GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

稲村坦元先生菅谷村誌原稿

稲村坦元先生菅谷村史原稿

  菅谷志

  志賀志

  平沢志

  遠山志

  千手堂志

  
鎌形志

  大蔵志

  根岸志

  将軍沢志

  畠山重忠事蹟之記


  鬼鎮神社

  流薬師堂

  平澤懐古

  遠山隧道

  木曽家三代事蹟之記

  笛吹峠考

  坂上田村麻呂事蹟之記

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 鎌形志(現・嵐山町) ルビ・注

    鎌形志
鎌形ハ宿南槻川ヲ超(こ)エ都幾川ニ跨(またが)リテ大蔵ノ西ニ隣リ、其坤(こん)位*1玉川村大字田黒ニ近接セリ、俗説ニ傳(つた)ハレル清水冠者(かんじゃ)冐名(ぼうめい)*2ノ清水ナルモノ地續ニアリ、新記云清水ハ鎌形ノ南方ニアリテ竹薮(やぶ)ノ間ヨリ湧出(ゆうしゅつ)*3セル小流ナリ、「木曽殿清水」トモ呼ベリ、旱魃(かんばつ)*4ニモ水涸(かる)ルヽコト無シ、八幡社ハ村ノ鎮守ニシテ天正十九年(てんしょう)(1591)社殿ニ二十石ノ御朱印(ごしゅいん)*5ヲ賜(たま)ハル、又當所ノ鐘ハ往時軍旅(ぐんりょ)*6ニ奪ハレ、今秩父郡御堂村(現今大河原村ノ大字)浄蓮寺ノ寶器(ほうき)トナリ、銘ニ「上州(じょうしゅう)*7緑野郡(みとのぐん)板倉郷円光寺鐘正慶二年(しょうけい)(1333)三月」云云(うんぬん)「武蔵比企郡釜形郷八幡宮鐘大檀那矢野安藝守(あきのかみ)文明(ぶんめい)十一年己亥(つちのとい)(1479)八月九日」ト彫(ほ)リタレバ、コレハ上野(こうずけ)*8ニアリシヲ當所ヘ持来リ秩父郡ヘ轉(てん)ゼシナラム、サハアレ古社ノ證トハ為(なす)スベシ、又銅華鬘(けまん)*9二ツヲ神寶トス、一ハ円径五寸五分弥陀(みだ)*10ノ座像ヲ鋳出ス、傍(かたわら)ニ「安元二丙申(あんげん)(ひのえさる)(1176)天八月之吉清水冠者源義高(よしたか)」トアリ、一ハ円径四寸八分薬師(やくし)*11ノ座像ヲ鋳出ス、左傍ニ「貞和四年(じょうわ)戊子(つちのえね)年(1348)七月日大工兼泰」トアリ(義高ハ木曽殿ノ子ニシテ大蔵帯刀先生(たちわきせんじょう)義賢ノ孫ニ當レリ)正記編ニ八幡廟ハ坂上将軍*12宇佐(うさ)*13ヨリ遷齋(せんさい)シ、後代随時ノ大将軍等例ヲ追ヒ尊崇(そんすう)セラレシコト見エタリ、中ニモ八幡公*14ハ相州(そうしゅう)*15鎌倉ヘ同前ノ遷齋ヲセラレ、亦當鎌形モ称謂(しょうい)*16相似(あいに)テ既(すで)ニ斯(かく)尊神ノ盛盛威顕然(けんぜん)タルヨリ特ニ改メ奉賽(ほうさい)シ、武相(ぶそう)*16ヲ聯(つら)ネテ源宗殊勝(しゅしょう)ノ畏敬(いけい)頂禮(ちょらい)*18ヲ執(と)ラレシトゾ、由来(ゆらい)其間ノ消息(しょうそく)ヲ傳(つた)エタル一律アリ
  詮似鎌倉遷鶴岡、武宗廟祀八幡皇、
  暮天懸月齋場景、朝日将軍産水光、
  懐昔勿来関北績、唯今凾嶺寨東香、
  神前横都幾川潔、香合潨流沢墨陽、
當鎌形ハ松山小川越生三方ヨリ縣道ノ通叉貼(つうさてん)ニシテ玉川ト菅谷トヲ縫ヒシ中間、戸数百五十七ノ大区ナリ

   *1:西南の方角。
   *2:名をいつわること。
   *3:わきでること。
   *4:ひでり。
   *5:朱印をおした印判状。
   *6:いくさ。
   *7:群馬県。
   *8:群馬県。
   *9:仏前を荘厳にするために仏堂の内陣の欄間などにかける装飾。
   *10:阿弥陀如来の略。
   *11:薬師如来の略。
   *12:平安初期の武人、征夷大将軍となり「蝦夷(えぞ)征伐」に大功をたてた。
   *13:宇佐八幡のこと。大分県宇佐にあり応仁天皇を祭る、八幡宮の総本山。
   *14:源頼義のこと。1063年石清水八幡宮(京都)の分霊を鎌倉鶴岡に勧請した。
   *15:神奈川県。
   *16:名称。
   *17:武蔵と相模。
   *18:インド古代の最敬礼。

