GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

新編武蔵風土記稿

新編武蔵風土記稿 鎌形村(現・嵐山町) ルビ・注

  鎌形村(かまかたむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字鎌形)
    附持添新田(もちぞえしんでん)
鎌形村ハ鎌形郷大河原庄松山領ニ属ス。江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ前村に載(の)ル所ト同ジ*1。民戸百三十六、東ハ大蔵村(おおくらむら)、南ハ須江(すえ)・竹本(たけもと)ノ二村ニ境ヒ、西ハ田黒村(たぐろむら)ニ接シ又槻川(つきかわ)ヲ隔(へだ)テ遠山村(とおやまむら)ニ隣レル処アリ、北ハ千手堂(せんじゅどう)・菅谷(すがや)ノ両村ナリ。東西二十町、南北二十四、五町、用水ハ都幾川(ときがわ)ヲ引キ来テ田間ニ沃(そそ)ゲリ。正保(しょうほう)ノ頃(1644-1648)ノ頃ハ御代官所ニテ寛文八年(かんぶん)(1668)曽根五郎左衛門(そねごろうざえもん)検地セリ。後元禄十一年(げんろく)(1698)金田周防守(かねだすおうのかみ)ガ采地(さいち)*2ニ賜リ、夫(それ)ヨリ引続キ子孫主殿(しゅでん)知ル所*3ナリ。此余(このほか)持添新田*4アリ、元文五年(げんぶん)(1740)芝村藤右衛門(しばむらとうえもん)、明和五年(めいわ)(1768)宮村孫左衛門(みやむらまござえもん)、文化六年(ぶんか)(1809)浅岡彦四郎(あさおかひこしろう)等検地ス。
   *1:将軍沢村(しょうぐんざわむら)と同じく江戸より16里。
   *2、3:知行所
   *4:村の地続きを開いた新田で、収穫不安定な場合は石高はつけず、本村から出耕作している新田村居の農民が不在の土地。

高礼場(こうさつば)*1 二ヶ所 南北ニ分テリ。
   *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。


小名 上原 塩沢 植木山


塩山 西方ニアリ上リ四五町*1。
   *1:1町は約109メートル。

槻川 村ノ北ノ方ヲ流ル。川幅十五六間*1砂利川ナリ。田黒村ヨリ入リ村内ニテ都幾川ニ合セリ。
   *1:1間は約1.8メートル。

都幾川 坤(こん)ノ方*1ヲ通ゼリ。水幅三十間余、此川ニ添(そ)ヒテ堤(つつみ)アリ。
   *1:南西の方角。

清水 村ノ南ノ方ニアリ、竹藪(たけやぶ)ノ間ヨリ湧(わき)出セル小流ナリ木曽殿清水(きそどのしみず)ト呼ベリ。旱魃(かんばつ)ニモ水涸(かれ)ルコトナシト云フ。又此辺ヲ木曽殿屋敷トモ呼ベリ、此辺総テ六ヶ所ノ清水アリシガ、今ハ其形モ残ラズ。猶(なお)八幡社ノ条ニモ載(の)セタリ。

鎌形村


八幡社 村ノ鎮守(ちんじゅ)ニシテ又田黒村・玉川郷等ノ産神(うぶがみ)*1ナリ。天正十九年(てんしょう)(1591)社領二十石ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜リシニ、寛文四年(かんぶん)(1664)焼失セシガ貞享二年(じょうきょう)(1685)再ビ御朱印ヲ賜リ、正徳年中(しょうとく)(1711-1716)ニ当住某ガ記セル社伝アリ*2。其中ニ延暦十二年(えんりゃく)(793)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)勅命ヲ蒙(こうむ)リ東奥ノ夷賊(いぞく)*3退治トテ関東ニオモムキシトキ当所塩山ニ勧請(かんじょう)セリ。相続キテ伊予守頼義(いよのかみよりよし)*4・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)*5モ東征ノミギリ所願ヲコメ其後義賢(よしかた)*6・義仲(よしなか)*7・頼朝(よりとも)*8・尼御台所(あまみだいどころ)*9等信仰浅カラズ、神田(しんでん)*10若干ヲ寄セラル云云。又義仲誕生(たんじょう)ノハジメ七個処ノ清水ヲ挹(く)テ産湯(うぶゆ)ニ用ヒシト云フ。コノ七ヶ所ノ清泉今ハ大抵廃セリ*11。又当所の鐘(かね)ハ軍旅(ぐんりょ)*12ニ奪ハレ秩父郡御堂村(みどうむら)*13浄蓮寺(じょうれんじ)ノ宝器(ほうき)とナリタレバ今ハ鐘ナシ云云等ノコトヲ載(の)セタリ。サレド彼鐘銘ニ上州緑野郡板倉郷円光寺鐘正慶二年(しょうけい)(1333)癸酉(みずのととり)三月云云及ビ武州比企郡釜形郷八幡宮鐘大檀那(おおだんな)矢野安芸守(やのあきのかみ)文明十一年(ぶんめい)(1479)己亥(つちのとい)八月九日ト云ヒテアリ、サレバ元ハ上野(こうずけ)*14ニアリシヲ当所へ持来リ、又秩父郡へ転ゼシナラン、サハアレ古社ノ証(あかし)トハナスベシ。又銅華蔓(けまん)二ツヲ神宝トス。一ハ円経五寸五分弥陀(みだ)ノ坐像ヲ鋳出シ、傍(かたわら)ニ安元二(あんげん)丙申(ひのえさる)天(1176)八月之吉清水冠者源義高*15トアリ、一ハ円経四寸八分薬師ノ坐像ヲ鋳出ス、左傍ニ貞和四戌子(いぬね)年(1348)七月日大工兼泰(かねやす)トアリ、右傍に四ノ文字アレド磨欠シテ読得ズ。当所ニ置ケルユエンハ伝ヘズ。華鬘(けまん)二図上ニ載ス。
   *1:鎮守の神。
   *2:
   *3:都から遠く離れた人たちを野蛮人として軽蔑していう語。えびすの賊。
   *4:源義義。源義家の父。
   *5:源義家。
   *6:源義賢。源頼朝の叔父で木曽義仲の父。
   *7:木曽義仲。
   *8:源頼朝。
   *9:源頼朝の妻政子。
   *10:神社に付属し、神社維持のための田。
   *11:七清水の位置は、中世編1-1-1の図を参照。
   *12:軍隊。
   *13:現・東秩父村御堂。
   *14:現・群馬県。
   *15:源義仲の子。

  ○別当*1 大行院(たいぎょういん) 本山修験(しゅげん)、幸手不動院*2ノ配下ナリ、鎌形山真福寺ト号ス。開山栄長寂年(じゃくねん)*3ヲ伝ヘザレト、御堂村浄蓮寺文明十一年(ぶんめい)(1479)ノ鐘銘ニ永運栄海ナドアルモ、当院世代ノ内ナリト云ヘバ旧キコト推(おし)テ知ルベシ。
   *1:神社の管理にあたるもの。
   *2:関東を代表する本山派修験の大先達で配下の本山派修験寺院を支配した。
   *3:死亡の年。

  ○桜井坊(さくらいぼう) 大行院ト同ジク不動院ノ配下ナリ、大聖院ト称ス。中興清伝天正三年(てんしょう)(1575)寂ス*1。本尊不動ヲ安ス。
   *1:死亡する。

  ○石橋坊(いしばしぼう) コレモ不動院ノ配下、開山源慶大永元年(たいえい)(1521)寂セリ。本尊不動ヲ安ス。此二坊ノ本山大行院トシ同ジケレド今ハ大行院ニ属シテ配下ノ如シ。


  ○薬師堂


瀬戸明神社 村民持


班溪寺(はんけいじ) 禅宗曹洞派*1、入間郡越生竜穏寺ノ末、威徳山ト号ス、本尊釈迦ヲ安セリ。開山ハ本寺十六世鶴峯聚孫寛永三年(かんえい)(1626)十二月十六日寂(じゃく)セリト。サレド当時ハ清水冠者義高母威徳院殿班溪妙虎大姉追福ノタメニ草創セリ。コハ旧キ人ナレバ鶴峯ハ中興ニテ開山ノ名ハ失ヒシナルベシ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。


  ○鐘 享保四年(きょうほう)(1719)ノ銘ナリ。文中木曽義仲ノ長男清水冠者義高、為阿母威徳院殿班溪妙虎大姉創建所也ト見ユ。


  ○天神社


宗信寺(そうしんじ) 日蓮宗*1、下総(しもうさ)国真間弘法寺ノ末、経王山ト号ス。本尊三宝ヲ安ス。開山日法慶安(けいあん)元年(1648)七月十五日寂セリ。
   *1:鎌倉時代、日蓮によって開かれた宗派。

※鎌形八幡神社社額
鎌形八幡社額

※鎌形八幡神社天井画
天井画

※奉納額 明和8年(1771)
奉納額

新編武蔵風土記稿 古里村(現・嵐山町) ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。
 
  古里村(ふるさとむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字古里)

古里村ハ江戸ヘノ行程(こうてい)前村ト同ジ*1。郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)ヘ詳(つまびらか)ナラズ。東ハ土塩村(つちしおむら)ニ隣リ、南ハ吉田村ニ錯(まじわ)リ、西北ノ二方ハ男衾郡(おぶすまぐん)西古里・本田ノ二村ニ接(せつ)ス。東西十七、八町(ちょう)、南北八町*2許(ばか)リ。民戸七十。正保(しょうほう)ノ頃(1644-1648)ノモノニハ高室喜三郎(たかむろきさぶろう)御代官所及ビ酒井紀伊守(さかいきいのかみ)、有賀半左衛門(ありがはんざえもん)、市川太左衛門(いちかわたざえもん)、内藤権右衛門(ないとうごんえもん)、松崎権左衛門(まつざきごんざえもん)、永井七郎右衛門(ながいしちろうえもん)ガ知行*3トアリ、後宝暦(ほうれき)年中(1751-1764)ニ至リ御料所(ごりょうしょ)*4ノ分ヲ清水殿ノ領地ニ賜(たまわ)リシニ、寛政(かんせい)年中(1789-1801)上リテ又御料所トナレリ。松崎権左衛門ノ知行ハ子孫権左衛門忠延(ただのぶ)ノ時、延享(えんきょう)二年(1745)七月二男松崎伊織幸喜ニ分テリ。酒井紀伊守ノ知行ハ子孫兵部(ひょうぶ)ノ時上リテ元祿十一年(げんろく)(1698)林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛ガ家ニ賜リ、今モ此等ノ子孫、永井五左衛門、市川瀬兵衛、内藤熊太郎、有賀滋之丞(しげのじょう)、松崎藤十郎、同キ弥兵衛、林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛ノ知行所ナリ。
  *1:前村(奈良梨村)から江戸までの行程17里と同じ。
  
