文したが、みすぼらしい衣を着た百歳にもなろうかと思われる爺が出てきて、飯は無いという。飯の出来るあいだ爺が語って聞かせてくれた話。ここの山上り下り三里を粥煮嶺と云う。鎌倉のころ、ここに角王と云う鬼がいて人を取って食らうということがあった。庄司重忠(畠山)がこれを討伐しようと願いい出て、「右府も亦卒を発す」とあるが、右府は右大臣のことで織田信長を指すことが多い。源頼朝が右近衛大将だったのでそれと錯覚したのだろう。とにかく重忠は頼朝の応援をえてこの山に陣を布いたが、山に布陣する時は兵を損ねる、即ち病にかかること多いのに配慮して、粥を煮て糧としたという。粥煮嶺の名ここに起こる。竈の跡山の乾(北西の方角)にあり。角王は生け捕られ蔦(つた)で松の木につながれ、いよいよ切り殺される時に臨み、「俺はこんな仕打ちを受ける覚えはない、松と蔦の二物は誓ってこの山に生やさぬぞ」と云って死んだ。従ってこの山には松と蔦のあることは少ないと、たしかに松蔦はなかったと云う。粥煮嶺は今粥新田(がゆにだ)峠と呼ばれている所だろう。
 峠を下ると栃谷である。秩父第一番の観音の寺、妙音寺(四万部寺の別当寺)があった。寺域は狭かったが二王門があり堂宇も、そこに掲げられた篆書の扁額も世間並みであった。坂道の途中に車井戸の櫓を見る。上から見ればこれは普通の井戸だが、下から見れば流れを天に汲むものである。「何人の子貢(しこう)がこの機(からくり)を作(なす)」と、子貢は孔門の十哲といわれた賢者である。そんな賢い人が何人よってこの仕掛け作ったのだろう。水に乏しい山村で力を省くこの仕掛けは驚くべきことであると感嘆している。
 山を越え川を渡り百戸ばかりの集落大野原宿を過ぎて荒川の下流を渡ると二流の幡が立てられていた。右は秩父第23番音楽寺、左は第21番観音寺である。しばらくしてここを去り五六町(500〜600m)にして大宮に着いた。大宮は今日の秩父市であろう。戸数四百戸ばかりの宿場で裕福な家が多かったが、そのなかでいつも奉仕者の定宿となっている井上茂十郎という者の館に泊まった。
 以上菅谷近傍の様子を探ろうとしたが、結局川越から菅谷を通り秩父(大宮郷)に至る間、松岡本固が見聞したことを見てあるくことになってしまった。今から約二百年以前(文化5年1808)からこの地方の人々はこの道を歩き、み聞きしてきていたのだろう。そのように思ったのでやや冗漫になったが、昔を偲んでここに書き記した。

※埼玉県立浦和図書館蔵「三峯紀行草」松岡本固著。埼玉県立図書館デジタルライブラリー 

比企地域おこしシンポジウム 2012年5月3日

比企地域おこしシンポジウム
日時:2012年5月3日(木) 開場13時 13時30分〜16時30分
会場:東松山市民文化センター大会議室
参加費:500円
主催:NPO法人比企自然学校
後援:埼玉県、東松山市、滑川町、嵐山町
    埼玉中央農業協同組合、武藏漁協協同組合
    東松山市観光協会、東松山市商工会
公益財団法人サイサン環境保全基金 助成事業
比企地域おこしシンポちらしA

比企地域おこしシンポちらしB

権田重良『埼玉の電気事業と昭和史・電気工事組合小川支部』(2009年)目次

●目次

●はじめに

●埼玉の電気事業

●●1.電気工事事業の発生

●●2.戦中・戦後の埼玉の電気事業の推移

●●●川越電気鉄道


武蔵誹諧百人集 1917年

斯の道に遊ひて斯の道の友を知らさるををしむ、ましてやおのか国の友を知らさるをや、こゝに社中むさしの国比企の郡八和田の里の文令舎可及子はこの事を深くおもんはかりて己か国の諸風子の玉詠をあつめ彼の小倉山百人一首に倣(なら)うておのおの肖像を加へ武蔵俳諧百人集と号(なづ)くる一小冊となしてこのみちに遊ふ友とちに頒(わか)ち居なからにして交りを結ふのたねになさんと近友夢の家蝶遊伏亀軒竹窓両子にはかりしによしくとあひ担うてをちこちの雅友に披露せしに束の間に一百有余名にいたりしとてその稿を携ひ来りて予に序を需(もとめ)ることせちなるに任せて披き見るにおのおの得意の玉吟をそのまゝのせたれは作者のこゝろあらはにして興味ふかくまた肖像を見てはその友に逢ふたるこゝちして実にともを知るのこよなきよき冊子なりとほめそやせしまゝをしるして此ノ集の序とはなしぬ
  大正六丁巳季春
   明倫教会長
    中教正 柴崎如哉 印