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・笛吹峠考 ルビ・注

笛吹峠考
 将軍澤ノ南方数町ニ在リ、亀井村ノ大字須江・奥田ノ両區ニ境界セル稍々北寄ノ長頂巒脉(らんみゃく)*1ノ東西ニ蜿蜒(えんえん)*2シタル宛然(えんぜん)*3肥後(ひご)ノ田原坂ニ髣髴(ほうふつ)*4セシ中央ノ切處(せっしょ)*5一夫両手ヲ揮(ふる)ヘバ*6萬卒超ユルヲ得難キ真個(しんこ)*7天嶮(てんけん)*8ノ要扼(ようやく)*9タリ往古鎌倉ヨリ北武上毛等ニ通ズルノ國郡道路ナリシト云フ、而(しか)モ有事(ゆうじ)*10争衡(そうこう)*11ノ日ニ際シテハ、廣ク南北死命ヲ制スベキ兵書ノ所謂(いわゆる)争地ニシテ、其獲喪(かくそう)*12ハ事定マルト已(や)ムト人存スルト亡(ぼう)スルトノ第一着ヲ示ス大演舞臺タリ、故ニ笛ヲ鳴ラシテ屡々(しばしば)戒心シ策應(さくおう)*13スルニ資(よ)リテ斯(かく)名アリトゾ、古今幾許(いくばく)*14爰(ここ)ニ争戦アリシ中ニモ、彼著明ノ会戦ニシテ且(かつ)惜ムベカリシハ正平七年(しょうへい)(1352)三月廿八日ノ一戦ニ南朝司令ノ主将新田左兵衛督(かみ)*15義宗青年気鋭生兵(せいへい)*16ヲ以テ大軍ノ尊氏ヲ軽ンジ直チニ攻勢ヲ執(と)リ、要害ヲ離レテ敵ニ乗(じょう)ゼラレ一敗、信越(しんえつ)*17ニ退却(たいきゃく)シ時ヲ待ツノ止ムヲ得ザルニ至レルコト是ナリ、但(ただ)シ此役(えき)*18ヤ四五日前義宗ガ尊氏ヲ石濱ニ追迫(おいせ)マリテ、彼ヲシテ単身絶対割服(かっぷく)*19セントスルマデニ苦メタルニ似ズ、斯(かく)敗ヲ取リシハ兵書ニ復(ま)タ人ヲ侮(あなど)ル者ハ亡ブトイヘルニ近シ、嗚呼(ああ)天嶮ヨリモ恐ルベキハ油断ナリ、然レドモ小新田(にった)公ノ英名ハ斯(この)峠ノ真景(しんけい)*20ト相須(ま)チテ長(とこし)ヘニ*21昭々(しょうしょう)*22タリ、這(これ)ハ姑(しばら)ク措(お)キ世人何者ノ愚(ぐ)ゾ、此峠ノ此役(えき)ヲ上信ノ碓氷嶺(うすれい)ニ嫁(か)シ*23テ迷論ヲ吐(は)ク、林衡(はやしたいら)*24ノ博識ヲ以テ尚且(かつ)然(しか)リ、武州ヲ前ニ当テトアレバトテ徑(ただ)チニ三十里ノ碓氷嶺ヲ思フトハ、軍情ニ朦(くら)キモ程(ほど)コソアレ、一卒モ居合セズ腹切ラントマデニ敗レシ尊氏、三日計(ばかり)ニ十萬騎ヲ集メツヽ、十里程ノ当笛吹峠ニ寄ルサヘモ異数(いすう)*25ノ位ナリ、笛吹ヲウスイ(……)ト訓(くん)シ自ラ苦ム者何ノ見地(けんち)*26ゾヤ、マダシモ竿吹ヲ用ヘヨカシ
   *1:ぐるぐると巡っていっている山のつづき。
   *2:うねうねと長いさま。
   *3:そっくりそのままのさま。
   *4:よく似ているさま。
   *5:要害の地。
   *6:充分に発揮すれば。
   *7:まことに。
   *8:地勢険しいところ。
   *9:敵をまちぶせして食い止めこと。
   *10:非常の事態が起こること。
   *11:優劣を争うこと。
   *12:得るか失うか。
   *13:しめしあわすこと。
   *14:どんなに多く。
   *15:兵衛府・衛門府の長官。
   *16:新手の兵。
   *17:長野・新潟方面。
   *18:戦い。
   *19:腹をきって死ぬこと。
   *20:まことのようす。
   *21:永久に。
   *22:きわめてあきらかなさま。
   *23:誤って充てる。
   *24:林述斎(はやしじゅっさい)(1768-1841)。名は衡(たいら)。江戸後期の朱子学者。美濃(みの)岩村藩主松平乗薀(のりもり)の3男。『寛政重修諸家譜』、『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』などの編纂に関与した。
   *25:他に例のないこと。
   *26:判断する際の立場。