*2:1町は約109メートル。
  
*3:領知。領地。
  
*4:幕府の直轄地。

 高札場(こうさつば)*1 十ヶ所ニアリ。
  *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

  小名(こな) 中内手(なかうちで) 峯内手(みねうちで) モウチ

 滑川(なめがわ) 南ノ方吉田村ヨリ来ル水、村内小渠(しょうきょ)*1ノ悪水(あくすい)*2ニ合シ、一条*3ノ流トナリテ東ノ方ヲ通ズ。川幅四、五間。
  *1:小さな堀。
  
*2:水田の水を落とす小川。排水路。用水の反対語。悪水堀。
  
*3:一筋。

 兵執明神社(へとりみょうじんしゃ)*1 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ。社内ニ蔵(ぞう)スル宝永(ほうえい)七年(1710)ノ棟札(むなふだ)ニハ兵執明神ト書セリ。
  *1:武甕槌命(たけみかづちのみこと)を武勇の神として祀る。

 愛宕社(あたごしゃ)*1
  *1:雷神を祀り、防火の守護神。

 稲荷社(いなりしゃ)*1
  *1:五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神を祀る。

 以上三社ハ竜泉寺持。

 竜泉寺(りゅうせんじ) 天台宗*1、江戸山王社(さんのうしゃ)別当(べっとう)城林寺ノ末、金剛山(こんごうさん)金州院(きんしゅういん)ト云ヒ、開山(かいさん)ノ僧ハ貞治三年(じょうじ)(1364)十月示寂(じじゃく)セシ*2ト云フノミ。其名詳ナラズ。当寺ハモト光林寺(こうりんじ)ト号セシヲ、慶安三年(けいあん)(1650)真海(しんかい)ト云フ僧中興(ちゅうこう)セシ時今ノ寺号ニ改メタリ。真海ガ寂年(じゃくねん)*3詳ナラズ。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*4ヲ安セリ*5。
  *1:平安時代に中国で学んだ最澄(さいちょう)が、帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。
  *2:死亡する。
  
*3:死亡した年。
  
*4:阿弥陀(あみだ)の略。
  
*5:安置する。

 重輪寺(じゅうりんじ) 元ハ重林寺ト書セリ。曹洞宗(そうとうしゅう)*1、上野国群馬郡白川村竜沢寺末、旧里山ト号ス。慶長(けいちょう)年中(1596-1615)ノ草創ニテ、開山理山銀察(りざんぎんさつ)ハ寛永十年(かんえい)(1633)十一月廿五日化ス*2。本尊地蔵*3ヲ安セリ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
  
*2:死亡する。
  
*3:地蔵菩薩。

新編武蔵風土記稿 広野村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

   広野村(埼玉県比企郡嵐山町大字広野)

 広野村(ひろのむら)ハ水房庄(みずふさしょう)*1ニ属(ぞく)セリ、領名(りょうめい)及(およ)ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村*2ニ同ジ*3。村ノ四方、東ハ太郎丸村(たろうまるむら)ニテ、南ハ杉山村(すぎやまむら)ニ接(せつ)シ、西ハ越畑村(おっぱたむら)、北ハ勝田(かちだ)・伊子(いこ)ノ二村ニ続ケリ。東西二十八町(ちょう)*4南北十町(ちょう)許(ばか)リ。戸数(こすう)六十軒(けん)、御打入(おうちいり)*5ノ後高木筑後守廣正(たかぎちくごのかみひろまさ)ニ賜(たまわ)リ子孫(しそん)続キテ知行(ちぎょう)*6セシガ、元祿十一年(げんろく)(16989御料所(ごりょうしょ)*7トナリ同十三年黒田豊前守(くろだぶぜんのかみ)ニタマヒ、同キ十七年木下求馬(きのしたきゅうま)・島田藤十郎(しまだとうじゅうろう)・内藤主膳(ないとうしゅぜん)・大久保筑後守(おおくぼちくごのかみ)ガ家ニ賜(たまわ)リテヨリ今ニ替(かわ)ラズ。
   *1:『新編武蔵風土記稿』に出てくる庄名。属したのは広野・水房村枝郷太郎丸・福田・伊子・水房・水房村枝郷中尾・野田・岡郷・小江川の九か村。現在の嵐山町・滑川町・東松山市・熊谷市の旧江南町あたり。
   *2:千手堂村。
   *3:「江戸ヨリ行程拾六里」。
   *4:1町は約109メートル。
   *5:徳川家康が天正18年(1590)江戸城に入ったことをさす。
   *6:支配。
   *7:幕府の直轄地。

 高札場(こうさつば)*1 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

 小名(こな) 川島 爰(ここ)ハ村ノ飛地(とびち)ニシテ東ノ方太郎丸村ヲ隔(へだ)テシ所ヲ云フ。
       勝田(かちだ) 是(これ)モ村ノ飛地ナリ、北ノ方勝田村(かちだむら)ノ辺(へん)ニアリ。
       上郷(かみごう) 中郷(なかごう) 下郷(しもごう)
 八宮社(やみやしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、泉覚院持
 鬼神明神社(きじんみょうじんしゃ) 村民持(そんみんもち)。
 金鑽社(かなさなしゃ)*1此(この)神社ハ当国(とうこく)ノ古社ナリ。児玉郡金鑽村(かなさなむら)金佐奈(かなさな)神社ノ遥拝(ようはい)ノ為ニ建シナルベシ。持(もち)前ニ同ジ。
   *1:地元に残る安政七年(1860)の神社修復帳には金皿大明神と記されている。金皿山(かなさらやま)の山頂近くにあったが、関越自動車道の建設により今はふもとに移されている。火伏(ひぶせ)の神として信仰されている。

 廣正寺(こうしょうじ) 曹洞宗(そうとうしゅう)*1 郡中(ぐんちゅう)市ノ川村(いちのかわむら)*2永福寺(えいふくじ)末(まつ)、高木山(こうぼくさん)ト云フ。慶安二年(けいあん)(1649)寺領(じりょう)二十石(こく)ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜(たま)ヘリ。当山(とうざん)ハ入間郡龍ケ谷村(たつがやむら)龍穏寺(りゅうおんじ)、四世(よんせい)ノ住僧(じゅうそう)天庵(てんあん)ノ草創(そうそう)*3ニシテ、元ハ萬福寺(まんぷくじ)ト号(ごう)セシヲ、当所(とうしょ)ノ地頭(じとう)高木甚左衛門正綱(たかぎじんざえもんまさつな)、其父筑後守廣正(ちくごのかみひろまさ)ノ追福(ついふく)*4ノタメ永福寺ノ僧起山(きざん)*5ヲ請(こう)テ中興(ちゅうこう)*6シ、父ノ実名(じつめい)ヲモテ寺号(じごう)*7トシ中興開墓トセリ。廣正(ひろまさ)ハ慶長十一年(けいちょう)(1606)七月二十六二日卒ス*8。法名(ほうみょう)萬福院殿大翁秀椿大居士(まんぷくいんでんだいおうしゅうちんだいこじ)ト云フ。正綱(まさつな)ハ寛永(かんえい)九年(1632)十一月十日卒ス。廣正寺性空道把居士(こうしょうじせいくうどうはこじ)*9ト謚(おくりな)*10セリ。中興開山(ちゅうこうかいさん)起山(きざん)元和六年(げんな)(1620)十一月十二日化(か)ス*11。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*12【阿弥陀(あみだ)の略】ヲ安(あん)ス。小野篁(おののたかむら)*13ノ作ト云フ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗とならぶ禅宗の二大宗派。
   *2:現・東松山市大字市ノ川。
   *3:創建。
   *4:追福。
   *5:起山洞虎禅師(きざんどうこぜんじ)。
   *6:ふたたび盛んにすること。
   *7:寺の呼び名。廣正寺。
   *8:死ぬこと。
   *9:正しくは廣正寺殿性空道把大居士(だいこじ)。
   *10:死後、徳をたたえて贈る称号。
   *11:死ぬこと。
   *12:阿弥陀の略。
   *13:平安時代前期に宮中に仕え参議になった漢学者。歌人として名を残した。
 
  ○鐘楼(しょうろう) 享保年中(きょうほう)(1716−1735)ニ鋳(い)タル鐘(かね)ヲ掛(か)ク。
 泉覚院(せんかくいん) 本山修験(しゅげん)*1男衾郡(おぶすまぐん)板井村(いたいむら)*2長命寺(ちょうめいじ)配下(はいか)、本尊(ほんぞん)不動(ふどう)*3ヲ安(あん)ス。
   *1:京都の聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派修修道(しゅげんどう)のこと。修験道は日本固有の山岳信仰に根ざし、密教(みっきょう)の影響(えいきょう)を受けて形成された宗教の一派。
   *2:江戸時代から1889年(明治22)までの村名。現・熊谷市の旧江南町の大字名。
   *3:不動明王のこと。


 弥陀堂(みだどう)*1
 薬師堂(やくしどう)*2二宇(にう)*3共(とも)ニ村持(むらもち)。
   *1:阿弥陀仏(あみだぶつ)を安置したお堂。
   *2:薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)を安置したお堂。
   *3:二つのお堂。

新編武蔵風土記稿 勝田村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  勝田村(かちだむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字勝田)
 