1 号 金令舎 東京明倫社長 柴崎勇 耕哉
2 号 青白堂 入間郡大家村多和目 関口曽木 曽木
3 号 蝶園 大里郡大寄村矢島 茂木信次郎 秋香
4 号 六気庵 入間郡越生町上野 吉田秀三 素竹
5 号 一普菴 入間郡東吾野村井上 井上無物 無物
6       熊谷本町三丁目 中沢半七氏 正覚
7 号 文秀斎 比企郡七郷村広野 井上万吉 春昌老人
8 号 健須居 入間郡梅園村上谷 武内久作 久雄暇人
9 号 拾硯斎 比企宮前村月輪 大塚奓恵八 賢
10 号 七世咫尺斎 入間郡東吾野村長沢 栗原篤太郎 寥和
11 号 方水菴 大里郡本郷村針ヶ谷 山崎富次郎 顕海
12 号 可心菴 比企郡宮前村中尾 横田長平 如柳
13 号 焦竹居  入間郡東吾野村  加藤島三郎 藤水
14 臨川堂 大里郡武川村上原 塚越兼之助 里軒
15 号 燕子居 比企郡松山町東平 田中力造 一心
16 号 独唱庵 比企郡松山町 柳?良貞 童山
17 号 玉川堂 比企郡玉川村 田中友治 村洲
18 号 夜楽庵 比企郡明覚村大附 島田浅三
19 号 俵雪庵 比企郡七郷村古里 安藤金蔵 古洲
20 号 磊亭 大里郡藤沢村上野台 酒井権八 理川
21 号 よしみや 比企郡松山町 黒沢幾太郎 幾帆
22 号 春眠舎 比企郡高坂村岩殿 関口嘉暢 化蝶
23 号 語石庵 比企郡西平の里 岩田福次郎 祥風
24 号 夜春庵 入間郡越生町 柿沼良七 柿本
25 号 緑水亭 比企郡菅谷村遠山 久留田半次郎 三之
26 号 帯暁庵 入間郡鶴ヶ島村戸宮 山下周造 山秋
27 号 光頼居 入間郡山根村大谷木  村本国平 邑邦
28 号 梅の家 比企郡亀井村熊井 小鷹寅蔵 一珠
29       秩父郡大河村安戸 大久根勇三郎 吐月
30 号 窓月庵 比企郡八和田高谷 岡部周三 一麦
31 号 花泉堂 比企郡平村 岡部万吉 暁風
32 号 素雪庵 大里郡男衾村富田 島田粂四郎 生山
33 号 渓暁庵 入間郡鶴ヶ島村高倉 小林滝次郎 麓水
34       比企郡八和田村中爪 大塚皐三郎 清台
35 号 橿寮 比企郡小川町大塚 大塚仲太郎 升香
36 号 令松庵 比企郡宮前村月輪 中村貫隆 老仙
37 号 門の家  比企郡小川町 秋元宇太郎 〆次
38 号 柳浪庵 比企郡平村 武井僤忠 翠凌
39 号 陽斎 秩父の産小川住 中村蕃 薄露
40 号 大晴居 比企郡菅谷村大蔵 山下周次郎 週月
41 号 一渓舎 大里郡本畠村本田 矢島氏 一渓
42 号 仙裳庵 比企郡高坂村高坂 鯨井滝次郎 如雲
43       比企郡小川町下小川 大寺秀明 玉耑
44 号 藤廼家 比企郡宮前村羽尾 内山道賢 露月
45 号 有声舎 大里郡榛沢村 鈴木兵吉 瓢水
46       比企郡唐子村神戸 鳥村鉢五郎 靖朝
47 号 世移舎 比企郡唐子村上唐子 石川孝吉 柳枝
48 号 花守園 入間郡越生町大谷 石井嘉三郎 可一
49 号 杉の本 比企郡菅谷村遠山 杉田啓次郎 其水
50 号 燕醸居 比企郡宮前村羽尾 島田与吉 佳酔
51 号 南耕廬 比企郡唐子村神戸 島村広吉 香旦
52 号 至雪庵 比企郡七郷村古里 大久保勇次郎 楽哉
53       比企郡平村字西平 内田晴治 晴風
54 号 新■庵 比企郡小川町下里 安藤半次郎 谷藤
55 号 夜秋庵 比企郡七郷村勝田 田中太蔵 如昇
56 号 石腸庵 大里郡折原村立原 高柳好作 渓隣
57 号 無隣庵 比企郡高坂村正代 林澗龍 柳畝
58 号 石葉園 大里郡本畠村 田中健蔵 寿山
59       大里郡男衾村赤浜 大沢由松 二洲
60 号 川亭 比企郡小川町本一 前田知治 知舟
61 号 花月庵 比企郡七郷村太郎丸 田幡宗勝 松雪
62       比企郡松山町 鯨井忠久 忠久
63 号 積雪庵 比企郡七郷村古里 大塚善助 蟻通
64 号 春川居 比企郡七郷村広野 権田亀太郎 亀遊
65 号 至誠堂 比企郡八和田村中爪 馬場新右衛門 至誠
66 号 桜暁庵 比企郡亀井村須江 日野園平三 山友
67 号 花月園 比企郡小川町 秋山幸太郎 巖松
68       比企郡唐子村神戸 島田常太郎 志のふ
69 号 苔廼家 比企郡宮前村月輪 武井茂次郎 茂行
70       大里郡小原村須賀広 根岸宥證 石卵
71 号 梅の家 比企郡宮前村羽尾 井上宗治 かをる
72 号 観笙庵 比企郡今宿村石坂 安藤佐五郎 柳江
73 号 末生庵 比企郡竹沢村飯田 吉田鉾三郎 芳翠
74 号 蝸牛居 比企郡八和田村伊勢根 正木清作 自黙
75 号 帛令舎 比企郡菅谷村遠山 高橋伝吉 蚕友
76 号 芳令舎 比企郡菅谷村川島 森田運太郎 花盛
77 号 詠雪庵 比企福田村土塩 贄田啓作 春山
78 号 扶桑園 入間郡勝呂村石井 杏田宗一 正宗
79 号 齢子居 比企郡松山町東平 加藤重太郎 佳重
80 号 糸柳舎 比企郡菅谷村平沢 吉野長吉 鈍水
81 号 晨小斎 北足立郡箕田村 小暮吉之助 柳暮
82       比企郡七郷村太郎丸 中村兵蔵 松林
83 号 不折園 比企郡八和田村高谷 武井孝作 雪竹
84 号 花楽庵 比企郡七郷村広野 栗原重太 晴山
85 号 川々庵 大里郡吉岡村万吉 田島喜之助 喜楽
86 号 雅堂 比企郡大河村増尾 酒井正三郎 正風
87 号 秋令舎 比企郡八和田村中爪 市川彦一 我晴
88 号 阿雪庵 比企郡明覚村関堀 市川久造 巴水
89 号 谷底庵 比企郡宮前村中尾 松本武八 松亭
90       比企郡宮前村羽尾 島田嘉蔵 秋風
91 号 藤皐庵 比企郡七郷村吉田 藤野喜一郎 一暁
92       比企郡小川町下里 田端猶平 山月
93 号 文豊舎 比企郡八和下川町下里 田端忠三郎 秋之
94 号 澄令舎 比企郡菅谷村志賀 内田佐兵衛 峯月
95 号 秋の家 比企郡小川町下分 秋山与吉 秋隣
96 号 白雲舎 大里郡花園村武蔵野 久保銀次郎 空保
97 号 松雪庵 大里郡男衾村牟礼 内田好松 好遊
98 号 千年舎 比企郡小川町下分 千野勝三郎 勝山
99 号 梅窓居 比企郡八和田村中爪 馬場藤造 学園
100 号 花雲亭 比企郡菅谷村千手堂 関根茂平 紫山
101 号 梅令舎 比企郡八和田村中爪 細井武次 可祝
102 号 春雪庵 比企郡八和田村中爪 清水幾三郎 楽山
103 号 不二の家 比企郡八和田村中爪 馬場宇平 慶雲
104 号 春令舎 比企郡八和田村中爪 大塚和十郎 可暁
105 号 月令舎 比企郡八和田村中爪 松本治助 可昇
106 号 喜楽斎 比企郡七郷村杉山 金子喜三郎 梅月
107 号 自修庵 比企郡明覚村番匠 正木利三 誠史
108 号 蓮首庵 入間郡毛呂 田島竹洲 竹洲
109 号 文■舎 比企郡小川下里 田端賢次郎 由山
110       大里郡御正村樋春 馬場氏 春英
111 号 秋木寮 比企郡宮前村月輪 長谷部愛治 雨牛
112       比企郡宮前村中尾 宮?氏  北洲
113 号 松島庵 比企郡八和田村中爪 大塚金平 夏海
114       比企郡明覚村別所 山口梅吉 入梅
115       比企郡八和田村中爪 松本福松 開舟
116 号 長美庵 比企郡玉川村小倉 長島源風 源風
117 号 憧星庵 比企郡小川村角山 根岸文三 菫怨
118 号 月光庵 比企郡八和田村中爪 細井万次郎 可風
119       比企郡八和田村中爪 大塚保 琴風
120 号 光運居 比企郡菅谷村将軍沢 小久保倉吉 春慶
121       比企郡福田村和泉 市川鍋次郎 可励
122 号 松上庵 比企郡菅谷村菅谷 田島吉五郎 吉月
123 号 光月堂 比企郡菅谷村字大蔵 金井卯三次 夜遊
124       文令舎の実母 七十六才 との子
125 号 伏亀軒 比企郡菅谷村志賀 高崎秀三 竹窓
126 号 夢の家 比企郡八和田村 大塚喜惣治 蝶遊
127 号 文令舎 比企郡八和田村中爪 松本栄次郎 可及
128                 松本誠一 可克