00157
2003年5月14日 小川京一郎さん撮影

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 畠山重忠事蹟之記 ルビ・注

   畠山重忠事蹟之記
菅谷村大字菅谷字城ニ菅谷城趾在リ、秩父荘司次郎畠山重忠ノ鎌倉創業ニ策應(さくおう)*1シ相地築城居守シタルノ古墟タリ、現形(げんけい)*2菅谷宿通(東西)迤南(いなん)*3数丁ニ位シタル凡(およそ)三丁四方許(ばかり)ノ丘陵ナリ、南邊ハ東流セル都幾川ニ臨ミ、處々(ところどころ)絶壁ヲナシ大率(たいしゅつ)*4五六丈(じょう)ノ高嶂(こうしょう)*5連綴(れんてつ)*6シ、北邊ハ宿南小名(こな)*7元宿(もとじゅく)ト称セル境上ヨリ、平地ニ高キコト二三丈ヲ以テ里道ニ沿フテ蜿蜒(えんえん)*8シ東西復(ま)タ澗田(かんでん)*9谿窪(けいあ)*10ヲ以テ限リ、尚北面左右翼隅(よくぐう)*11ニ追手門(おうてもん)*12搦手(からめて)門*13等ノ遺型在リ、四縁ヨリ乳内ニ亘(わた)リ起伏ノ裡(うち)*14自然ノ要扼(ようやく)*15ヲ存シ、如今(じょこん)*16ハ陸田(りくでん)*17ニ變シテ多ク桑楮(そうちょ)*18其他農植ノ間彼此ニ松栢(しょうはく)*19ノ疎林(そりん)*20或ハ茅薄(ぼうはく)*21葛蘿(かつら)*22ノ参差(さんさ)*23タルヲ認ムルノミナルモ、少ナクトモ昔時天嶮(てんけん)*24ノ一壮郭墟タリシヲ偲(しの)バルヽナリ、殊ニ諸種ノ傳説ヲ輳合(そうごう)*25スレバ其東西北陸續ノ三郊(こう)*26ハ仍(すなわち)幾数十丁ニ渉(わた)レルノ要塞地タリシヲ覺(おぼ)ユ、宜(うべ)ナリ*27古史、皆(みな)本城ノ重忠ニ重カリシヲ載(の)セテ大同(だいどう)*28タルコト、其後世、岩松遠江守又ハ太田源六其他ノ在営セシ等ハ姑(しばら)ク措(お)クモ、必ズヤ先ヅ當初ノ主将重忠ヲ以テ該城ノ歴史ヲバ装飾スベシ、抑(そもそ)モ本城址ニ直接ノ関係ヲ有セル重忠ハ青史(せいし)*29既(すで)ニ已(すで)ニ定論アリ、由来世人ニモ知レタル中ニ就キ略序(りゃくじょ)*30センニ、其家ハ素(もと)関東ノ名豪、特ニ武州秩父ニ於テ奕葉(えきよう)*31ヲ累ネ来リ、祖父重綱父重能*32ニ至リ庄司(しょうじ)*33ヲ以テ擢(ぬき)ンデテ源平ノ間ニ著シ、重忠箕裘(ききう)*34ヲ承(うけつ)グニ及ンデ仁忠才勇父祖ニ超乗*35シ信義徳望ノ歸スル所鎌倉右大将源頼朝ノ親任ニ會(あ)フテ連(しき)リニ*36大官(だいかん)*37ヲ司直(しちょく)*38スルヨリ施政ノ偏倚(へんき)*39ヲ避(さ)クルタメ、北武(ほくぶ)*40男衾(おぶすま)ノ畠山ニ城(きづ)キ終(つい)ニ更(さら)ニ當菅谷ニ城キ幾(ほと)ント北武全體ヲ管轄スルニ逮(およ)ビ、敢テ求メズシテ威名赫々(かっかく)*41彼レガ如クアリシナリ、重忠ノ人ト為(な)リ誠(まこと)明月ノ如クニシテ、而(し)カモ盈(み)チテ虧(か)ケズ善ク圓ヲ持テルモノ徳望ノ然(しか)ラシムル所、和田義盛ト倶(とも)ニ覇府(はふ)*42第一ノ左右(さう)*43タリ、旦仁忠奇禍(きか)*44ヲ避ケズ、頼朝没後、頼家*45・實朝*46ヲ輔安(ほあん)*47スルヲ自任トセルニ反シ、君家外戚ノ大奸(かん)*48黨與(とうよ)*49ヲ擧(あげ)テ構陷(こうかん)*50是(これ)務(つと)ムルニ抗(こう)シ、成(な)ラザルニ迫(せま)リテ*51寃厄(えんやく)*52ニ斃(たお)レタルモ勇ニシテ義ナリ、其往日(おうじつ)*53頼朝ノ蔭子(かげこ)*54三郎忠久ヲ冥護(みょうご)*55擁封(ようふう)*56セル如キ真ニ才ナリ信ナリ、是ニ於テカ八百年来ノ嶋津公爵家ノ今日在リ一(いつ)*57ニ重忠ノ賜(たまもの)タリ、此他曽我兄弟ニ、又ハ或方面ニ其徳行ヲ致セルコト鮮少(せんしょう)*58ニアラザリシ、此菅谷地方幸ニ斯(かか)ル偉人最終ノ治本領内タリ、学校モ因(よっ)テ其城山ヲ冠字トシタリキ、亦将(は)タ斯クノ如キ正大ノ氣象ノ其孰(いず)レニカ調謬(ちょうびゅう)*59センコトヲ相思セラル、世説ニ云ヘル菅公*60重盛*61ニ重忠ヲ併(あわ)セテ本朝ノ三聖者トハ、蓋(けだ)シ輿臺子(よだいし)*62輩ノ衆庶ニマデ其人格ヲ首肯(しゅこう)*63セシムルノ近キヲ知ルニ足(た)ル、本文ニ由緒アル碑文ヲ掲(かか)クル左ノ如シ
  武蔵國比企郡菅谷村者(は)畠山重忠之墟(きょ)*64也、方(まさに)其盛城備置佛寺曰(いう)長慶、至中世遷於此云、寛永(かんえい)中岡部某公受邑(ゆう)*65、是地有故癈寺、寶永(ほうえい)三年丙戌(ひのえいぬ)(1706)遂以其址賜先太夫多田重勝、命永為塋域(えいいき)*66乃(すなわち)安千手大士名多田堂、没則(ぼっすればすなわち)葬焉(ここに)、子英貞嗣(つぎ)月以其没日會衆(しゅうかい)*67誦(ずす)普門品已(すでに)十三萬餘巻、先是岡部氏滅而(て)英貞土着、不徒(ただならず)今茲(ここ)建石勒(きざむ)概銘曰
  維春維秋維石維悠
   寛政(かんせい)九年歳在丁巳(ひのとみ)(1797)夏四月十九日
              多田英貞一角甫(ほ)*68誌(しるす)