 勝田村ハ松山領ニ属(ぞく)シ江戸ヨリ行程(こうてい)前村*1ニ異(こと)ナラズ*2。按(あんず)ルニ『東鑑(あずまかがみ)』*3建久四年(1193)二月十日ノ条(じょう)ニ、毛呂太郎季綱(もろたろうすえつな)*4勧賞(かんしょう)*5トシテ武蔵国泉・勝田ノ地ヲ賜フヨシ見エタリ。コノ勝田ト云フハ即チ当村ノコトニテ、泉ハ隣村和泉村(いずみ)ナルベシ。サレバ古クヨリ開ケシ村ナルコト知ラル。東ハ伊子村ニ隣リ、南ハ広野村ニテ、西ハ吉田村ニ錯(まじわ)リ、北ハ和泉村に境(さかい)セリ。東西十八丁南北二十五丁許(ばか)リ、民戸四十六。コノ村正保(しょうほう)ノ頃(1644−1648)ノモノ*6ニハ岡部外記(おかべげき)*7ガ知行(ちぎょう)タリシコト見エタリ。ソノ後モ子孫続キテ知行セシガ、安永元年(あんえい)(1772)岡部徳五郎罪(つみ)アリテ没収*8セラレ御料所(ごりょうしょ)トナリ、同キ九年猪子左大夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リテ今モ其子孫栄太郎ノ知ル所*9ナリ。
   *1:伊子村(いこむら)。現・滑川町大字伊古。
   *2:江戸より16里。
   *3:吾妻鏡(あずまかがみ)。鎌倉幕府編纂(へんさん)の歴史書。1180年(治承4)源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵(きょへい)から,第六代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任(かいにん)されて1266年(文永3)に京都に帰るまでを記述(きじゅつ)。
   *4:季綱の父毛呂太郎季光(すえみつ)は入間郡毛呂郷(もろごう)の在地領主で、源頼朝に仕えて人柄と力量で信頼され、源氏一門に準(じゅん)じる待遇を受けて豊後守(ぶんごのかみ)に任じられ、毛呂郷の地頭職を安堵(あんど)されたという。季光の子季綱も頼朝に仕えていた。
   *5:ほうび。
   *6:正保田園簿。
   *7:今川義元(よしもと)の家臣川村善右衛門(かわむらぜんえもん)の妻は、善右衛門の死後に江戸幕府の後の二代将軍秀忠の誕生(たんじょう)で、その乳母(うば)として召しだされ、大姥(おおうば)と呼ばれて奉公した。大姥の息子の主水(もんど)は家康に仕え、家康の指示で大姥の旧姓を継(つ)いで岡部(おかべ)主水(もんど)を名乗ることになった。岡部外記は主水の孫で岡部家の三代目、将軍家光の時代に小姓組(こしょうぐみ)に組み入れられている。
   *8:岡部家は廃絶(はいぜつ)、岡部家八代目徳五郎は遠山(とおやま)の遠山寺(えんざんじ)に入門、27歳で死亡。
   *9:知行所。

 高札場(こうさつば)*1 村ノ西ニアリ
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

 小名(こな) 高倉 新井 天神山

 淡洲明神社(あわすみょうじんじゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ。

 天神社(てんじんじゃ)*1
   *1:菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る。学業成就、学問の神として崇拝されている。

 鹿島社(かしましゃ)*1
   *1:武勇の神、国家鎮護(こっかちんご)の神として武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀る。

 稲荷社(いなりしゃ)*1
   *1:五穀豊穣(ごこくほうじょう)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)の神として信仰された。

  以上ノ四宇(よんう)*1ハ百姓持(ひゃくしょうもち)
   *1:4社。


 正福寺(しょうふくじ) 新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、男衾郡(おぶすまぐん)富田村不動寺(ふどうじ)末、宝蔵山(ほうぞうさん)ト号(ごう)ス。開山(かいさん)祐尊(ゆうそん)、万治(まんじ)元年(1658)九月十六日示寂(じじゃく)ス*2。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*3ヲ安(あん)ス*4。
   *1:空海によって開かれた真言宗の一派。
   *2:死去。
   *3:阿弥陀の略。
   *4:安置。

新編武蔵風土記稿 太郎丸村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 
   太郎丸村(たろうまるむら)
(現・埼玉県比企郡嵐山町大字太郎丸)

 太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ*1、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村*2ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)*3アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)*4トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』*5ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)*6・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)*7ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)*8アリ。爰(ここ)モ本村*9ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロ*10ナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)*11セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。
   *1:水房村は江戸より16里。1里は約3.927キロメートル。
   *2:現在は滑川町大字水房。
   *3:支配地の田畑(たはた)の面積(めんせき)や生産高を調査(ちょうさ)すること。
   *4:開発によって新しい村が作られたり、村高を分割して新村をつくったりしたとき枝郷とか枝村といった。
   *5:検地帳(けんちちょう)。
   *6:現在は滑川町大字中尾。
   *7:1868年(明治元年)に伊古村と変更(へんこう)した。
   *8:水害など。
   *9:水房村。
   *10:知行所。
   *11:幕府に回収。

 高札場(こうさつば)*1 村ノ西ニアリ。
   *1:禁令や法令を板書し、庶民に周知するよう掲示した場所。

 市ノ川 村ノ南堺(みなみさかい)ヲ流ル、川幅(かわはば)三間(さんげん)*1
   *1:1間は約1.8メートル。

 淡洲明神社(あわすみょうじんじゃ) 村ノ産神(うぶすなかみ)*1ナリ、村持(むらもち)。
   *1:守り神、鎮守の神。


 観音堂(かんのんどう)*1 村持。
   *1:観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の像を祀(まつ)っているお堂。

新編武蔵風土記稿 菅谷村(現・嵐山町) ルビ・注

  菅谷村(すがやむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷)
菅谷村ハ江戸ヨリ十五里*1、郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)ヘヲ伝ヘズ。古ハ須賀谷ト書キシヲ仮借(かしゃく)シテ今ハカク記セリ。『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』*2ニ長享(ちょうきょう)年間(1487-1489)、須賀谷之地平沢山ト云フコトミエタリ。其文ノ大略ハ古城蹟(こじょうあと)ノ条ニ出セリ。平沢ハ隣村ナレバ当村ヲ指セシコト明ナリ。下リテ正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃マデモ須賀谷ト書キシガ、元祿(げんろく)ノ図*3ニハ菅谷ト書シタレバ、改リシハ元祿前ノコトナルベシ。戸数四十。江戸ヨリ秩父郡、或ハ中山道へ出ル脇往還(わきおうかん)ニシテ人馬継立(つぎたて)ヲナセリ。東ハ月輪(つきのわ)村ニ接シ、巽(たつみ)*4ノ方ハ上唐子(かみからこ)村ニテ、南ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テ大蔵(おおくら)村ニ隣リ、西ハ平沢・志賀ノ二村ニテ北ハ杉山・太郎丸ノ二村ナリ。東西八町南北九町。此モ天水ヲ待テ耕セリ。御入国(ごにゅうこく)*5ノ後ハ岡部太郎作(おかべたろうさく)*6ノ知行所(ちぎょうしょ)ニシテ、寛文五年(1665)時ノ地頭(じとう)撿地(けんち)セリ。其後子孫徳五郎*7ノ時、上地(あげち)*8セラレシヨリ御料所トナリ、安永九年(1780)猪子左太夫(いのこさだゆう)*9ニ賜リ子孫栄太郎知行セリ。
  *1:1里は約3.927キロメートル。
  *2:室町時代の漢詩文集。著者は万里集九(ばんりしゅうく)。
  *3:「新編武蔵風土記稿」の比企郡巻1にある郡図の「元禄年中改定図」のこと。
  *4:南東。
  *5:徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
  *6:旗本。岡部家二代目の岡部玄蕃(げんば)のこと。初代岡部主水(もんど)の母は家康の命で秀忠(ひでただ)の乳母(うば)を勤め、主水は家康から2千石を与えられる。玄蕃は秀忠に小姓組(こしょうぐみ)で仕えた。
  *7:岡部家8代目。「新編武蔵風土記稿」の勝田村の項には「罪アリテ没収セラレ御料所トナリ」と記されている。
  *8:没収。
  *9:旗本。

高札場*1 北ノ方ニアリ。
  *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 元宿(もとじゅく) 昔宿並(しゅくなみ)ヲナセシ所ナリ。
都幾川 南方ヲ流ル。川幅二百間(けん)*1
  *1:1間は約1.8メートル。およそ360メートル。

山王社(さんのうしゃ)*1村ノ鎮守ナリ。村持下同ジ。
稲荷社(いなりしゃ)*2
天神社(てんじんしゃ)*3
  *1:1907年(明治40)に菅谷神社と改称した。
  *2:五穀豊穣(ごこくほうじょう)をもたらす神を祭った。
  *3:学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祭った。

東昌寺(とうしょうじ) 当時元ハ長慶寺(ちょうけいじ)ト云フ。古城ノ鬼門(きもん)*1ニアリ、其頃ノ開山(かいさん)*2ヲ伝ヘズ。後寛文(1661−1673)ノ始能国芸大ト云フ僧、村民孫右衛門トイヘルモノト謀(はか)リテ今ノ地ニ引移シ、長慶山東昌寺ト改メ、曹洞宗遠山寺(えんざんじ)ノ末トナリ、再興ノ功ハ則チ本山二世幻室伊芳ニユヅリ、コレヲ勧請(かんじょう)開山トナセリ。サレバ能国芸大ハ寛文八年(1668)十二月十六日ノ示寂(じじゃく)*3ナレドモ、開山ノ僧伊芳ハ天文五年*4(1536)二月朔日(さくじつ)*5ノ示寂ナリ。本尊弥陀(みだ)*6ヲ安ス*7。
観王堂*7 千手観音(せんじゅかんのん)ナリ、村持。
  *1:陰陽道で、鬼が出入りする門とされ忌み嫌われた北東の方角。災いを避けるために鬼門の方角に神仏を祭った。
  *2:寺を開いた僧侶。
  *3:高僧の死のこと。
  *4:「天文五年」は、雄山閣版「新編武蔵風土記稿」では「天文十五年」(1546)。
  *5:陰暦(いんれき)で月の第1日。ついたち。
  *6:阿弥陀(あみだ)の略。
  *7:安置。
  *8:雄山閣版「新編武蔵風土記稿」では観音堂である。