※収録されている俳人中、現・嵐山町域の菅谷・七郷村の人物
7 文秀斎 七郷村広野 井上万吉 春昌老人
19 俵雪庵 七郷村古里 安藤金蔵 古洲
25 緑水亭 菅谷村遠山 久留田半次郎 三之
40 大晴居 菅谷村大蔵 山下周次郎 週月
49 杉の本 菅谷村遠山 杉田啓次郎 其水
52 至雪庵 七郷村古里 大久保勇次郎 楽哉
55 夜秋庵 七郷村勝田 田中太蔵 如昇
61 花月庵 七郷村太郎丸 田幡宗勝 松雪
63 積雪庵 七郷村古里 大塚善助 蟻通
64 春川居 七郷村広野 権田亀太郎 亀遊
75 帛令舎 菅谷村遠山 高橋伝吉 蚕友
76 芳令舎 菅谷村川島 森田運太郎 花盛
80 糸柳舎 菅谷村平沢 吉野長吉 鈍水
82     七郷村太郎丸 中村兵蔵 松林
84 花楽庵 七郷村広野 栗原重太 晴山
91 藤皐庵 七郷村吉田 藤野喜一郎 一暁
94 澄令舎 菅谷村志賀 内田佐兵衛 峯月
100 花雲亭 菅谷村千手堂 関根茂平 紫山
106 喜楽斎 七郷村杉山 金子喜三郎 梅月
120 光運居 菅谷村将軍沢 小久保倉吉 春慶
122 松上庵 菅谷村菅谷 田島吉五郎 吉月
123 光月堂 菅谷村字大蔵 金井卯三次 夜遊
125 伏亀軒 菅谷村志賀 高崎秀三 竹窓



明治の身分解放令 1871年

   解放令の発布
 江戸幕府を倒して成立した明治政府は、社会制度の近代化を急がなければならなかった。政府は四民平等の方針を打ち出し、封建的な身分制度を廃止していったが、現実には皇族・華族・士族・卒・祠官【神官】・僧侶・平民という新しい身分をつくり出した。そこでは農・工・商の人たちは平民となったが、江戸時代の被差別身分の人たちはそのままであった。
 幕末から明治の初年にかけて、被差別身分の人たちから解放を求める声が高まっていた。東京府や大阪府、あるいは土佐の大江卓(おおえたく)などは意見書を出して身分制度の改革を提起した。明治政府のなかでもこの制度を残しておくことは問題であると議論されるようになった。とくに大蔵省の中では、公家(くげ)・大名・神社仏閣・農商の宅地などにも免税地があるのでこれを廃止して、近代国家として国民全体に課税することが検討され始めた。賤民身分の人たちの宅地が免税地の場合もあった。しかし、それを廃止するためには賤民という身分制度を廃止する必要があった。政府は1871年(明治4)8月28日に太政官布告を発布して賤民制度を廃止した。内容は、「穢多非人などの呼び方を廃止したので、これからは身分職業とも平民と同様にする」というもので、江戸時代から続いた差別的な身分制度を廃止したのである。この布告は賤民廃止令、一般的には解放令といわれている。これは各府県庁を通して県内の宿場や村々に伝えられた。

   嵐山地域での解放令伝達
 嵐山地域には韮山県庁(にらやまけんちょう)から解放令が伝達された。当時はまだ現在の形の埼玉県は成立していない。埼玉の地域はいくつもの県にわかれていた。嵐山地域は韮山県【江戸時代の韮山代官所の支配地域を引き継いで成立し、武蔵・相模(さがみ)・伊豆にまたがっていた。県庁所在地は静岡県田方郡韮山町。1871年(明治4)の廃藩置県の直後に韮山県は消滅。】に属していた。当時の吉田村の名主藤野彦右衛門の「明治二年己巳年 御用向色々手控帳」には、解放令伝達の文が記されている。

   穢多非人等之称被廃候条自今身分
   職業共平民同様たる邊き事
    辛未八月   太政官   
   右之通被仰出候条村内居住之穢多非
   人江其方共より申通戸毎連署請書取
   之来ル十五日限リ無相違可差出候此
   廻章至急順達留り村より可相返者也
   東京出張
   辛未九月 韮山県庁 御印
     武州比企郡上横田村 辛未九月八日拝見
          下横田村    仝
           高谷村    仝
           吉田村    仝
            右名主 組頭

 これによると、嵐山地域の場合は韮山県庁押印の解放令伝達文が東京出張所【韮山県庁の出張所】から廻状の形で村送りされて名主と組頭に伝えられ、名主が穢多非人に伝えて戸毎に署名し請書を取ることを命じられていたと思われる。名主がこの廻状を見たのが辛未【明治4年】9月8日で、太政官布告の10日後のことである。浦和県庁が村々に伝えた文書も同じ9月8日の日付である。
 なおこの解放令の発布と時を同じくして、次の太政官布告も伝達された。

    平民襠高袴割羽織着用可為勝手事
     辛未八月      太政官
    右之通被仰出候条得其意区内村々江
    者其方共より可通達者也
    東京出張
     辛未九月 韮山県庁 印
           武州比企郡
            中爪村役人