   *1:しめしあわせること。
   *2:現在の形。
   *3:斜め南につらなる。
   *4:おおむね。
   *5:高くけわしい山。
   *6:連なること。
   *7:小字。
   *8:うねうねと長いさま。
   *9:「澗」は谷川の意。谷水の田。
   *10:谷のくぼんだところ。
   *11:つばさのはて。
   *12:大手門、城の正面の門。
   *13:城の裏門
   *14:裏の俗字。
   *15:敵を待ち伏せして食い止めること。
   *16:今の世。
   *17:はたけ。
   *18:桑とこうぞ。
   *19:松と柏。
   *20:木のまばらな林。
   *21:かやとすすき。
   *22:くずとかづら。
   *23:不揃いな樣。
   *24:自然の要害。
   *25:あつめあわせる。
   *26:郊外。
   *27:もっともである。
   *28:大体同様である。
   *29:歴史。
   *30:あらましを述べる。
   *31:代々。
   *32:畠山重忠の曽祖父が重綱、祖父が重弘、父が重能となる。
   *33:荘園領主の命を受けその荘園を管理した職。
   *34:父祖の業をつぐこと。
   *35:追い越すこと。
   *36:つづけざまに。
   *37:大官、高官。
   *38:公明正直に司る。
   *39:かたよりもたれる。
   *40:北武蔵。
   *41:あらわれて盛んなさま。
   *42:幕府。
   *43:かたわら。
   *44:思いがけない災難。
   *45:頼朝の長子、二代将軍、比企能員と結んで北条氏を除こうとして伊豆修善寺に幽閉され暗殺された。
   *46:頼朝の次子、三代将軍、鶴岡八幡宮の境内で兄の頼家の子公暁に殺された。
   *47:助力し安んずること。
   *48:非常な悪者。
   *49:なかま。
   *50:無実の罪を作って人をおとしいれる。
   *51:きわまる。
   *52:無実のわざわい。
   *53:過ぎ去った日。
   *54:人知れずかくまった子。
   *55:神仏が知らず知らずのうちに守ってくれること。
   *56:まもりふうずる。
   *57:第一
   *58:わずか。
   *59:あやまりをしらべる。
   *60:菅原道真。
   *61:平重盛。
   *62:召使。
   *63:うなずくこと。
   *64:古跡。
   *65:封土。
   *66:墓所。
   *67:会に寄り集まる。
   *68:あざな。

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・鬼鎮神社 ルビ・注

鬼鎮神社
大字志賀第一川嶋區ニ在リ、元七郷村大字廣野ノ飛地(とびち)*1タリシ當地ノ民有祠*2ナルガ、明治二十二年(1889)本村ニ属シ村社トシテ遠ク都鄙(とひ)*3ニ鳴レルモノ名社タリ、由来(ゆらい)鬼神又ハ近林ニ雉子(きじ)ノ群棲セルヲ以テ雉子之宮ト称號セルヲ、革命*4ノ際爰(ここ)ニ奉仕シタル社掌(しゃしょう)*5並ニ敬神有力ノ人士等相議(はか)リ相賛(たす)ケ、遂ニ官准(かんじゅん)*6ヲ仰ギテ現称尊號ヲ奉上シタリシモノ、主齋(さい)御柱ハ則チ賽神(さいしん)*7ニシテ、神苑(しんえん)*8ノ風光粛清(しゅくせい)*9ナルニ加ヘテ巨松、喬椙(きょうしょう)*10美櫻、好楓(こうふう)*11ノ景物ニ富ミ、社頭森厳(しんげん)*12ニシテ宏壮ナリ、春秋ノ大祭毎月ノ恒祭ハ勿論平日モ遠近ヨリ群参(ぐんさん)絶間(たえま)無シ、世傳(せいでん)*13ニ當社ハ「畠山重忠菅谷城鬼門鎮護ノ神ト崇(あが)メテ奉齋(ほうさい)*14シタルモ、重忠亡(ほろ)ビ後世力ヲ盡シテ主宰(しゅさい)*15スルモノナキヨリ、永ク衰微シテ在(お)ハセシ」ト云ヘリシガ、今ヤ重忠時代ニヲサヲサ復セントシツヽアリ
   *1:同じ行政区に属するが他に飛び離れて存在する土地。
   *2:人民の所有する社。
   *3:都会と田舎。
   *4:明治維新のこと。
   *5:社司の下に属した神職。
   *6:国の機関に準ずること。
   *7:塞神(さいのかみ)。道祖神(どうそじん、さえのかみ)。
   *8:神社の境内にある庭。
   *9:静かでしーんとしていること。
   *10:高い杉の木。
   *11:このましいもみじ。
   *12:きわめて厳粛なさま。
   *13:世々に相伝えること。
   *14:奉斎。神仏などを慎んでまつること。
   *15:主に切り盛りすること。中心となって運営すること。