菅谷村

古城蹟 凡(およそ)三丁*1四方ノ地ニシテ南ノ一方ハ都幾川ヲモテ要害(ようがい)トシ、其余ノ三方ハ穴堀アリテ所々ニ堤(つつみ)ノ形残レリ。其内ハ総テ陸田トナリタレド、今モ本丸・二ノ丸・三ノ丸等ノ名アリ。『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』ニ云フ、長享(ちょうきょう)戊申(つちのえさる)(1488)八月十七日入須賀谷之北平沢山間太田源六資康(おおたげんろくすけやす)*2之軍営(ぐんえい)ト。此辺ニ平沢村アレバ須賀谷ハコヽノコトナルべケレバ、此頃ハ太田氏ノ陣営ナリシコト知ラル。又『東路土産』*3ニ鉢形ヲ立テ須賀谷ト云フ所ニ、小泉掃部助(こいずみかもんすけ)*4ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)云云(うんぬん)トアリ、今モ当所ヨリ上州(じょうしゅう)ニ至ルニ小川・鉢形ト人馬ヲ次デ順路ナレバ、此書ニ載(のせ)セタル小泉ガ宿所モ当所ノコトナルベシ。又ココヲ畠山重忠居城ノ地トモ云ヒ、後岩松遠江守義純(いわまつとおとうみのかみよしずみ)*5一旦畠山ガ名籍(めいせき)*6ヲ続イテ爰(ここ)ニ住セシナドイヘリ。サレド重忠晩年当所ニ移リシコトシラル。『東鑑(あずまかがみ)』*7元久(げんきゅう)二年(1205)六月二十二日ノ条ニ、重忠十九日小衾郡*8菅谷ヲ出テ云云トアレバ、全クコノ地ノコトナルベシ*9。郡名ハタマタマ訛(なま)リ書セシニヤ。男衾郡畠山村古城蹟ノ条ト参考スベシ。
  *1:距離の単位町(ちょう)のこと。1町は約109メートル。
  *2:扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家老太田道灌(どうかん)の息子。道灌は扇谷上杉氏の下で江戸城や河越城(かわごえじょう)の築城も担当。父道灌が扇谷上杉の実権を握っていることから主君の上杉定正に殺害されたため、太田一族は山内上杉家のもとに走ったといわれている。
  *3:「東路津登(あずまじのつと)」のこと。
  *4:後北条氏の家臣で、当時菅谷城の城代(じょうだい)。
  *5:源氏から分かれた新田氏二代目の新田義兼の娘が、同じく源氏から分かれた足利氏の義純を婿(むこ)に迎え、その間に時兼(ときかね)が生まれた。義純は足利姓で、息子の時兼から岩松姓を名乗るようになった。上野国(こうずけのくに)新田荘岩松郷(群馬県新田郡旧尾島町)に住み地頭職を務めた。後に明治になったとき子孫の俊純(としずみ)は男爵(だんしゃく)になり、新田氏を称した。なお新田義兼の弟新田義季(よしすえ)は後に名を変え、徳川氏の始祖(しそ)とされる徳川義季となる。
  *6:名簿。ここでは「名跡」(みょうせき)の意か。
  *7:「吾妻鏡(あづまかがみ)」。鎌倉幕府編纂(へんさん)の歴史書。1180年の源頼政の挙兵(きょへい)から、第6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任(かいにん)されて1266年に京都に帰るまでを記述(きじゅつ)。
  *8:男衾(おぶすま)郡。
  *9:雄山閣版では、「ことにして」。
  

新編武蔵風土記稿(千手堂村)ルビ・注

 千手堂村(現・埼玉県比企郡嵐山町大字千手堂)

 千手堂村(せんじゅどうむら)
千手堂村ハ江戸ヨリ行程(こうてい)拾六里、郷(ごう)名前村*1ニ同ジ。領(りょう)ハ松山ニ属(ぞく)セリ。村名ハ千手観音(せんじゅかんのん)ノ堂アリシヨリ起リシト云フ。此堂今ハ一院トナリ、民戸四十余。東ハ菅谷村(すがやむら)ニ続キ、南ハ槻川(つきかわ)ヲ限リテ鎌形村(かまかたむら)ニ隣リ、西ハ遠山村(とおやまむら)ニテ、北ハ平沢村(ひらさわむら)ニ境ヘリ。東西五町(ちょう)*2南北四丁(ちょう)*3許(ばか)リ。当所ハ古ヘヨリ御料所(ごりょうしょ)*4ナリシガイツノ頃ニヤ大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)*5ニ賜(たまわ)リ、宝暦元年(ほうれき)(1751)所替(ところがえ)アリテ御料所ニ属シ、同十三年(1763)清水殿ノ領知(りょうち)トナリ、寛政九年(かんせい)(1797)上リテ御料所ニ復セリ。検地(けんち)*6ハ寛文八年(かんぶん)(1668)坪井次右衛門(つぼいじえもん)糺(ただせ)セシ後、延宝八年(えんぽう)(1680)新開(しんかい)ノ地*7アリテ中川八郎左衛門(なかがわはちろうざえもん)改(あらため)シト云フ。
   *1:平沢村と同じ玉川郷に属する。
   *2:1町は約109メートル。
   *3:丁は町と同じ。
   *4:幕府の直轄領。天領。
   *5:江戸時代中期の幕臣大岡忠相(おおおかただすけ)。先祖は徳川氏三河以来の家臣で旗本。町奉行に昇進して越前守となる。さらに寺社奉行、奏者番(そうしゃばん)になり、加増されて一万石の大名になる。八代将軍徳川吉宗の信任が厚かった。
   *6:支配地の田畑(たはた)の面積(めんせき)や生産高を調査(ちょうさ)すること。
   *7:新しく開墾した土地。

高札場(こうさつば)*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟(おきて)などを書いてかかげた立て札の場所。

小名(こな) 中島 原 谷 上

槻川(つきかわ) 南ノ方鎌形村(かまかたむら)堺(さかい)ニアリ、川幅(かわはば)十八間*1(けん)。
   *1:1間(けん)は約1.8メートル。

春日神社 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、村持。

番神社*1 同持。
   *1:三十番神。天台宗・日蓮宗で、法華経を守護する神。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づく。1か月の30日間、1日一体ずつ祭る。


千手院(せんじゅいん) 曹洞宗*1、遠山村(とおやまむら)遠山寺(えんざんじ)末、普門山(ふもんざん)ト号ス。本尊千手観音ヲ安セリ。当院古ヘワツカノ堂ナリシヲ幻室伊芳(げんしついほう)ト云フ僧一院(いちいん)トナセリ。依テ彼僧ヲ開山トス。示寂(じじゃく)ハ天文十五年(てんぶん)(1546)二月朔日(ついたち)ト云フ。入間郡黒須村蓮華院(れんげいん)ノ観音堂(かんのんどう)ニカケタル鰐口(わにぐち)ノ銘ニ、奉施人武州比企郡千手堂鰐口(わにくち)大工(だいく)越松本、寛正二年辛巳*2(かんしょう)(しんし)(1461)十月十七日願主(がんしゅ)釜形四郎五郎(かまがたしろうごろう)トアリ、越松本*3ノ三字ハ解シ難ケレド、是(これ)当院ノモノナルベケレバ寛正ノ頃*4ハイマダ堂タリシコト知ルベシ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:昭和改修版(1957年1月発行)には、「寛政二年辛巳」となっているが、文意と干支からして、「寛正」が正しい。雄山閣版も「寛正二年」としている。
   *3:『入間市史通史編』329頁によると、「大工越松本」とあるのは鳩山町小用の鋳物師(いもじ)の製作を意味する(清水与四次『小用村上小用村鋳物師の研究』)という。
   *4:「寛政」を*2により、「寛正」と改める。


光照寺(こうしょうじ) 日蓮宗(にちれんしゅう)*1下総国(しもうさのこく)葛飾郡(かつしかぐん)真間弘法寺末、法蓮山ト号ス。本尊三宝(さんぼう)*2ヲ安ズ。
  *1:鎌倉時代の日蓮を開祖とする仏教の宗派。
  *2:三宝尊。向かって右に多宝如来、中央に「南無妙法蓮華経」の題目、左に釈迦牟尼仏を配したもの。

新編武蔵風土記稿 志賀村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

   志賀村(しかむら)(現・比企郡嵐山町大字志賀)

志賀村ハ菅谷(すがや)村ノ内ナレバ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村*1ニ同ク、又郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)エモナシ。ソノ分村(ぶんそん)セシハ寛文(かんぶん)年中(1661−1673)ナリト云フ。サレバ正保(しょうほう)年中(1644−1648)ノ国図(くにず)*2ニハ此村名見エズ。元祿(げんろく)(1688−1704)改定ノ図*3ニ始テ出タリ。爰(ここ)モ隣村*4ト共ニ人馬次立(つぎたて)ヲナセリ。村名古ハ四ヶ村ト書キタリシト。イツノ頃ヨリ今ノ文字ニ改リシト云フハ詳(つまびらか)ナラズ。民家百二十、少シク宿並ヲナセリ。東ハ太郎丸(たろうまる)・月輪(つきのわ)ノ二村ニトナリ、南ハ菅谷村(すがやむら)・千手堂(せんじゅどう)・平沢(ひらさわ)ノ三村ニシテ、西ハ下里(しもざと)・中爪(なかつめ)ノ二村ニ続キ、北ハ市ノ川(いちのかわ)ニ限リテ杉山村ニ界(さか)ヘリ。東西二十町南北十町許(ばか)リ。コヽモ古ヘ岡部太郎作*5ノ采地(さいち)*6ナリシガ、明和(めいわ)九年(1772)上(あが)リテ*7御料所(ごりょうしょ)トナリ、安永(あんえい)九年(1780)秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)*8ニ賜リ、今モ子孫左衛門佐領セリ。検地ハ前村*9ニ同ジ。
   *1:菅谷村と同じで江戸より15里。
   *2:正保田園簿のこと。武蔵国のものは武蔵田園簿ともいう。
   *3:元禄郷帳。
   *4:菅谷村。
   *5:旗本。岡部氏2代目岡部玄蕃のこと。初代岡部主水(もんど)の母は徳川家康の命で秀忠(ひでただ)の乳母(うば)を勤め、主水は家康から2千石を与えられる。玄蕃は秀忠に小姓組(こしょうぐみ)で仕えた。
   *6:知行地。
   *7:上地(あげち)となって。没収されて。
   *8:秋元但馬守永朝のこと。秋元家の祖先は、戦国時代の末期深谷城主上杉憲盛(うえすぎのりもり)の重臣「上杉四天王」の一人秋元越中守景朝(あきもとえっちゅうのかみかげとも)で、深谷城落城後息子の長朝(ながとも)が家康に仕え、秋元家四代目秋元喬知(あきもとたかとも)と七代目涼朝(すけとも)はともに川越藩主・幕府の老中を勤めた。その涼朝の子が秋元永朝で、秋元家を相続して江戸城で奏者番(そうしゃばん)を務めた。
   *9:菅谷村。

高札場*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

小名  鎌ヶ谷戸  坊谷  下新田


市ノ川 村ノ北ヲ流ル、川幅三間*1。
   *1:1間は約1.8メートル。

八宮明神(やみやみょうじん)二社 何レモ村ノ鎮守(ちんじゅ)ニテ村持。


稲荷社(いなりしゃ) 保食稲荷(うけもちいなり)ト号ス。保食神(うけもちのかみ)*1は稲荷ノ祭神ナレバ、タマタマ此唱ヲ得シナルベシ。
   *1:食物を司る神。

諏訪社(すわしゃ)*1
   *1:狩猟・農業の神社として崇拝された。


太神宮(だいじんぐう)*1 以上三社共ニ村持。
   *1:天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀った。

宝城寺(ほうじょうじ) 曹洞宗*1、中尾村慶徳寺(けいとくじ)末、大谷山ト号ス。開山臥雲寅竜(がうんいんりゅう)ハ慶長(けいちょう)三年(1598)十一月十六寂(じゃく)ス。本尊正観音*2ヲ安ス。
   *1:鎌倉時代に道元によって開かれた宗派で、坐禅を重視した。
   *2:聖観音に同じ。