 これは、平民が武士用の襠(まち)の入った高袴(たかはかま)と割羽織(わりばおり)を自由に着てよろしいと認めた布告である。1870年(明治3)には、武士に紛らわしい服装としてお触れを出して禁じていたものを、政府自らが1871年(明治4)8月には着用の自由を打ち出したのである。解放令の発布とともに服装の自由化も進められていることは注目される。この太政官のお触れは、先の吉田村名主の「御用向色々手控帳」のなかに解放令伝達の文書と並んで記されている。

   解放令は差別とたたかうよりどころに
 解放令は、江戸時代の差別的な賤民制度を廃止し、法的な平等を規定したものとして重要である。しかし解放令の発布によってそれまでの番人の仕事、治安維持の仕事などがなくなり、それまで村の仕事をする代償として認められていた斃牛馬(へいぎゅうば)処理の権利も、解放令発布の直前に出された「斃牛馬勝手処理令」(明治4年3月19日)によって失われた。したがって解放令によって法的平等は実現しても、生活はかえって悪化したのである。当時は、解放令は出されても差別をなくすための具体的な施策はなされなかった。しかし、法的な平等を規定したこの解放令は、明治・大正・昭和前期の時代において部落差別とたたかう場合のよりどころになったのである。

比企地方の干害 1933年

  雨!雨!!雨!!! 降雨がなければ飲料水に困る始末だ
今にも雨が降りそうな天候でなかなかに雨が降らない比企郡下では、そこにもここにも水騒動が勃発して、非常時辞句語が適用されてゐる。それのみではない。この頃ではこの暑さをひかへて、そそぎ洗濯の水にも困り。浴槽の水にも事をかき、所によっては飲み水にさえ差支へ困りぬいている所さへある。雨乞ひに霊験あらたかと云はれる宮前村の龍や東吉見の龍の額■が持ち出されての信心振りである。そて許りでなく、茲十日以内に植付けをしなければ稲がとれないと農民は困り抜いてゐる。そんな事にでもなれば農民は予期しない春繭の相場にホット一意気も忽ち悲観と変って農民の興味である金はなくとも米はあると云ふことに脅威を感じてゐる。誠に困ったことだ。この稿が発行される頃は記事が腐ってゐなければ話よりひどい事となるであらう。
     『埼玉日報』1933年(昭和8)7月9日


  熊谷上ノ区 大雷神社大祭上之村神社(かみのむらじんじゃ)の摂社雷電神社】
来る廿七、八の両日は熊谷市上ノ区郷社大雷神社の大祭に相当し本年も例に依って執行されるが本年は旱魃の為め参拝者多数にのぼり雑踏をよそうされるので地元青年団では無料自転車預り所を設けて参拝者の便を図る外、寄居自動車会社に於ては熊谷駅より臨時数回の運転を行ふ筈なので一層の賑ひを呈するであらうと云はれる。

  植付不能の水田 降雨の為め削減 郡下を通じて約百町歩
比企郡下に於ける植付け不能水田もその後二十七、三十日の両日に亘(わた)っての降雨のため大に減少し、末日現在に於いて不能水田は約百町歩にして該不能水田には蔬菜類及び蕎麦の類を播種することになった。植付け不能町村及び反別は
  松山町 五町   宮前  十町
  唐子  五町   菅谷  十五町
  七郷  十三町  八和田 七町
  竹沢  十町   大河  二町
  平   二町   明覚  二町
  玉川  四町   亀井  三町
  高坂  三町   野本  五町  以上
     『埼玉日報』1933年(昭和8)8月6日

  政府米払下げ 比企郡下申込数 一万五千俵戸数八千戸
比企郡下に於て干害による政府米払下げ申込数は二十日を以って〆切ったが総数一万四千六百十八俵で申出戸数七千九百四十三戸に達し内訳左の通りである。
  松山   九一七俵   四八〇戸
  福田   三七〇    二二二
  宮前   六六一    三四六
  唐子   八六一    四五五
  菅谷   九四九    五〇八
  七郷   七八四    四二四
  八和田  七〇五    四二二
  小川   八〇九    四五二
  大河  一三三三    七三一
  竹沢   三八五    二三一
  平    一九五    一一四
  明覚   三六四    二〇九
  玉川   六三六    三六一
  亀井   一六〇     九一
  今宿   五三三    二九五
  高坂   三〇〇    一九一
  野本   八六八    四五五
  出丸   六四〇    三二一
  東吉見  六三五    三二三
  南吉見  六七四    三五二
  西吉見  九三四    五〇二
  北吉見  九〇五    四五九
以上で、大岡、中山、伊草、三保谷、八ツ保の五ヶ村には払下げ希望者なし。
     『埼玉日報』1933年(昭和8)8月27日

  比企郡免租田 第一回申請総反別 七百七十七町歩余
近年にない干害を蒙り植付け不能の水田郡下を通じて百町歩を越え、本月に入りて植付けを了せし水田も約五百町歩に達するので川越税務署では十九日地租免除申請に対し郡農会と協議査定の結果、本月に入りて植付けを了せると不能水田に対し免除することに決し、他は今秋収穫期に実地検証の上に於て適当の方法を講ずることにしたが各町村別に示せば、
松山十一町五反、大岡四町八反、福田八町、宮前五三町、唐子一八町、菅谷五〇町、七郷三〇町、八和田四〇町、小川四町、竹沢二二町九反、大河六反、明覚一〇町、玉川一五町、亀井三〇町、今宿一〇町、高坂一〇町、野本五〇町、中山三町、出丸三反、小見野二〇〇町、東吉見三町五反、南吉見一六〇町、西吉見四三町
以上で総計七百七十七町六反で小見野の二百町、南吉見の百六十町を筆頭とし北吉見、伊草、三保谷、八保、平の五ヶ村は最初の免租はない訳だ。
     『埼玉日報』1933年(昭和8)8月27日

比企の干害 1978年

  カラつゆ 田植え期過ぎちゃう!!
   