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・平澤懐古 ルビ・注

平澤懐古
 大字平澤ノ古刹(こさつ)*1成覺山實相院平澤寺ハ往代(おうだい)著(いちじ)ルキ*2大伽藍(がらん)*3ニシテ当部落モ其寺領ノ僅々(きんきん)タル*4一部分ナリリシガ程(ほど)ニ隷堂(れいどう)*5末社ノ彙(あつまり)モ多数浄境ノ内外ニ列在シタルハ書傳(しょでん)*6其他ニ徴(ちょう)シテ*7識(し)ラルルナリ、其間ノ諸消息(しょうそく)*8ニハ懐古(かいこ)*9ニ清趣妙味(せいしゅみょうみ)*10ヲ覺ユル事往々ニシテ少ナカラズ、今試ミニ一二ヲ表出センニ、先ヅ中古関左(かんさ)*11ノ名将タル太田左金吾持資入道(おおたさきんごもちすけにゅうどう)親子*12ガ薬籠(やくろう)*13中ノ俊才幕賓(ばくひん)*14間ノ策士(さくし)*15タル奇僧萬里(ばんり)*16ガ「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」ノ一二齣(こま)ヲ視(み)ヨ「長享二年(ちょうきょう)(1488)八月(上畧)十七日入須賀谷(すがや)之北平沢山問太田源六資康之軍營於明王堂畔二三十騎突出(とっしゅつ)*17迎余今亦深泥之中解鞍各拜其面賀資康無恙余已(すでに)暫(しばらく)寓(ぐうす)*18云(うんぬん)*19
  明王堂畔問君軍、雨後深泥似度雲、
  馬足未臨草吹血、細看要作戦場文、
自註云六月十八日須賀谷有両上杉戦死者七百餘員馬亦数百疋
 又自註云九月廿五太田源六於平沢寺鎮守白山廟催詩歌會與敵壘相對風雅叶西俗無比様
  一戦乗勝勢尚加、白山古廟澤南涯、
  皆知次第有神助、九月如春月白花、 云々
次ニ宗長(そうちょう)トイヒケル才学ガモノセシ「東路土産」*20ニ「(上畧)鉢形(はちがた)ヲ立テ須賀谷(すがや)ト云所ニ至リ小泉掃部助(こいずみかもんのすけ)ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)シ、其ホトリノ平澤寺ニシテ連歌(れんが)アリ、此寺ノ本尊ハ不動尊、池ニ古リタル松アリ(下畧)云々」以上孰(いずれ)レモ観古(かんこ)*21ニ興味ヲ有スル事共ニテ、如何ニ斯(かく)傍近(ぼうきん)*22ニ採(と)ルベキ資料ノ逸(いっ)セル*23カヲ惜(おし)ム
   *1:古い由緒のある寺。
   *2:はっきりとわかる。
   *3:寺の建築物。
   *4:わずかな。
   *5:付属するお堂。
   *6:書き伝え。古人が書き残した書物。
   *7:見比べて考える。
   *8:事情。変化するものごとのその時その時のありさま。
   *9:昔の事を懐かしく思うこと。
   *10:けがれの無いすぐれたおもむき。
   *11:関東のこと。
   *12:太田持資(道潅、1432-1486)と子の太田資康(すけやす、1476-1513)。左金吾は左衛門督(さえもんのかみ)の唐名。
   *13:薬箱の中にある薬品のように、いつでも必要なときに、自分の役に立ち、自由自在に使える人物。
   *14:相談役となり、特別の待遇を受けている人。
   *15:はかりごとをたくみにする人。
   *16:万里集九(1428ー?)。室町中期の臨済宗の僧。後期五山文学の代表者。
   *17:出し抜けに飛び出すこと。
   *18:かりずまいする。
   *19:と云う。
   *20:東路の津登(あづまじのつと)。連歌師宗祇(そうぎ)の門人宗長(そうちょう)(1448−1532)が永正6年(えいしょう)(1509)東国を訪れた時の紀行文。「つと」というのはわらで作った包みのことで転じてみやげもののことも指す。「東路の津登」は「東国のお土産話」という意味。
   *21:古いことをしらべ見ること。
   *22:近いところ。
   *23:失う。

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・流薬師堂 ルビ・注

流薬師堂
 大字志賀第一區川嶋ニアリ、世傳ニ云フ、往昔(おうせき)尊体ノ其初畠山荘司重忠奥方ノ守本尊ナリシガ、畠山家滅後ハ奈何(いかん)ナル処ニアリテヤ、一年洪水ノ為メ川嶋後郊市廼川(いちのかわ)大急曲ニ環涒(かんとん)*1セル澳頭(おうとう)*2ニ漂着シ大楢(おおなら)樹幹ノ又跨(さこ)*3ニ駐(とどま)リ懸(かか)リ在(あ)リタルモノ、時經(へ)テ由縁(ゆえん)*4モ解(わか)リシヨリ其留地ニ近キ村人等(ら)一宇(う)*5ヲ該着辺(がいちゃくへん)*6ニ建(た)テテ奉安祈願セルコト多年ノ後、浸災(しんさい)*7ヲ避(さ)ケシタメ現境内ニ奉遷シテ復(また)多年ヲ經タリ、尊体木彫長七八寸前地ハ艮位(こんい)*8ニ二丁(にちょう)*9許(ばかり)籔林アリ、古薬師ト唱(とな)フ、現地ニ古碑存ス正和二年(1313)九月ノ字アリ餘ハ讀ミ難シ
 附(つけたり)曰(いわく)當薬師尊楢(なら)樹ニトヾマリカヽリシ所ヨリ、其頃以来俗間「木カカリ薬師」ト唱傳(しょうでん)*10セルヲ後ニハ訛(なま)リテ「キカズヤクシ」トスルハヒガ事*11ナリ
   *1:まわりはきだすこと。
   *2:水の曲がりは入ったところの岸辺。
   *3:また。
   *4:ゆかり。
   *5:お堂。
   *6:その流れ着いた辺り。
   *7:大水の被害。
   *8:うしとらの方角、東北。
   *9:1町は109メートル。
   *10:となえ伝えること。
   *11:僻事、まちがったこと。

00415
2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・遠山隧道 ルビ・注

遠山隧道(ずいどう)*1
 大字遠山ノ東方ニシテ平澤區ノ堺上ニ在リ、明治初年鑿築(さくちく)*2セシモノ、関東地方隧道ノ嚆矢(こうし)*3トシテ草創(そうそう)*4ノ数月都鄙ヨリ来観セシモノ多カリシ、其数町西麓ヲ流ルヽ槻川中南北ノ野馬渓(やばけい)*5ト唱フル長峡アリ、高崖低磯ノ彼此晶岩(しょうがん)*6碧潭(へきたん)*7ヲ隠顕シ、湛漣(たんれん)*8其間ニ刻々洋々放下セルモノト相須(あいま)チ*9、此般(はん)*10ノ風光宛然(えんぜん)*11天界仙境(せんきょう)*12ノ概(がい)*13有リ
   *1:トンネル。
   *2:うがちつくること。
   *3:物事のはじまり。最初。
   *4:創業のこと。
   *5:耶馬渓。大分県中津市を流れる山国(やまぐに)川の渓谷。
   *6:きらめき光る岩。
   *7:あおあおとした深いふち。
   *8:水を深く湛(たた)えあるいはさざなみとなること。
   *9:一つになって。
   *10:すべておしなべて。
   *11:そっくりそのまま。
   *12:仙人の住むところ。
   *13:おもむき。