万福寺(まんぷくじ) 新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、秩父郡安戸(やすど)町*2上品寺(じょうほんじ)末。山号*3ヲ唱ヘズ。本尊不動*4ヲ安ス*5。
   *1:真言宗の一派。
   *2:安戸村とも書く。現・東秩父村大字安戸。
   *3:寺号の上につける称号。例○○山○○寺。
   *4:不動明王。
   *5:安置する。

新編武蔵風土記稿 吉田村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  吉田村(よしだむら)(埼玉県比企郡嵐山町大字吉田)
 
 吉田村ハ松山領ニ属(ぞく)ス。家数七十余。東ハ和泉村(いずみむら)、南ハ勝田村(かちだむら)、西ハ越畑村(おっぱたむら)、北ハ古里村(ふるさとむら)ニ接(せっ)セリ。東西十八町(ちょう)南北三十町。江戸ヨリ行程(こうてい)十六里(り)*1。御入国(ごにゅうこく)*2ノ後、折井市左衛門(おりいいちざえもん)・山本四兵衛(やまもとしひょうえ)・曽我又左衛門(そがまたざえもん)・松下清九郎(まつしたせいくろう)等ニ賜(たまわ)レリ。其内山本四兵衛ニ賜リシハ寛永十年(かんえい)(1633)二月ノコトナリト家譜(かふ)*3ニ載(の)セタリ。曽我又左衛門ノ知行(ちぎょう)*4ハ何ノ頃カ替(かわ)リテ菅沼氏ニ賜(たま)ヒシナルベシ。今ハ折井九郎次郎・山本大膳(やまもとだいぜん)・菅沼又吉(すがぬままたきち)・松下内匠(まつしたないしょう)等知行ス。検地(けんち)*5ハ宝永(ほうえい)二年(1705)四月御代官(おだいかん)町野惣右衛門(まちのそうえもん)糺(ただ)*6セリ。
   *1:1里は約3.927キロメートル。
   *2:徳川家康が天正18年(1590)江戸城に入ったことをさす。
   *3:寛政重修諸家譜(かせいちょうしゅうしょかふ)のこと。
   *4:主君から与えられた領地。
   *5:支配地の田畑の面積や生産高を調査すること。
   *6:調査。

 高札場(こうさつば)*1 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

  小名(こな) 上(かみ) 下(しも) 長竹(ながたけ) 前谷(まえやつ) 沼下(ぬました)
 滑川(なめがわ) 当村ノ田間(たま)所々ヨリ涌出(わきいで)ル水、村内ニテ落合(おちあい)ヒ一条ノ流トナリ、始テコノ名ヲ負(お)ヘリ。コレ滑川ノ水源(すいげん)ナリ。
 峰明神社(みねみょうじんしゃ)
 手白明神社(てじろみょうじんしゃ)
 五竜明神社(ごりゅうみょうじんしゃ) 以上三社祭神詳(つまびらか)ナラズ、泉蔵院(せんぞういん)持。
 六所社(ろくしょしゃ)
 天神社(てんじんしゃ) 以上二社ハ村民ノ持。
 宗心寺(そうしんじ) 三休山(さんきゅうざん)ト号ス。曹洞宗*1、中尾村慶徳寺(けいとくじ)末、故(モト)ノ地頭折井市左衛門次昌(つぐまさ)、其父次忠(つぐただ)ガ菩提(ぼだい)*2ノ為ニ僧了三雲哲(りょうざんうんてつ)ヲ開山(かいさん)トシテ元和年中(げんな)(1615−1624)起立(きりつ)ス。次忠法諡(ほうし)*3:好源院三休道白(こうげんいんさんきゅうどうはく)ト云ヒ、天正十八年(1590年)八月四日卒(そつ)ス*4:。本尊釈迦(しゃか)*5ヲ安(あん)ス*6。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:冥福(めいふく)を祈る。
   *3:死者へのおくり名。
   *4:死ぬこと。
   *5:釈迦牟尼(しゃかむに)のこと。
   *6:安置すること。
  
   ○ 鐘楼(しょうろう) 元祿七年(げんろく)(1694)ニ鋳(ちゅう)シ鐘(かね)ヲ掛(か)ク。
   ○ 稲荷社
 泉蔵院(せんぞういん) 三宝山(さんぽうざん)福王寺(ふくおうじ)ト号ス。新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、埼玉郡上ノ村(かみのむら)*2一乗院(いちじょういん)門徒(もんと)ナリ。本尊(ほんぞん)不動(ふどう)*3ヲ安ス。
   *1:真言宗の一派で、根来寺を中心に発展した。
   *2:現・熊谷市上之。
   *3:不動明王。悪魔(あくま)や迷(まよ)いを静めるとして信仰された。

   ○山宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ)
 薬師堂(やくしどう)
 観音堂(かんのんどう) コノ二堂ミナ村民持。

新編武蔵風土記稿 遠山村(現・嵐山町) ルビ・注

   遠山村(とおやまむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字遠山)

遠山村モ玉川領ニ属シ江戸ノ里数モ前ニ同ジ*1。民戸二十余。東ハ千手堂(せんじゅどう)・平沢(ひらさわ)ノ二村ニ隣リ、南ハ田黒村(たぐろむら)ニテ、西北ハ下里村(しもざとむら)ニ接(せつ)セリ。東西二十町余、南北十七町許(ばか)リ。御入国(ごにゅうこく)*2ノ後ヨリ御料所(ごりょうしょ)*3ナリシガ、宝永六年(ほうえい)(1709)内藤某ニ賜リ今モ子孫主膳(しゅぜん)知行セリ。撿地(けんち)ハ前村ニ同ジ*4。
   *1:下里村(しもざとむら)から江戸まで17里と同じ。
   *2:徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
   *3:幕府の直轄地。
   *4:下里村の1668年(寛文8)坪井次右衛門実施と同じ。

高札場(こうさつば)*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 滝守 井上 小林 蛇谷 中沢 茗荷沢 打越 横吹

槻川(つきかわ) 村内南ノ方ヲ流ル。川幅十間(けん)*1許(ばか)リ。
   *1:1間(けん)は約1.8メートル。

八幡社 村ノ鎮守ナリ、遠山寺(えんざんじ)持。

稲荷社

神明社 共ニ村民持

遠山寺(えんざんじ) 曹洞宗*1、上野国緑野郡(こうずけのくにみどのぐん)御嶽村永源寺末、長谷山(ちょうこくさん)ト号ス。寺領十石ノ御朱印(ごしゅいん)ハ慶安二年(けいあん)(1649)賜(たま)フ所ナリ。開山ハ漱怒全芳*2永正十五年(えいしょう)(1518)十二月十五日示寂(じじゃく)、開山ハ遠山右衛門太夫光景(とおやまうえもんたゆうみつかげ)ト云フ。過去帳ヲ見ルニ当寺開基無外宗関(むげそうかん)居士(こじ)コノ父政景(まさかげ)也。天正八年(てんしょう)(1580)三月廿三日開基桃雲宗見(とううんそうけん)大居士遠山右衛門大夫藤原光景天正十五年(1587)五月廿九日トアリ、按(かんがえる)ニコノ二人トモニ開基トノセ、宗関居士ノ下ニ此父政景也トアルニヨレバ、其実光景が父政景ノ追福(ついふく)ノタメニ当寺を草創(そうそう)シテ、父ヲ開基トセシヲ合セテ二人共開基ト記セルニ似(に)タリ。又開山ノ寂(じゃく)*3永正十五年トナレバ是(これ)モ請待開山(しょうたいかいざん)ナルベシ。又按ニ隣村田黒村(たぐろむら)ニ、遠山右衛門大夫光景が城蹟*4ト云フ地アルヲ以テ考フレバ、当時此辺彼ガ所領ナリシコト知ラル。光景が事蹟(じせき)ハ他ノ書ニ所見ナケレド、此人モ甲斐守綱景(かいのかみつなかげ)*5等ノ一族ニテ共ニ北条氏ニ仕ヘシ人ナルベシ。
○鐘 本堂ノ軒(のき)ニ掛ク。銘文(めいぶん)中ニ遠山右衛門大夫光景家臣杉田吉兼ト云フ者、大檀那(おおだんな)*6トシテ鋳造(ちゅうぞう)セシ鐘ナリシガ後*7破壊(はかい)セシニヨリ、元祿十一年(げんろく)(1698)当寺十一世畦峻和尚*8ノ代ニ再造セシコトヲ載ス。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:漱恕全芳(そうじょぜんほう)が正しい。
   *3:死亡する。
   *4:小倉城址(おぐらじょうし)。
   *5:北条氏の家臣の遠山丹波守綱景。HP『風雲戦国史』の「武家家伝 武蔵遠山氏」。
   *6:重立った寺の檀家(だんか)。布施などを多くする人。
   *7:雄山閣版では「彼」。
   *8:圭峻大和尚が正しい。

地蔵堂 村民持

参照:小倉城址、遠山氏については、大塚仲太郎「小倉城阯」(『埼玉郷土史談』1935年)。杉田一夫「小倉城址に登る」、中島運竝「武蔵嵐山の桜」。

新編武蔵風土記稿 大蔵村(現・嵐山町) ルビ・注

  大蔵村(おおくらむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字大蔵)

大蔵村ハ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ*1、大蔵郷(おおくらごう)ニ属シ領名(りょうめい)モ亦前村ニ同ジ*2、昔帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)*3ガ武州大蔵ノ館(やかた)ト聞エシハ当所ニテ、ソノ旧蹟(きゅうせき)今ニ存シテ慥(たしか)ナルコトナレバ、久寿(きゅうじゅ)(1154-1156)ノ頃ヨリ唱ヘシ地名ナルコト論(ろん)ナシ。民戸七十余、東ハ根岸村、南ハ将軍沢村(しょうぐんざわむら)、西ハ鎌形村(かまがたむら)ニテ、北ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テヽ千手堂(せんじゅどう)・菅谷(すがや)・上唐子(かみがらこ)ノ三村ナリ。東西八町南北六町、正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃ハ御料所(ごりょうしょ)*4ニシテ検地(けんち)ハ夫(それ)ヨリ前寛永三年*5(1626)(かんえい)アリシニ、後次第ニ新田(しんでん)ノ地開ケシハ万治三年(1660)(まんじ)・寛文八年(1668)・天和(てんな)二年(1682)ノ三度、時ノ代官糺(ただ)セリ。元禄四年(1691)(げんろく)地ヲ割(さい)テ石黒某ニ賜(たまわ)リ、残ル御料ノ所ハ宝暦(ほうれき)十四年(1764)清水殿領地トナリシヲ、寛政九年(1797)再ビ御料トナリ今モ替(かわ)ラズ。
  *1:根岸村と同じで、江戸より16里。
  *2:根岸村と同じで、玉川領に属する。
  *3:源義賢。近衛天皇(このえてんのう)の皇太子時代にその護衛(ごえい)をする帯刀(たちはき)した長官であったのでこのように呼ばれた。義賢は木曽義仲(きそよしなか)の父。源義賢は兄義朝の長男源義平=悪源太義平(あくげんたよしひら)に攻められ討ち死。義賢の子二歳の駒王丸(こまおうまる)は畠山重能(しげよし)、斉藤実盛(さねもり)らに助けられ、長野の木曽谷(きそだに)で成長して後の木曽義仲になる。
  *4:幕府の直轄領。天領。
  *5:雄山閣版(19666月発行)により、寛文三年を寛永三年に訂正。