このままでは半作 東松山・急ぎ10か所で井戸掘り
 二十二日、おしめり程度の雨があったが、連日の晴天で東松山市、比企郡内では、河川や農業用水が枯れ、田植えの出来ない農家が続出している。中でも自家用井戸を持っていない農家は、ほとんどが手つかずの状態で、あと数日カラカラ天気が続けば、今年は田植えの時期をのがし、例年の半作になるのではないか − と深刻な表情だ。
 都幾川、越辺川のほか農業用水池が干上がって田植えが出来ないのは、東松山市高坂、唐子、野本地区と比企郡小川、川島、嵐山町、滑川村の一部。東松山市と県東松山農業改良普及所の調べによると、東松山市では、千百ヘクタールの水田面積のうち約四百ヘクタール、比企郡内では、約五千ヘクタールのうち五百ヘクタールが、田植え時期を過ぎているのに手つかずの状態だという。特に東松山市では、都幾川の鞍掛取水口かなど四か所から水を取っているが、今月十日ごろから川の水が減り出し、十五日ごろ完全に干上がってしまったため、十日以前に植えた農家と自家用井戸を持っている農家は、なんとかしのいでいるが、約二千八百戸の農家のうち約四割が、天を仰いで雨を待っている。
 また、比企郡内でも五千ヘクタールのうち約五百ヘクタールの農家が同様な状態だという。
 熊谷気象台の調べでは、県北地方の今月一日から二十二日までの雨量は約三十ミリ。また、今後の見通しとしては、局地的に降り、梅雨の傾向はないという。
 このため、東松山市では二十二日、各農家を巡回して状況を調査した結果、わずかな雨では対処できないとして、特に心配される十か所に井戸を掘ることになった。
     『読売新聞』1978年(昭和53)6月23日

   “もっと降れ” 天に祈る農家
 連日の晴天続きで田植えが遅れている東松山市、比企郡内では、二十三日午前一時から雨が降り出し、同日夕までの雨量は二十三ミリ(東松山市消防署調べ)だったが、土が完全に乾き切っているため焼け石に水。水田の土が深さ二センチほど湿った程度で、都幾川、越辺川は相変わらず干上がっている。
 このため、各農家では「あと三日ほど降ってくれなければ田植えはできない」と話しており、“雨よもっと降れ”と恵みの雨を待っている。
     『読売新聞』1978年(昭和53)6月24日

※熊谷地方気象台のHPに「埼玉県の主な災害」がある。「低温・高温(干天)・その他」の年表を参照。1933年(昭和8)の比企地方における干害についての新聞記事は、「比企地方の干害 1933年」に掲載。

嵐山町赤十字奉仕団の発足 1979年2月

 昭和47年(1972)4月13日の発番にて、日本赤十字社埼玉県支部より嵐山町に奉仕団の結成促進についての依頼文がまいこみました。
 内容は、地域において赤十字事業の推進にあたる日本赤十字社の第一線機関として、あらゆる地域に普遍的に組織されることが理想とされている奉仕団を育成してほしいというものでした。
 その当時の、埼玉県における赤十字奉仕団の発足状況は、県下92市町村の内の54市町村−78団(23市−30団、31町村−48団)で団員は8247人であって、まだまだ全市町村にはほど遠いものがありました。
 しかし、比企郡市においては、

 東松山市 1団 122人
 滑川町  1団  74人
 小川町  2団  68人
 都幾川村 4団 620人
 鳩山町  2団  81人
 玉川村  1団 225人
 東秩父村 1団  60人
 川島町  4団 762人
 吉見町  1団 350人

で、団員数で埼玉県の29%を占め、唯一比企郡において、奉仕団が存在しないのが嵐山町だけとなっていました。
 そこで、嵐山町でも中島立男住民課長を中心に早急に赤十字奉仕団の結成を図るべく模索が続きましたが、奉仕団結成への動きにはなかなか繋がりませんでした。
 でも、昭和50年(1975)7月11日の日本赤十字社埼玉県支部の担当による説明会を切っ掛けとして、修養団で活躍していた佐久間正光氏、飯島信子氏を中心とした18名の会員にて、昭和50年7月24日を総会とする赤十字奉仕団の結成が計画されました。
 しかし、総会を直前にして、地域性をともなわない既存団体の延長的な色彩をもつ有志による奉仕団の結成は、育成主旨になじまないとの指摘もあり、赤十字奉仕団の結成が断念されました。
 それ以後、嵐山町において、赤十字奉仕団の結成が宿願となり模索が続きましたが、昭和53年(1978)度に入ると、民生委員が主体となって関係地区を啓蒙し、団員を募って嵐山町の全域を網羅した赤十字奉仕団の結成を図ろうとの案が浮上してきました。
 そこで昭和53年(1978)9月12日、午後1時30分からの中央公民館における初めての打合せとなりました。
 その結果、民生委員などの活躍もあって288名の団員希望者が集まり、昭和54年2月13日に中央公民館大会議室において、日本赤十字社埼玉県支部関係者、奉仕団埼玉県支部長、比企福祉事務所長などを来賓に迎えて総会が開催されました。長いあいだ嵐山町の課題となってきた赤十字奉仕団が結成されました。
 そしてその奉仕団は、いざと言うときのための災害研修、寝たきり高齢者等への慰問品の作成、社会福祉協議会の実施する社会福祉事業への協力参加、河川清掃、愛情弁当作り等のボランティア活動等々、活発な活動を展開してきました。
 そしてまた、平成14年からは、高齢化社会をむかえて問題となってきた老人の家庭ひきこもり防止のため、ふれあいサロンを嵐山町の9地区において実施するようにもなりました。
     嵐山町釋迦福祉協議会『嵐山町社協のあゆみ』2004年(平成16)8月 62頁〜63頁

※埼玉県内の赤十字奉仕団については、『赤十字埼玉百年史』(日本赤十字社埼玉県支部発行、1988年3月)503頁〜520頁を参照。埼玉県内初の奉仕団結成は、1949年(昭和24)4月14日の蕨市奉仕団。比企郡内の結成年月日と1985年(昭和60)度の団員数は、次のとおりである(同書510頁)。
  東松山市    1957年(昭和32)4月19日 207人
  滑川町     1957年(昭和32)4月6日  63人
  嵐山町     1979年(昭和54)2月13日 288人
  小川町     1957年(昭和32)3月20日 100人
  小川町大河   1957年(昭和32)3月20日  27人
  都幾川村平   1956年(昭和31)9月20日  31人
  都幾川村大野  1956年(昭和31)10月1日 132人
  都幾川村明覚  1956年(昭和31)10月1日 334人
  都幾川村椚平  1957年(昭和32)4月17日  46人
  玉川村     1951年(昭和26)7月3日  36人
  川島町伊草   1951年(昭和26)9月10日  35人
  川島町中山   1957年(昭和32)3月20日  94人
  川島町三保谷  1969年(昭和44)12月5日 119人
  川島町出丸   1971年(昭和46)9月13日  24人
  吉見町北    1957年(昭和32)3月20日  40人
  鳩山町亀井   1957年(昭和32)3月20日  50人
  鳩山町今宿   1957年(昭和32)3月20日  58人