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 木曽家三代事蹟之記 ルビ・注

   木曽家三代事蹟之記
菅谷村大字鎌形ニ村社八幡神社在リ、即チ祭神譽田別尊(ほんだわけのみこと)*1合殿比賣神(ごうでんひめがみ)*2神功皇后(じんぐうこうごう)*3ヲ奉祀セリ、堂社ハ人皇五十代桓武天皇(かんむてんのう)ノ御宇(ぎょう)*4延暦十二(えんりゃく)癸酉(みずのととり)年(793)将軍坂上田村麿東夷征伐トシテ下向ノ時、當所塩山(しおやま)ニ到リ地景ニ感アリテ、筑紫(つくし)*5宇佐八幡神ヲ遥遷(ようせん)*6祭祀セラレ、仝十六丁丑(ひのとうし)年(797)奥羽ノ國司ヲ兼テ再度下向ノ節、社殿ヲ増築シ恭敬(きょうけい)*7ヲ盡(つく)サレシヨリ郷民之ヲ産土神(うぶすなかみ)*8ト尊崇セリ、其後鎮守府(ちんじゅふ)将軍源義家(よしいえ)・木曽左馬頭(さまのかみ)源義仲(よしなか)・右大将(うだいしょう)源頼朝(よりとも)及夫人北條政子等厚ク信仰アリテ、何レモ神田(しんでん)*9ヲ寄附セラレ、營繕ヲ加ヘラレテ社殿ノ結構(けっこう)*10壮麗ヲ極(きわ)メシト云フ、而(しか)シテ現今存在セル神体ト云ヒ傳フルハ円頂(えんちょう)*11法服(ほうふく)*12ニシテ念珠(ねんじゅ)*13ヲ把持(はじ)*14セラルヽモノニシテ、傳教大師(でんきょうだいし)*15ノ彫刻ナリトゾ、蓋(けだ)シ*16當時佛法隆昌(りゅうしょう)*17ノ餘勢恐レ多クモ浮圖子輩(ふとしやから)*18ノ神祇ヲ左右シテ、斯(か)クノ如キニセシナラン、復(ま)タ當社上古ハ塩山ニ在リシヲ中古(年暦不詳)兵燹(へいせん)*19ニ罹(かか)リ社殿烏有(うゆう)*20ニ属シ、乃(すなは)チ現今ノ地ニ遷(うつ)セシヨリ以降ハ漸々(ぜんぜん)*21衰微シ僅々(きんきん)*22タル神田ヲ傳フル而己(のみ)ニ至リシガ、天正(てんしょう)(1573-1592)ノ末年東國徳川氏ノ領土トナルニ及ンデ、仝十九辛卯(かのとう)年(1591)十一月徳川家康ヨリ社領二十石ヲ寄附セラレ、次デ其ノ代々将軍ヨリ朱印ヲ以テ該地(がいち)*23ヲ賜ハリ来リシヲ、維新明治元年戊辰(つちのとたつ)(1868)十一月之ヲ奉還スルニ至リ、仝七年(1874)ヨリ仝十一年(1878)迄遞減(ていげん)*24禄ヲ下シ賜ハレリ
復(ま)タ擡頭(たいとう)*25ニ田村将軍地景ニ感アリシト云ヘル、塩山ハ即今(そっこん)*26ノ當社ヲ距(へだた)ル西北凡四町ニシテ、峨々(がが)*27タル嶮岳(けんがく)*28ナリ東ハ上原谷西ハ小倉山南ハ小窪ニシテ、麓ニ槻川(本(もと)月川ニシテ数丁(ちょう)下流ニ於テ都幾川ニ合ス)ノ曲流ヲ帯ビ、断岸絶壁怪(かいがん)*29奇岩峭々(しょうしょう)*30磊々(らいらい)*31トシテ一勝(いっしょう)*32臺域ヲナセリ、又塩澤ト云フアリ、往古此邊ヨリ陸塩(りくえん)*33湧出(ゆうしゅつ)セシコトアリ、因(よっ)テ塩山塩澤ノ名起リシト云フ、尚又當社ヨリ西南凡二町半ニ木曽殿屋敷ト唱(とな)フル地アリ、即木曽義仲ノ出生セシ所ト云ヘリ、他ニモ本社ノ東南数町小称(こしょう)植木山ニ木曽殿橋ノ名ヲ存シタル處アリ、蓋(けだ)シ義仲ノ父帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)ハ秩父次郎大夫(たいふ)ノ養君ト為(な)リ、當郷大蔵城及上野國多胡(たご)荘ニ居ヲ為セシガ、久寿二乙亥(きゅうじゅ)(きのとい)年(1155)八月多胡荘ヨリ塩山ニ移ラントシテ大蔵城ニ到リシトキ、兄源義朝ノ長子義平ニ掩殺(えんさつ)*34】セラル、義仲當時嬰児(えいじ)*35タリ、人(齋藤實盛(さいとうさねもり))ニ介抱セラレテ死ヲ免(まぬ)カレ、木曽ノ中原兼遠(なかはらかねとう)ニ保育セラレテ人ト成リ、其頼朝ニ先ンジテ志ヲ得(う)、一時北國東國ヲ控制(こうせい)*36スルニ及ンデ、産地ノ神祠ナルヲ以テ特ニ當社ヲ崇敬シタリ、其長子義高(よしたか)来リ住スルコトアリテ、亦厚ク崇敬セリト云フ、清源(きよはら)一家*37此間ノ消息惨憺(さんたん)*38ニ忍ビザルモノアルモ、這(これ)ハ本廟堂(びょうどう)*39東西ノ天機(てんき)*40ニ随伴(ずいはん)*41シテ骨肉(こつにく)*42各自其事(つか)フル*43所ニ貢献セルノ末路(まつろ)*44、其分ニ至テハ暗涙(あんるい)*45ヲ灑(そそ)イデ尊重セザルベカラザルナリ、夫(それ)レ斯ク上来(じょうらい)*46照シ到ツテ錯綜(さくそう)*47讃歎(さんたん)*48ニ勝(た)エザルコト、彼レガ若キヲ以テノ故ニカ、坂上将軍ヲ始ニテ八幡公*49源右府*50及東照公*51等ノ本祠ニ重キヲ存セルニ係(かか)ハラズ、後代ノ今日至ルマデ闔郷(こうきょう)*52ノ衆庶(しゅうしょ)*53ハ等シク獨(ひと)リ*54木曽殿氏神八幡宮ナルヲ称謂(しょうい)*55シテ口吻(こうふん)*56ヲ去(さ)ラズ、乃(すなわ)チ爰(ここ)ニ特ニ採(と)ツテ斯(かく)世記ヲ表出セリ