高札場(こうさつば)*1 二ヶ所 御料私領ノ二所ニ分チ建リ。
  *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 堀ノ内 木ノ宮 御所ヶ谷戸 柏田 入鹿 遠山ヶ谷戸 傾城久保
   地尻 粟津ヶ原 不逢ヶ原トモ云フ

都幾川(ときがわ) 北端ヲ流ル、川幅二百間(けん)*1。
   *1:1間は約1.8メートル。

山王社(さんのうしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、社領十石ハ慶安年中(1648-1652)(けいあん)賜(たまわ)レリ。


○別当(べっとう)*1 安養寺(あんようじ) 天台宗*2 下青鳥村(しもおおどりむら)浄光寺ノ末、大乗山寂光院(だいじょうさんじゃっこういん)ト称ス。本尊阿弥陀(あみだ)ヲ置リ。開山広覚応永元年(1394)(おうえい)草創(そうそう)トノミ伝ヘリ。サレド是等(これら)ニ拠(よ)レバ山王社モ旧キモノナルベシ。
  *1:神社の管理者。
  *2:平安時代に唐の天台山で天台宗を学んだ最澄が帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。


天神社*1
  *1:学業成就(じょうじゅ)・学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祀る。


愛宕社(あたごしゃ)*1
  *1:防火の神。


天王社*1
  *1:疫病(えきびょう)の神。厄除(やくよ)け祈願。


神明社*1
  *1:天照大神を祀る。


稲荷社*1
  *1:農耕神・商売繁盛の神。


諏訪社(すわしゃ)*1 以上安養寺ノ持。
  *1:狩猟・農耕・武芸の神。


神明社 村民ノ持。


向徳寺(こうとくじ) 時宗(じしゅう)*1、寺領十石、慶安(けいあん)二年(1649)ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜ヘリ。相模国(さがみのくに)藤沢*2清浄光寺(しょうじょうこうじ)*3ノ末、大福山無量院ト号ス。開山清阿宝治二年(1248)(ほうじ)四月八日寂(じゃく)セリ。後廃寺(はいじ)トナリシニ向阿徳音中興セリト云フ。此僧ハ天和二年(1682)(てんな)十二月十五日寂セリ、今ノ寺号ハ此僧ノ名ヲ用ヒタルニ似タレド、中興ノ時改メシモノナルベシ。本尊三尊阿弥陀 恵心僧都(えしんそうず)*4ノ作ナリ。
  *1:鎌倉時代に一遍智真(いっぺんちしん)によって開かれ浄土教の一宗派。
  *2:現・神奈川県藤沢市。
  *3:時宗の総本山。
  *4:平安時代中期の高僧源信。


○鐘楼(しょうろう) 鐘ニ元文五年(1740)(げんぶん)鋳造(ちゅうぞう)ノ銘アリ。


○熊野社*1
  *1:国土安泰・延命長寿・無病息災の神。


○稲荷社


古城蹟(こじょうあと) 村ノ西方ニアリ方一町許(いっちょうばか)リ、構(かまえ)ノ内ニ稲荷社アリ今ハ大抵陸田トナレリ、カラ堀及ビ塘(つつみ)ノ蹟(あと)残レリ。此ヨリ西方ニ小名堀ノ内ト云フアリ。昔ハ此辺マデモ構ノ内ニテ帯刀先生義賢ノ館蹟(やかたあと)ナリト云フ。サレド『東鑑(あずまかがみ)』*1ニ義賢ハ久寿二年(1155)(きゅうじゅ)八月武蔵国大倉館(おおくらやかた)ニ於テ鎌倉悪源太義平ガ為ニ討亡ボサルトアリ。此事ハ『平治物語(へいじものがたり)』*2『百練抄(ひゃくれんしょう)』*3等ニモ載(の)せタレド事実ノ詳(つまびらか)ナルコトハ記録ナシ。大蔵ト云フ地名ハ多磨郡(たまぐん)*4ニモアレド、当所義賢墳墓(ふんぼ)アリ、又郡中ニ義賢ニツカヘシモノノ子孫遺(のこ)ルトキハ、此処義賢ガ旧跡(きゅうせき)ナルコト疑フベカラズ。
  *1:吾妻鏡。
  *2:鎌倉時代初期の軍記物語。
  *3:冷泉天皇(れいせいてんのう)から後深草天皇(ごふかくさてんのう)にいたる編年体(へんねんたい)の記録。武家方の「吾妻鏡」と対比される公家方の重要資料。
  *4:源義賢居住の伝承は町田市大蔵や世田谷区大蔵に残されている。


古墳(こふん) 巽(たつみ)ノ方*1村民丈右衛門ガ持ノ畑中ニアリ。相伝フ帯刀先生義賢ガ墳墓(ふんぼ)ナリト。高サ三尺許(さんじゃくばかり)トオボシキ塔ナレドモ半ハ土中ニ埋リ、且五輪(ごりん)*2モ欠損シ其中ワズカニ梵字(ぼんじ)ヲ彫(ほ)リタル五輪ノ内ノ一石ノミ残レリ、ソレニ雨覆(おお)ヒヲナシ注連(しめなわ)ヲ引キ土人*3ハ尼御前(あまごぜん)*4ノ碑ナリトイヘドコレモ定カナラズ。
  *1:南東の方角。
  *2:地輪、水輪、火輪、風輪、空輪からなる五輪塔。平安時代中期から鎌倉期に造られた供養塔。
  *3:土地の人。
  *4:あまごぜ。「御前」は、中世、女性に対して用いられた敬称の接尾語。尼に対する敬称。ここでは源義賢の妻。

新編武蔵風土記稿嵐山町分目次

  古里村(巻之百九十四 比企郡之九)

  吉田村(巻之百九十四 比企郡之九)

  越畑村(巻之百九十四 比企郡之九)

  勝田村(巻之百九十四 比企郡之九)

  広野村(巻之百九十四 比企郡之九)

  杉山村(巻之百九十四 比企郡之九)

  太郎丸村(巻之百九十四 比企郡之九)

  菅谷村(巻之百九十五 比企郡之十)

  志賀村(巻之百九十五 比企郡之十)

  平沢村(巻之百九十四 比企郡之九)

  遠山村(巻之百九十三 比企郡之八)

  千手堂村(巻之百九十四 比企郡之九)

  鎌形村(巻之百九十一 比企郡之九)

  大蔵村(巻之百九十一 比企郡之九)

  根岸村(巻之百九十一 比企郡之九)

  将軍沢村(巻之百九十一 比企郡之九)

  ※嵐山町内を流れる川(比企郡・横見郡総説より)

新編武蔵風土記稿 平沢村(現・嵐山町) ルビ・注

  平沢村(ひらさわむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字平沢)
 平沢村ハ江戸ヨリノ行程(こうてい)十七里ニシテ玉川郷(たまがわごう)玉川領(たまかわりょう)ニ属(ぞく)セリ。此地(このち)昔ハ平沢寺領(へいたくじりょう)ノ内ナリト云フ。按(おもふ)ニ郡中志賀村(しかむら)ノ民、内田氏某ガ所蔵ノ天正十三年(てんしょう)(1585)霜月(しもつき)*1十九日、内田佐渡守広重(うちださどのかみひろしげ)ヨリ同三郎左衛門広次(さぶろうさえもんひろつぐ)ヘ与ヘシ文書ニ武州平沢云々トアルハコヽノコトナルベシ。東ハ菅谷村ニ隣リ、南ハ千手堂村(せんじゅどうむら)、西ハ下里(しもさと)・遠山(とおやま)ノ二村ニテ、北ハ志賀村ニ界(さか)ヘリ。東西ノ径(さしわた)リ十八町*2南北ヘ九町許(ばか)リ。家数三十余。正保(しょうほう)(1644−1648年)ノ頃モ御料所(ごりょうしょ)*3ニテ寛文八年(かんぶん)(1668)坪井次右衛門(つぼいじえもん)*4検地シ、延宝八年(えんぽう)(1680)中川八郎左衛門(なかがわはちろうざえもん)*5新田ヲ糺(ただ)セシ*6ト云フ*7。其後元祿十一年(げんろく)(1698)金田周防守(すおうのかみ)*8ニ賜リシヨリ今子孫主殿ニ至レリ。
  *1:陰暦(いんれき)十一月の別称。
  
*2:1町は約109メートル。
  
*3:幕府の直轄地(ちょっかつち)。
  
*4:代官坪井治右衛門とも書かれている。
  
*5:『吉見町史 下』によると、武田の旧臣で家康に従った今井九右衛門忠昌の長男であったが、同じ武田の旧臣で家康に従った中川昌勝の養子になり、やがて代官になった。中川八郎右衛門の支配地は八王子の代官所と横見郡(現吉見町全域)で、御所村(ごしょむら)に陣屋(じんや)を置いていた。彼は1668年(寛文8)に横見郡内の検地に着手し、1680年(延宝8)に郡内の検地を完了している。
  
*6:新田の検地をした。
  
*7:中川八郎左衛門は横見郡の検地終了後、平沢村の新田検地を行なったことになる。しかし、その2年後の1682年(天和2)に年貢の滞納(たいのう)と行状(ぎょうじょう)よろしからずということで切腹(せっぷく)を命じられ、家も断絶(だんぜつ)になったという。『新編武蔵風土記稿』御所村の「陣屋蹟」の項には、「当郡ノ御代官中川八郎左衛門ガ居シ所ナリ。八郎左衛門ハ天和ノ頃家絶(た)エタリ。今其蹟(あと)スベテ畑トナレリ。」とある。
  