※埼玉県内の赤十字奉仕団の現状については、日本赤十字社埼玉県支部HP「赤十字ボランティア」参照。嵐山町内のボランティア・市民活動団体の情報は、埼玉県社会福祉協議会の埼玉県ボランティア・市民活動センターHP「ボランティア・市民活動団体情報」から検索できる。


     
結成された日赤奉仕団
       人道博愛の精神で
         ボランティア活動を
 久しく待望された赤十字奉仕団がようやく、結成となり二月十三日、嵐山町中央公民館に日赤埼玉県支部関係、奉仕団埼玉支部長、比企福祉事務所長などを来賓に迎え結成の式を挙げました。
 名称は「嵐山町赤十字奉仕団」で多くの方の団員登録を得て、これからの活躍が期待されています。
 ここで、赤十字奉仕団とはどんな性格をもつものかを紹介します。

◇赤十字奉仕団は赤十字の人道、博愛の精神のもとに赤十字の使命とする人道事業を達成するために結成されたボランティアの組織です。

  信条
 1.すべての人々の幸せを願って陰の力となって人々に奉仕します。
 2.常に工夫して人々のためによりよい奉仕ができるように努力します。
 3.身近にできるボランティア活動をひろげてすべての人々と手をつないで世界の平和につくします。

  活動にあっての心がけ
 1 人道の原則
 赤十字奉仕団は「人道の原則」に基づいて行動します。
 「人道の原則」は赤十字社が活動するにあたって、最高の地異を占める大切な原則です。
 これは、赤十字の使命が、人間の肉体的、精神的な苦しみを和らげ、また、その生命の尊厳を守り、人間の幸福をはかるために行動することであることを示しています。
 2 公平の原則
 赤十字奉仕団は、いかなる国籍、人種、宗教、思想をもつ者に対しても差別なく活動を行わなければなりません。これは、赤十字の活動にはなくてはならない原則です。
 3 赤十字奉仕団は、すべての人々からいつも信頼を受けるために、いかなる場合にも、政治的、人種的、宗教的、または思想的性格の活動には参加しません。この原則がゆらいだ時、赤十字は、その活動に対する支持者の多くを失うことになるためです。
 4 無報酬の原則
 赤十字奉仕団は、その活動からいかなる形においても利益を求めません。

 以上のことを基本に活動するわけですが、赤十字奉仕団には、このような信条に共鳴する方はだれでも参加できます。
 組織は
     委員長  関根天津
     副委員長 大塚満津
       〃   村田藤子
       〃   瀬山よし
 そのほか委員として各地区には若干名の代表がいます。
     『嵐山町報道』279号 1979年(昭和54)4月5日

参照:「赤十字奉仕団をご存じですか 反町葉子 1988年

経済不況の中で農家小組合が結成される 1920年代

 「比企郡農家組合一覧」(1931年(昭和6)4月現在)には、比企郡下の農家組合の町村名、設立年月、組合名、組合長名が掲載されている。
 この名簿にある町村別の農家組合数は次のとおりである。

現・嵐山町=菅谷村7、七郷村20
現・東松山市=松山町15、大岡村14、唐子村6、高坂村16、野本村14
現・滑川町=福田村8、宮前村13
現・小川町=小川町8、八和田村19、大河村5、竹沢村6
現・ときがわ町=(旧都幾川村)明覚村4、平村8、(旧玉川村)玉川村1
現・鳩山町=亀井村8、今宿村1
現・川島町=小見野村4、中山村4、八ツ保村19、伊草村11、三保谷村12、出丸村0
現・吉見町=東吉見村2、南吉見村0、西吉見村5、北吉見村6

 農家組合(農事組合)は、明治末期から農家の親睦、修養、農事改良を目的に結成されていたが、第一次世界大戦後の慢性的経済不況の中で様々な設置奨励策が実施された。埼玉県では、1921年(大正10)3月「農事組合奨励規定」を定め、補助金を増額して設置促進を図っている。
 農家組合は組合員の農業生産、生活上の困難の克服、改善等多用な目的を持った「一般的農家組合」と養蚕実行組合、養鶏組合などの「事業別農家組合」とに大別されるが、「農家小組合」と総称される。1925年(大正14)、全国で約11万あった農家小組合は、3年後には7万5000増えて18万5000に達した。農事実行組合は農家小組合が法人化されたものである。
 「比企郡農家組合一覧」に掲載されている236組合を設立年別に集計すると以下になる。

 1915年(大正4)  3
 1919年(大正8)  1
 1921年(大正10) 49
 1922年(大正11)  7
 1923年(大正12) 28
 1924年(大正13)  2
 1925年(大正14) 11
 1926年(大正15)  8
 1927年(昭和2)  32
 1928年(昭和3)  19
 1929年(昭和4)  6
 1930年(昭和5)  24
 1931年(昭和6)  36

  1915年(大正4)に結成されたのは、松山町の簗本農家組合、唐子村の神戸(ごうど)農家組合、玉川村の根際(ねぎわ)農家組合である。1931年(昭和6)4月現在のはずだが、同年5月、6月、9月に結成された農家組合が4つある。誤植なのか詳細は不明であるが、1931年設立組合数には加えてある。


旧菅谷村・七郷村農家組合・組合員数・組合長一覧 1931年4月現在

 旧菅谷村
千手堂農家組合 1923年(大正12)4月 42人 高橋金次郎
大蔵農家組合  1919年(大正8)4月 28人 山下卯之吉
植木山農家組合 1921(大正10)4月 22人 杉田鉄三郎
菅谷農家組合  1927年(昭和2)2月 37人 笠原傳吉
大上農家組合  1929年(昭和4)2月 24人 儘田雪光
昭和農家組合  1929年(昭和4)4月 23人 内田喜三郎
(鎌形)    1931年(昭和6)3月 24人 内田鄲旋

 旧七郷村
第一農家組合  1923年(大正12)4月 17人 田島啓助
第二農家組合  1923年(大正12)4月 20人 安藤儀重
第三農家組合  1923年(大正12)4月 19人 飯島徳治
第四農家組合  1922年(大正11)4月 25人 小林富治
第五農家組合  1922年(大正11)4月 15人 小林栄祐
第六農家組合  1922年(大正11)4月 18人 藤野菊次郎
第七農家組合  1922年(大正11)4月 23人 馬場芳治
第八農家組合  1922年(大正11)4月 26人 市川武市
第九農家組合  1922年(大正11)4月 19人 青木仲次郎
第十農家組合  1922年(大正11)4月 19人 馬場覚嗣
第十一農家組合 1922年(大正11)4月 34人 小林耕一
第十二農家組合 1922年(大正11)4月 22人 阿部寶作
第十三農家組合 1922年(大正11)4月 22人 大澤賢司
第十四農家組合 1922年(大正11)4月 20人 金子保蔵
第十五農家組合 1922年(大正11)4月 13人 杉田政之助
第十六農家組合 1922年(大正11)4月 30人 中村善三
第十七農家組合 1922年(大正11)4月 20人 内田武一
第十八農家組合 1926年(大正15)4月 22人 青木茂三郎
第十九農家組合 1926年(大正15)4月 15人 千野久良
第二十農家組合 1927年(昭和2)4月 22人 松本繁太郎