   *1:応神天皇のこと、文武の神。
   *2:一緒にまつる女神。
   *3:応神天皇の母
   *4:天皇の治める御世。
   *5:九州の古称。
   *6:はるか遠くへうつすこと。
   *7:つつしみうやまうこと。
   *8:生まれた土地の守り神。
   *9:神社に付属する減免の田。
   *10:家屋などの構築物。
   *11:髪をそった頭。坊主頭。
   *12:僧服。
   *13:数珠。
   *14:手にしっかりと持つこと。
   *15:最澄(さいちょう)(767-822)。日本の天台宗、比叡山延暦寺の開祖。
   *16:たしかに。
   *17:勢いに盛んなこと。
   *18:偽僧侶のやから。
   *19:兵火。
   *20:烏(いずくんぞ)有らんや。なにもないこと。
   *21:じょじょに。
   *22:わずか。
   *23:その地。
   *24:次第に減少すること。
   *25:頭をもたげる。
   *26:ただいま。
   *27:山などの険しく聳え立つさま。
   *28:高い山。
   *29:怪しげな岩。
   *30:高く険しい。
   *31:石の多く重なっている樣。
   *32:一つの景色の勝れたところ。
   *33:岩塩。
   *34:不意討ちにして殺す。
   *35:乳飲み子。
   *36:他を制しおさえとりしまること。牽制(けんせい)。
   *37:奥州に栄えた藤原三代。
   *38:いたましく悲しいさま。
   *39:天下の大政をつかさどる所、朝廷。
   *40:天皇の機嫌。
   *41:つきしたがうこと。
   *42:親子兄弟などの血縁。
   *43:仕える。
   *44:なれのはて。
   *45:人知れず流す涙。
   *46:昔から。
   *47:入り交じる。
   *48:深く感心して誉めること。
   *49:源義家。
   *50:源頼朝。
   *51:徳川家康。
   *52:全村。村中全部。
   *53:一般の人々、庶民、人民。
   *54:ひとりでに。
   *55:となえる、言うこと。
   *56:口さき。

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 大蔵志(現・嵐山町) ルビ・注

   大蔵志
大蔵ハ都幾川南根岸ノ西鎌形ノ東ニ居(を)リ其南将軍澤ト相接ス、新記云大蔵村ハ昔帯刀先生(たちはきせんじょう)源義賢(よしかた)ガ武州大蔵舘ニ居リシト云フ旧地ナリ(上畧)久壽(きゅうじゅ)年中(1154-1156)ノ事也
古墳畑中ニアリ相傳フ帯刀先生義賢ガ墳墓(ふんぼ)ナリト、?三尺許(ばかり)ト覺シキ塔ナレドモ半(なかば)ハ土中ニ埋(う)マリ、旦(かつ)五輪(ごりん)*1モ缺損シ其中■ニ梵字(ぼんじ)*2ヲ彫リタル一石ノミ残レリ、ソレニ雨覆ヲ施(ほどこ)シ注連(しめ)*3ヲ引ケリ(中畧)天保年中(てんぽう)(1830-1844)大蔵村ノ小名(こな)*4石井土ニ義賢ノ墓碑ヲ建テタリ、義賢ハ六條判官為義(ろくじょうほうがんためよし)ノ二男ニシテ帯刀先生*5又ハ多胡(たこ)先生*6ト称ス(帝王編年記*7立川寺年代記*8)長門本源平盛衰記(げんぺいせいすいき)*9ニ「舘義賢去仁平三年(にんぺい、にんぴょう)(1153)夏ノ比(ころ)上野國多胡郡ニ居シタリケルガ、秩父次郎太夫ガ養君(ようくん、やしないぎみ)*10ニナツテ武蔵國比企郡ヘ通(かよ)ヒケル程ニ、當國ニモ限ラズ隣國マデモ随(したが)ヒケリ」トアリ(下畧)平治(へいじ)物語(へいじものがたり)*11待賢門(たいけんもん)ノ戰ニ義平(よしひら)ノ言ヒシ詞(ことば)ニ「此手ノ大将ハ誰人ゾ名乗(なの)レ聴(き)カン、斯(か)ク申(もう)スハ清和天皇九代ノ後胤(こういん)*12鎌倉ノ悪源太義平ト曰(い)フ者ナリ、先年十五歳ノ時武蔵大蔵攻(ぜめ)ノ大将トシテ叔父帯刀先生義賢ヲ討チシヨリ以来、度々ノ合戦ニ一度モ不覺(ふかく)*13ノ名ヲ取ラズ、今年積リテ十九歳見参(げんざん)*14セントテ五百騎ノ真正中ヘ破(わ)ツテ入リ」云々又東鑑(あずまかがみ)*15治承四年(じしょう)(1180)九月七日ノ條ニ
 源氏木曽冠者義仲主者帯刀先生義賢二男也義賢者久壽二年八月於武蔵國大蔵舘為鎌倉悪源太義平主被討亡于時義仲為三歳嬰児也乳母夫中三権守兼遠懐之遁于信濃國令養育之成人之今武略稟性征平氏可興家之由有存念而前武衛於石橋己被始合戦之由達遠聞忽相*16