*8:旗本。

高札場(こうさつば)*1 村ノ中程ニアリ。
  *1:掟(おきて)などを書いてかかげた立て札の場所。

小名 赤井谷 デジョウ坊 タカン坊

平沢寺(へいたくじ) 天台宗*1、入間郡仙波(せんば)中院(なかいん)*2ノ門徒成覚山実相院ト号ス。相伝フ往昔(おうせき)*3ハ大ナル仏刹(ぶっさつ)*4ニシテ此地モトヨリ寺領(じりょう)ノ内ナリシト。今村内ノ不動堂ノ不動*5ハ古ノ本尊(ほんぞん)ニテ、又白山ノ社(はくさんのやしろ)モ其頃ヨリノ鎮守(ちんじゅ)ナリト云フ。此堂社ノコトハ下ニ辨(べん)ゼリ。『東鑑(あづまかがみ)』*6ニ文治四年(ぶんじ)(1188)七月十三日丁未(ひのとひつじ)*7武蔵国平沢寺(へいたくじ)院主被付僧永寛訖(おわんぬ)*8トアルハ当寺ノコトナルベシ。サレド今ハ開山モ伝ヘズ。イツノ頃ニヤ一度廃寺(はいじ)トナリシヲ郡中平村(たいらむら)慈光寺(じこうじ)*9ノ住職重永ト云フ僧、カヽル名刹ノ絶タルヲ歎(なげ)キテ天正ノ頃(てんしょう)(1573−1592)ニヤ中興(ちゅうこう)セシトイヘリ。宗長ガ『東路土産』(あづまじのつと)*10ニ鉢形ヲ立テ須賀谷ト云フ所ニ至リ、小泉掃部介(こいずみかもんのすけ)ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)シ、其ホトリノ平沢寺ニシテ連歌(れんが)アリ。此寺ノ本尊ハ不動尊、池ニフリタル松アルヨシノセタリ。是(これ)ニヨレバ永正(えいしょう)頃(1504−1521)マデハ存セシ寺ニシテ、廃(はい)シタルハ夫(それ)ヨリ後ノコトナルベシ。中興開山重永、寛永九年(かんえい)(1632)十二月廿九日示寂(じじゃく)ス。本尊は弥陀(みだ)*11安セリ*12。

  *1:平安時代に唐に渡って学んだ最澄(さいちょう)が帰国後開いた宗派。

  *2:川越市小仙波町にある中院は、1301年には関東天台宗580余寺の本山となり、関東天台教学の中心であった。江戸時代に天海大僧正が家康の信頼を得て活躍するようになると、関東天台宗の中心は同じ小仙波町にある喜多院(きたいん)に移った。現在は「天台宗別格本山特別寺」の称号を持っている。
  
*3:昔(むかし)。
  
*4:寺院。
  
*5:不動明王。
  
*6:吾妻鏡(あづまかがみ)。治承4年(1180)4月9日、源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵(きょへい)から文永3年(1266)7月20日、第6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任(かいにん)されて京都に帰るまでの事歴を編年体に記した史書。編著者は不明であるが鎌倉幕府の公式記録とする説が有力。
  
*7:文治四年は丁未ではなく戊申(つちのえさる)が正しい。
  
*8:訖(きつ)。動詞の連用形について動作が完了したことを示す。……してしまった。「武藏國平澤寺院主職事。被付僧永寛訖。」(むさしのくにへいたくじのいんじゅしきのこと。そうえいかんにつけられをはんぬ。)は「武蔵国平沢寺の寺主職を僧の永寛に与えられた」という意味。
  
*9:ときがわ町にある天台宗寺院、開山は鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟釈道忠(しゃくどうちゅう)といわれ、奈良時代以来の教えを伝える関東を代表する山岳寺院(さんがくじいん)。国宝、国重要文化財、県・町指定文化財が多数保存されている。
  
*10:東路の津登(あづまじのつと)。連歌師宗祇(そうぎ)の門人宗長(そうちょう)(1448−1532)が永正6年(えいしょう)(1509)東国を訪れた時の紀行文。「つと」というのはわらで作った包みのことで転じてみやげもののことも指す。「東路の津登」は「東国のお土産話」という意味。
  
*11:阿弥陀如来。
  
*12:安置する。

○天神社
○寺宝 経筒(きょうづつ) 一口
 享保(きょうほう)ノ頃ナリシ境内ニツヅケル地ニ、土人*1長者塚(ちょうじゃつか)トイヘル古キ塚ヲ掘シニ、古木ノ根ヨリ出シト云フ。銅ニテ尤モ古色ナルモノナリ。久安(きゅうあん)ハ今ヨリ六百七十年ノ余ニ及ベリ。
  *1:その土地に住んでいる人。土地の人。

其図左ノ如シ。
 長七寸九分 口(くち)ノ円形四寸
   敬白 勧進沙門實與
   奉施入如法経御筒一口
   右志者為自他法界平等利益也
   久安四年 歳次戊辰 二月廿九日 戊午
            当国大主散位平朝臣玆縄方縁等
       藤原守道 安●末恒【●は部の異体字】
       藤原助員(すけかず)*1

  *1:文意は、「沙門実与を勧進(かんじん)とし、久安(きゅうあん)4年(きゅうあん)(1148)2月29日に当国大主平玆縄とゆかりのものが施主となり、経筒を納めた。この志は、施主及びすべての者の平等利益の為に行なうものである。経筒の製作者は藤原守道、安部末恒、藤原助員である。」(嵐山博物誌第5巻)。平沢寺と経筒、持正院については、嵐山博物誌第5巻ほか、林宏一「藤原守道の経筒」(『埼玉県立博物館紀要 1』、埼玉県立博物館、1974年)『嵐山町史』、吉田稔「嵐山町平沢の旧修験持正院と平沢寺」(『研究紀要 17』、埼玉県立歴史資料館、1995年)などを参照。

不動堂(ふどうどう) 堂領六石五斗ハ慶安二年(けいあん)(1649)先規(せんき)ノゴトク御朱印(ごしゅいん)ヲ賜フ所ナリ。不動ハ伝教大師(でんぎょうだいし)*1ノ作、コノ像古ハ平沢寺ノ本尊ト云ヘバ、当時コノ地モカノ寺の境内ナルベシ。僧万里(ばんり)ガ『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』*2長享二年(ちょうきょう)(1488)八月ノ条(じょう)ニ云フ、十七日入須賀谷之北平沢山間太田源六資康之軍営於明王堂畔ニ三十騎突出迎余今亦深泥之中解鞍各拝其面賀資康無恙余己暫寓云
   明王堂畔間君軍  雨後深泥似度雲
   馬足未臨草吹血  細看要作戦場文
自註(じちゅう)ニ云フ六月十八日須賀谷有両上杉戦死者七百余員馬亦数百疋。是ニヨレバ此辺太田資康ノ軍営トモナリシコト知ルベシ。
  *1:日本の天台宗を開いた最澄(さいちょう)のこと。
  
*2:梅花無尽蔵は、室町末期の五山禅僧万里集九(1428−)が、その晩年、永正3年(1506)に自作の詩文を自ら編し注をつけた漢詩文集7巻(詩1451首、文111編)。万里集九が美濃鵜沼に構えた庵室を梅花無尽蔵(後年江戸城中にも同名の庵を設ける)と名づけ、また自称としても用いたことから家集の名としたもの。

○七社権現社(ごんげんしゃ) 村ノ鎮守ニテ境内ニアリ。祭神ハ白山及ビ熊野三社三嶋ノ三社ヲ合殿シテ七社ト号ス。サレド古ハ白山ノミノ社ニヤ『梅花無尽蔵』ノ詩社頭ノ月ノ自註ニ云フ、九月廿五日太田源六於平沢寺鎮守白山ノ廟(びょう)*1詩歌会与敵塁相対講風雅叶西俗無此様トソノ詩ニ
   一戦乗勝勢尚加  白山古廟沢南涯
   皆知次第有神助  九月如春月自花
依テ按(かんがえ)ルニ古ヘ平沢寺ノ鎮守白山ハ、当社ノコトニテ熊野・三嶋ヲ合セ、今七社ト号スルハ長享(ちょうきょう)(1487−1489)ヨリ後ナルコト知ルベシ。
  *1:白山神社のやしろ。

○別当(べっとう)*1 持正院(じしょういん) 本山修験(ほんざんしゅげん)*2、葛飾郡(かつしかぐん)小渕村(こぶちむら)*3不動院*4配下(ふどういんはいか)、顕蜜山不動寺ト号ス。当院本尊ニ神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)*5ヲ安ズ。寺伝ニ開山ハ栄源(えいげん)延宝(えんぽう)二年(1674)五月廿三日示寂(じじゃく)*6ト云フ。サレド、世代(せだい)ノ内ニ覚長(かくちょう)ト云ヘル僧アリテ永禄八年(えいろく)(1565)八月寂(じゃく)トアレバ、別当トナリシモ古キコトナルベケレバ、栄源ハ中興開山(ちゅうこうかいざん)*7ナルベシ。
  *1:神社の管理者。
  
*2:京都の聖護院(しょうごいん)を本山とする修験の派。明治政府の神仏分離政策(しんぶつぶんりせいさく)によって、1872年(明治5)に修験道は廃止になり、本山派は事実上解体された。
  
*3:現・春日部市小渕(こぶち)。葛飾郡幸手領に属した。
  
*4:関東を代表する本山派修験の大先達で配下の本山派修験寺院を支配した。参照:「春日部地史 近世−信仰−春日部市の寺社 近世の不動院
  
*5:役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)。7世紀末頃、大和の葛城山にいた呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。神変大菩薩は1799年(寛政2)に光格天皇から送られた諡号(しごう、おくりな)。
  
*6:僧侶の死のこと。
  
*7:寺を再興した人。

新編武蔵風土記稿 越畑村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  越畑村(おっぱたむら)(現・埼玉県比企郡村嵐山町大字越畑)

 越畑村ハ領名(りょうめい)及ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ*1:。東ハ吉田・勝田(かちだ)ノ二村ニ隣リ、南ハ杉山・中爪(なかつめ)ノ村々ニテ、西ハ下上横田村(しもよこたむら、かみよこたむら)ニ交(まじわ)リ、北ハ古里村ナリ。東西七町南北二十町余。家数九十軒。御打入(おんうちいり)*2ノ後、高木筑後守広正(たかぎちくごのかみひろまさ)ガ采邑(さいゆう)*3ニシテ其子甚左衛門ガ時慶安(けいあん)元年(1648)検地(けんち)*4セリ。ソノ後元祿元年(げんろく)(1688)替(かわ)リテ御料所(ごりょうしょ)*5及ビ酒井但馬守(たじまのかみ)ガ知行(ちぎょう)*6トナリシニ、同キ十一年(1698)御料所ノ内ヲ割テ山高十右衛門ニ賜リ、又享保十二年(きょうほう)(1727)残リシ御料所ノ分ヲ黒田豊前守(ぶぜんのかみ)・羽太清左衛門ノ二人ニ賜リテ、今モ高木・山高・黒田・羽太等ノ子孫四人ノ知ル所*7ナリ。
   *1:吉田村と同じで、江戸よりの行程16里。
   *2:徳川家康が天正18年(1590)に江戸城に入ったことをさす】
   *3:領地。
   *4:農民の田畑を測量して等級をつけ、生産力を米の生産高で表わした。そして土地の耕作者を年貢や労役の負担者に定めた。
   *5:幕府の直轄地(ちょっかつち)。
   *6:領地。
   *7:領地。