     「比企郡農家組合一覧」1931年(昭和6)4月1日現在

武蔵比企郡の諸算者 三上義夫 1940年

   三上義夫『武蔵比企郡の諸算者(上)』
1、比企郡竹澤小川の諸算者(昭和12年刊)の概要
2、大塚氏「北武の古算士」(昭和12年、『埼玉史談』
3、竹澤村木呂子 松本寅右衛門伝考証
4、小川町 杉田久右衛門伝考証
5、福田村 馬場栗原辰右衛門
6、三保谷村 柴竹小高多聞治重郷
7、東吉見村江和井 田邊倉治郎高康
8、七郷村杉山 内田祐五郎往延(後に根岸氏)
9、宮前村水房 吉野米三郎勉務
9の下、杉山初雁小右衛門(米三郎實家の祖父)
10、大里郡野原 文殊寺額、同郡樋春茂木惣平美雅
11、高坂村望月 神能小右衛門孝光
12、高坂村高坂 加藤芳治
13、高坂村正代 小堤幾蔵孝継
14、同村川邊 中村安太郎
15、同村早俣 橋本喜八
16、同   千代田石郎
17、同   千代田勝四郎
18、同村正代 栗原萬次
19、大野旭山
20、中山村北園部 岡部雄作
21、高坂村悪戸 岡田軍治郎
22、明覚村大附 宮崎萬治郎武貞
23、菅谷村大蔵 大澤権三郎
24、八和田村中爪 細井長次郎
25、同村高見 高橋和重郎
26、七郷村越畑 船戸悟兵衛氏住
27、平村西平 慈光寺算額、田中與八郎信道
28、大河村腰越根古屋 馬場與右衛門安信
29、同  小貝戸 久田善八郎義知
30、同村赤木 山口三四郎(赤木の友さん)
31、同   田端徳次郎
32、秩父郡大河原村安戸 豊田喜太郎
33、大河村増尾 宮澤彦太郎
34、概括           (昭和十四年八月二十六日)
     『埼玉史談』11巻5号(1940年5月)35頁〜36頁

蚕糸業組合法公布により養蚕実行組合が登記される 1931年

 比企郡養蚕実行組合「組合員名簿」1932年(昭和7)2月には、比企郡下の養蚕実行組合の組合名、事務所、組合長氏名、組合員数、設立年月日、登記年月日が掲載されている。
 この名簿にある町村別の養蚕実行組合数は次のとおりである。

現・嵐山町=菅谷村6、七郷村4
現・東松山市=松山町6、大岡村2、唐子村9、高坂村16、野本村18
現・滑川町=福田村10、宮前村11
現・小川町=小川町7、八和田村8、大河村14、竹沢村6
現・ときがわ町=(旧都幾川村)明覚村6、平村1、(旧玉川村)玉川村6
現・鳩山町=亀井村4、今宿村1
現・川島町=小見野村11、中山村13、八ツ保村2、伊草村3、三保谷村7、出丸村10
現・吉見町=東吉見村7、南吉見村5、西吉見村5、北吉見村3

 1931年(昭和6)3月の蚕糸業組合法公布を機に、埼玉県では各郡養蚕実行組合連合会の下部組織としての養蚕実行組合の組織化と登記促進が図られた。養蚕実行組合は「養蚕業に関して組合員の共同の利益増進を図る」ことを目的とし、「養蚕の指導奨励、蚕種統一・共同購入、稚蚕共同飼育、桑園改良、繭共同販売、病害虫・凍害防止、技術講習会、災害共済」などの事業活動を行う組織である。
 比企郡では1931年(昭和6)9月〜12月、「養蚕組合名簿」によれば、201の養蚕実行組合が設立、登記されている。従来の養蚕に熱心な農家の申し合わせ組合から、法的に統制された系統養蚕組合の末端組織としての養蚕実行組合の誕生である。
 この時結成された、現嵐山町域の菅谷村、七郷村の養蚕実行組合は10組合で全大字に組織されておらず、全養蚕農家の組織化にはほど遠い状態であることを示している。

旧・菅谷村
 将軍沢養蚕実行組合 小久保恭之助組合長 35戸
 菅谷養蚕実行組合 米山松五郎組合長 33戸
 鎌形養蚕実行組合 簾藤正作組合長 66戸
 鎌形川南養蚕実行組合 小林才治組合長 18戸
 大蔵養蚕実行組合 冨岡茂八組合長 47戸
 志賀養蚕実行組合 内田寛太郎組合長 23戸

旧・七郷村
 吉田養蚕実行組合 藤野良助組合長 30戸
 杉山養蚕実行組合 阿部寶作組合長 16戸
 古里養蚕実行組合 安藤寸介組合長 35戸
 広野養蚕実行組合 栗原侃一組合長 11戸

     比企郡養蚕実行組合「組合員名簿」1932年(昭和7)2月

武蔵比企郡の諸算者34 概括 三上義夫 1941年

 三十四、比企郡の数学に就いて、調査した所は右の如きものであるが。松山には川越藩の源屋もあった事だし、数学に就いても事蹟があらうと思はれる。吉見地方、元の横見郡に於ても江和井の田邊倉治郎一人は知り得られたが、他に人名をだも確かめ得ないのも、物足りない。大串の毘沙門堂に算額があったと聞いた事もあり、参拝したけれども、見出す事は出来なかったが、既に失はれたのか、場所の違ひか、あの地方にも算者の若干人はあっても宜いやうに思はれる。其他の地方にも見聞に觸なかったのが、幾らもあらう。
 古い時代に就いて知る事が出来ないのは、何れの地でも同様ではあるが、此れも残念である。上述の記事からでも、如何に過去の算者が忘れられて居るかを思ふとき、時代のやや古いものは凡て忘却の中に落入って、知り得られないのであらう。
 明治初年の地租改正の時に、地方の諸算者が丈量などに活躍したのは、全国一般の事情であったが、比企郡に於ても同じく其事情を見る。一般に実用の方面に関係の多かった事も、相当に認められる。諸算者の教授は大部分が其であった。実用以上のものになると、教授を受けるものが、殆んど稀なのが常である。而も其実用的と云はれる教授もずっと古い時代からの事情を継承したのが多く、比企郡でも同様であったやうである。
 算額奉納の風も亦た比企郡でも見られるのであり、知られて居って既に亡失して、存在した事の有無すらも再び世に知られる事の無いものも、幾らもあったであらう。
 現在の算額では、平村【現・ときがわ町】慈光寺のものが最も内容の優れたものであるが、其れは師匠たる市川行英が有力者であった賜ものである。之れに名を署した三人の門弟が、殆んど事蹟の知られないのは惜しい。行英は武州に於て川越、忍の両藩に関係があり、入間郡原市場【現・飯能市】の山間にも門人があったが、竹澤の松本寅右衛門が武州での其門下の最も優れたものと云ふ事が出来やう。諸算額の現存のものの中では、武州各地で見受けた約三十面の中に就き、慈光寺のものが最も優なるものだと謂はねばならぬ。
 比企郡の諸算家は、此市川系統と、江戸の古河氏清の系と熊谷の戸根木並に二州劍持に師事したものと、此三者を除けば、他は単に関流と称したものはあるが、如何なる師傅に基づいて居るかを知られないもの計りである。
 比企郡の諸算者中には、他へ出掛けて巡廻教授したものもあるが、余り遠く出掛けたやうでもなし、又一人の市川行英を除いては、他から来て遊歴教授したものも、知られて居らぬ。松枝誠齋の如きは、大里郡吉見村小八林【現・熊谷市】に寓して、其門人は今の北埼玉地方に多かったが、元との横見郡地方は直ちに隣接しながら、此人の関係も未だ見聞に触れない。
 此の如き事情で、凡て地方的に局限されては居るが、此一郡に於て三十余人の算者の事蹟が曲がりなりにも見出されたのは多とすべきであらう。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)23頁〜24頁、28頁 目次

武蔵比企郡の諸算者33 大河村増尾 宮澤彦太郎 三上義夫 1941年

 三十三、宮澤彦太郎翁は大河村【現・小川町】疊の人で、昭和十二年(1937)二月に年七十餘、前記杉田久右衛門家の分家杉田槌氏の向いに住み、足袋屋あして居る。竹沢村勝呂の吉田源兵衛に算法を学び、源兵衛から授けられた書類をも蔵する。翁の談に拠れば、源兵衛は教えに来たもので、寝泊りして教えたのである。源兵衛から伝えられた書類には

   算法序曰……      吉田勝品謹白
   ……
   九章……
   明治十三年辰第八月廿七日
             關孝知先生九傳
           武陽男衾郡勝呂村
             吉田源兵衞平勝品
             七秩有三才頓首敬白
   右和歌二首
   右諸術勉強中八算見一等迄に 吉田勝品識之
     凡三百四十二術
   明治十三年辰九月大吉日、
      八算見一相除諸術合三百五十五術
   算法指南實誌大尾。   宮澤彦太良。
  算法秘術諸約翦管術五十問。
  ……
  明治十四年巳十二月三日終、……
  右秘傳不殘致傳授候也。
   秘術不レ可レ致二他見一候事。
       比企郡疊村 宮澤彦太郎

 此伝授書は吉田氏の遺品中のものと略々同じである。源兵衛が諸門人へ授けた事も、此れから知られる。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)23頁 目次

武蔵比企郡の諸算者32 秩父郡大河原村安戸 豊田喜太郎 三上義夫 1941年

 三十二、豊田喜太郎は秩父郡大河原村【現・東秩父村】安戸の人で、松本寅右衛門の門人であった。秩父郡ではあるけれども、小川町から大河村を経て隣接し、地理的には比企郡への関係が多い土地である。松本の居村竹沢村木呂子へは山越しに隣って居る。安戸から十町餘の同村御堂の淨蓮寺に、豊田の算額がある。

   關流松本寅右衛門門人
          豊田喜太郎
   明治三十四年(1901)一月吉辰

とありて、三問題を記るす。墓に

得應量仙信士、明治三十七年(1904)九月十九日死、俗名豊田喜太郎、享年六十三

と刻する。屋号を小松屋と称し、当主英輔氏は曾孫であるが、算木はあったが今は無く、十露盤をしたと云ふ話しも餘り出ないし、誰から習ったかも家には伝えがない。弟子には宮崎大九、宮崎與十郎などあったと云ふ丈けが記憶に残る。
 宮崎大九氏は医師にして娯山堂医院主であり、他の門人松澤義海了匚三郎氏は昭和十年(1935)に同村々長であった。私は両人の談話を聞く。
 地租改正の時には十露盤が必要であった。義海村長の時に喜太郎は役場へ出て居った。喜太郎の弟子は百人もあったろう。宮崎氏は一の弟子であった。十露盤の秘法を授けると言われて居た。十露盤は嫌いだけれども、一生懸命に海┐童發譴拭I算では真の法ではない。宜しくない。自分の方から頼んで、覚えて置いて貰わなければならぬと言って弟子に引入れられたのである。先づ天元の一を定めると言った。其訳はと聞くと、師匠から教わった通りにするのだと答える。何だか知らないが、本があった。四五寸厚さのものであった。それを寄こす訳であったが、貰わなかった。喜太郎は十露盤で倉の錠をあけたとか、乗馬の人をはぢき落したとか云ふ話しがあった。十露盤は甚だ達者であった。とても調宝がられて居た。地租改正の時には、宮崎氏父元育が安戸の戸長であり、自宅を役場にして居たが、喜太郎は筆生で来て居た。其時の測量などは喜太郎がやった。地図なども作る。宮崎氏は十代も医者をした家柄であり、祖父通泰は長崎に遊学して、和蘭語の辞典をも作って居る。其碑文も写してあるが、今は関係がないから省いて置く。元育は医者で戸長をするのは出来ないが、喜太郎が居るから、戸長も勤まったのである。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)22頁〜23頁 目次

武蔵比企郡の諸算者31 大河村赤木 田端徳次郎 三上義夫 1941年

 三十一、田端次郎、同じく大河村赤木の人、友さんの弟子である。友さんは文学もあったが、此人は十露盤だけであった。教えもしたが、近所のものが習いに来ると云ふ程度に過ぎなかった。明治三十年(1897)二月三日、五十歳で没し、戒名を潤叟自禪定門と云ふ。昭和四年(1929)正月「算法子弟」が其墓を建てた。隣の谷合で炭焼をして居た双生の兄弟などが、晝には働いて、夜分に習いに来たものもある。(遺族及び其他の談、墓誌に拠る)
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)21頁〜22頁 目次
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