 高札場(こうさつば)* 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

 小名*1 櫛挽(くしびき) 大槻(おおつき) 深谷 島 大木
   *1:小字。

 市ノ川 西ノ方、上下横田村ノ堺ヲ流ル、川幅三間。

 八宮社(やみやしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ。
  ○別当(べっとう)*1 観音寺 天台宗、中爪村普光寺ノ門徒ナリ、八宮山多門院ト云フ。本尊正観音(しょうかんのん)*2ハ慈覚大師(じかくだいし)*3ノ作ナリ、長二尺許(ばか)リ、開山(かいさん)*4憲舜(けんしゅん)延宝六年(えんぽう)(1678)十月七日寂(じゃく)*5ス。
   *1:神社の管理に当たった寺。
   *2:聖観音とも書く。聖観世音(しょうかんぜおん)の略。
   *3:平安時代初期の僧円仁(えんにん)のこと。延暦寺(えんりゃくじ)第三世座主(ざす)。天台宗山門派の祖。死後,慈覚大師の名を贈られた。
   *4:寺院の創始者。
   *5:死去。

 浅間社(せんげんしゃ)*1
   *1:富士山を信仰し、木花開耶姫(このはなのさくやしめ)を祭神とした。

 客人社(きゃくじんしゃ)*1
   *1:八大社の誤り。櫛入玉神を祀る。

 大天社 以上三社観音寺持。

 雷電社(らいでんしゃ)*1 金泉寺持。
   *1:落雷を避けるために雷電様を祀った。

 宝薬寺(ほうやくじ) 曹洞宗(そうとうしゅう)*1、広野村広正寺(こうしょうじ)ノ末、薬王山(やくおうざん)ト号ス。元和年中(げんな)(1615−1623)ノ僧南叟(なんそう)壽玄*2ノ草創(そうそう)ト云フ。寿玄ハ本寺二世ノ住僧ニテ寛永十九年(1642)二月三日寂ス。本尊釈迦(しゃか)ヲ安置セリ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:この『新編武蔵風土記稿』と『嵐山町史』に「壽玄」と記されているのは間違い。「玄壽」が正しい。広野の廣正寺にある位牌には「前永平當寺二世 南叟玄壽大和尚 禅師 寛永十三年丙子五月三日 示寂」と記されている。死亡年月日もこちらをとるべきだろう。

 薬師堂(やくしどう) 薬師ハ行基(ぎょうき)*1ノ作ナリ。安永四年(あんえい)(1775)ニ書キタル縁起(えんぎ)*2【お堂の由来(ゆらい)を書いたもの】ニ、此堂ハ神亀元年(じんき)(724)ノ起立ナリト云フト、信ズルニ足ラザル説多ケレバ爰(ここ)には採(と)ラズ。
   *1:奈良時代の僧。布教しながら諸国を回り、道、橋、用水施設を建設した。

 金泉寺(きんせんじ) 前ト同寺ノ末ナリ、大龍山ト号ス。本尊釈迦(しゃか)ヲ安ス*1。当寺モ開山ハ南叟壽玄*2ニテ元和年中(げんな)(1615−1624)ノ起立ト云フ。
   *1:安置。
   *2:上に述べた如く玄壽が正しい。

 塁蹟(るいせき)*1 村ノ西ニアリ土人*2其所ヲ城山トヨブ、今ハ陸田トナレリ。何ノ頃何人ノ住セシト云フコト詳(つまびらか)ナラズ、或ハ庄主水(しょうもんど)ト云ヒシ人ノ居蹟(きょせき)*3トイヘド其年代モ定カナラズ。按(あんず)ルニ当国七党*4ノ内、児玉党ニ庄権頭弘高(しょうごんのかみひろたか)ナドアレバ是等(これら)ノ後裔(こうえい)*5ナルニヤ、『小田原役帳』*6ニ庄氏ノ人*7見エタリ、又杉山村ニモ此人ノ居蹟アリ照(てら)シ見ルベシ。
   *1:砦(とりで)の跡。
   *2:土地の人。
   *3:住居跡。
   *4:鎌倉時代に武蔵七党といわれた七つの武士団のこと。児玉党(こだまとう)はその一つ。
   *5:子孫。
   *6:「小田原衆所領役帳」のこと。北条氏康が各家臣の知行高と知行地を記録し、それに応じた軍役などの諸役賦課の基準とするために作成した。
   *7:庄式部少輔、庄新四郎の二人。

 旧家者五兵衛 酒井但馬守ガ知行ノ名主ナリ、氏ヲ船戸ト云ヒ其祖先ハ左兵衛督成氏ヨリ出タリ。成氏ノ子重氏ソノ子氏経ハ船戸左近ト称ス。是(これ)ヨリ世々船戸ヲモテ氏(うじ)トセリ、氏経ノ子孫太郎倶氏、ソノ子大学行氏、ソノ子玄藩浄氏ト云フ。コノ浄氏ハ北条安房守氏邦(ほうじょうあわのかみうじくに)*1ニ仕へ、天正十八年(1590)鉢形落城セシ後当村ニ来リテ農民トナリ、慶長九年(けいちょう)(1604)二月晦日(みそか)死セシ由、家ニ蔵(ぞう)スル過去帳(かこちょう)ニ見エタリ、浄氏ヨリ今ノ五兵衛マデ九代ニ及ベリト云フ。按ルニ重氏・氏経等将軍ノ譜(ふ)*2ニ所見(しょけん)ナケレバ最疑(うたが)フベシ。船戸ノコトハ足立郡鳩ケ谷町ノ民、喜市ナルモノノ先祖ヲ船戸大学助ト云ヒ卒年(そつねん)*3【没年】ハ伝ヘザレド其家ニ蔵スル天正七年(1579)小田原北条家ヨリ与ヘシ文書ニ、鳩ケ谷百姓船戸大学助トアレバ天正ノ頃世ニアリシ人ナリ、前ニイフ大学行氏ハ元亀元年(げんき)(1570)ニ卒(そつ)セシヨシ伝フレバ、大学助トハ別人ニテ其一族ナドニテアルベシ。
   *1:戦国時代末期に活躍した鉢形城主北条氏邦。
   *2:寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)。 江戸幕府が編集した国主、領主をはじめお目見え以上の士についての系譜の書。
   *3:没年。

嵐山町内を流れる川 新編武蔵風土記稿

都幾川 郡ノ中程ヲ流ル。水源ハ秩父郡大野村ノ山間ヨリ出、郡中慈光山ノ渓澗(けいかん)ヨリ湧出スル清水ト合シテ一条ノ川トナル。慈光山ヲ都幾山ト号ス故ニ此川ヲ都幾川ト号スト云フ。又郡西別ニ槻川アリテ下流、コノ川ニ合ス。トキトツキトハ音モ近ク似テマギレヤスシ。『源平盛衰記』ニ木曾越後ヘ退キシニ頼朝勝ニ乗ニ及ズトテ武蔵国月田川ノ端(はし)アヲトリ野ニ陣取トアリ。今下青鳥村ハ郡ノ中央ニテ則コノ川槻川ト合セシヨリ遙二下流ノ崖ニアリ。サレバ彼記ニ月田川ト記(しる)セシハ此川ヲサスコト明ラカナリ。田ノ字モシ衍字(えんじ)ナランニモ当時下流マデツキ川と号セシナラン。サレド今ハ槻川ト合テヨリ下流ハスベテ都幾川ト号シテ槻川トハイハザルナリ。此水流都幾山ノ下ヨリ艮(うしとら)ヘ流レ鎌形村ノ北ニテ槻川トアヒ、東流シテ又巽(たつみ)二ヲレ上井草村ノ西ニテ越辺川ニ入ル。川路七里バカリ上流ハ山間ナリ。下流平地ノ間ニハ堤ヲ築キて水溢(すいいつ)ニソナフ。河原ノ濶(ひろさ)二百間水清浅ナレバ所々ニ歩行(かち)渡スル所アリ。冬春ノ間バカリ橋ヲ架シテ往来ヲ通ス。

槻川 西ノ方ニアリ。水原ハ秩父郡白石村ノ山間ヨリ出、郡中腰越村ニイリ東ノ方ヘ屈曲シテ小川村ニ至ル。此所ニテ兜川ト云フ小流ト合シテ一トナリ、鎌形村ノ北ニ至リテ都幾川ニ入ル。水源ヨリコヽニ至リテ三里バカリ、川幅大抵五十間。

市ノ川 郡ノ中央ヨリ北ニヨリテアリ。水源ハ男衾郡無礼村溜井ノ余水、巽(たつみ)二流レ郡中高見村ニ入リ、是ヨリ大抵東流シ松山町ノ北ニ至リテ北ニヲレ、又東ニ曲リテ横見郡トノ郡界ヲヘテ鳥羽井新田ノ北ニ至リ猶東流ス。コヽヨリハ泥川トナリテイヨイヨ郡界ニソヒ、小見野郷十ケ村ノ地ニ至リテ荒川ニ入ル川幅十間程。此川昔ハ鳥羽井新田ノ北ヨリ艮(うしとら)ノ方、横見郡ノ地ヘ流レシヲ享保八年(1723)井沢惣兵衛鈞命(きんめい)ヲ受ケテ、今ノゴトク郡界ヘ新川ヲ穿(うが)チシヨリ水流カハリシト云フ。故ニ今鳥羽井新田ヨリ下流ハ新市ノ川ト呼ベリ。ソノ辺ハ霖雨(ながあめ)スレバ水溢(すいいつ)スル故堤ヲ築キテ是ニソナフ。此川スベテ屈曲多シ。大凡(おおよそ)九十九曲ニ及ブ。コレヲ延(のべ)てハカレバ川路二十里ニ及ブト云フ。

滑川 水源ハ吉田・古里ノ二村ノ悪水流レ、古里村ニテ一条トナリ。三里バカリ流レテ、松山町ノ北ニテ市ノ川ニ入。スベテ砂利川ナリ。


   新編武蔵風土記稿比企郡之一総説

    『新編武蔵風土記稿16 比企郡・横見郡』21頁〜22頁

      (新編武蔵風土記稿刊行会、修道社発売、1957年1月発行)

LINKS
記事検索
最新コメント
最新記事(画像付)
Categories
GO! GO! 嵐山
GO! GO! 嵐山 2
GO!GO!嵐山 4
里やまのくらしを記録する会
嵐山石造物調査会
武谷敏子の自分史ノート
嵐山町の古文書を読む会