當大蔵ハ松山町ヨリ秩父ノ江都タル大宮町ニ通ゼル縣道中都幾川橋渡(はしわたし)ノ衝(しょう)ニ折シ、戸数七十四戸有リ

  *1:五輪塔のこと。地・水・火・風・空の五輪をかさねた墓塔。
  *2:サンスクリット語を記するのに用いる文字。
  *3:注連縄のこと。不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄。
  *4:村や町を小分けした名のこと。小字(こあざ)。
  *5:八・九世紀頃、皇太子側近護衛の武力として置かれた官職、義賢もそれに属していた為にこの称あり。
  *6:群馬県多野郡吉井町(2009年6月高崎市に編入)一帯を多胡と称し、義賢が以前その地を領していたためにこの称あり。
  *7:神代より鎌倉時代後期の後伏見天皇まで歴代の天皇紀を中心とする年代記。
  *8:宇多天皇より後柏原天皇永正元年(1504)までの年代記。
  *9:源平二氏の興亡盛衰を精細に叙述した軍記物語。
  *10:守り立てる主君。
  *11:平治の乱の顛末を画いた鎌倉初期の軍記物語。
  *12:子孫。
  *13:卑怯、臆病なこと。
  *14:目上の者に対面すること。
  *15:源頼政挙兵(1180)からら87年間の鎌倉幕府中心の事跡を編述した書物。
  *16:源氏木曽ノ冠者義仲主(ぬし)ハ帯刀先生義賢ノ二男ナリ。義賢ハ久寿二年八月武蔵国大蔵館ニ於テ鎌倉ノ悪源太義平主ノ為ニ討チ亡サル。時ニ義仲三歳ノ嬰児タルナリ。乳母ノ夫中三権守兼遠之ヲ懐ニ信濃国ニ遁レ之ヲ養育セシム。成人ノ今武略稟性平氏ヲ征(う)チ家ヲ興スベキノ由存念有テ前(さき)ノ武衛(ぶえい)(源頼朝)石橋ニ於テスデニ合戦始ラルルノ由遠聞ニ達シ、タチマチ相加ント欲シ素意ヲ顕ス云々

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 坂上田村麿事蹟之記 ルビ・注

菅谷村大字将軍澤字大宮ニ将軍社アリ、即チ往昔(おうせき)平安ノ當初朝野(ちょうや)*1ニ英明嘖々(さくさく)タリシ*2征東将軍坂上田村麿ヲ祭神ト崇敬セルノ先蹤(せんしょう)*3タリ、當社ニ關スル古記録等ハ永禄(えいろく)(1558−1570)兵燹(へいせん)*4ニ失ヒシヨリ其實ヲ傳(つた)フルナク創立年紀詳(つまびらか)*5ナラズト雖(いえど)モ、古老ノ口碑(こうひ)*6ニ據(よ)レバ、往古坂上田村麿将軍東夷(とうい)*7征伐ノ際、近傍(きんぼう)*8岩殿山ニ巨蛇アリテ土地人民ヲ害セリ、将軍其ノ被害ヲ憫(あわれ)ミ一朝(いっちょう)*9之ヲ退治シテ土人(どじん)*10ヲ安堵セシメタリ、時恰(あたか)モ*11盛夏タル六月朔日(ついたちひ)*12ナリシモ、天變雹雪(ひようせつ)*13ヲ降ラシ寒気強カリシタメ、土人麦稈(ばっかん)*14ヲ焚(たき)キ将軍ニ煖ヲ供(そな)エ、其後将軍ノ功徳(くどく)*15ヲ頌(しょう)シ*16之ヲ祭祀(さいし)*17崇敬セリト云フ、今モ尚(な)ホ年々六月(陰暦)一日土人麦稈ヲ焚(たき)テ記念祝祭ヲナス慣例アリテ、比企南部入間北部ノ諸村落ニ及(およ)ベリ、當社古来本村旧字大宮ト唱(とな)フル地ニ鎮座在リテ坂上田村麿将軍大宮権現ト称シ、規模最モ宏壮(こうそう)*18タリシモノニテアリシト云フ(本村元ノ村名及旧大宮ノ地名共ニ當社ニ因(よっ)テ起リシモノ、蓋(けだし)シ*19他説ニ利仁将軍ニ関セル如クアルハ訛(あやまり))維新明治七年(1874)三月ニ至リ當所ニ奉遷(ほうせん)シ将軍社ト改称セリ、以上ハ傳説ニ止マルモ正史ニ於(お)ケル田村将軍ノ忠良仁勇國家ニ大功有リ、威信並存(へいぞん)*20シテ其名聲ノ嘖々(さくさく)タルハ茲(ここ)ニ言フヲ俟(ま)タザル所、獨(ひと)リ當比企入間地方トシテノ将軍ニ慶頼(けいらい)*21シタルノ美談ニシテ苟(いやしくも)モ*22自餘(じよ)*23ノ考證ノ無キ限リハ、本説ハ洵(まこと)ニ*24将軍ノ為メ一部ノ逸史(いつし)*25傳タルヲ信ズ

  *1:天下。
  *2:もてはやし評判すること。
  *3:先例。
  *4:戦争のために起こる火事。
  *5:くわしいさま。
  *6:昔からの言い伝え。
  *7:蝦夷(えぞ)の称。
  *8:近所。
  *9:わずかの間。
  *10:土着の人。
  *11:ちょうどその時。
  *12:月の初め。
  *13:ひょうやゆき。
  *14:むぎわら。
  *15:ごりやく。
  *16:ほめたたえる。
  *17:まつり。
  *18:広く大きく立派なこと。
  *19:まさしく。
  *20:いくつかの事が並び存すること。
  *21:喜び頼りとする。
  *22:もしも。
  *23:このほか。

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 菅谷志(現・嵐山町) ルビ・注

   菅谷志(し)*1
宿形菅谷區ノ上古(じょうこ)*2ノ濫觴(らんしょう)*3沿革等ハ確(しか)ト徴(ちょう)スルモノ無シト雖(いえ)トモ、中古(ちゅうこ)*4治承(1177-1181)元久(1204-1206)ノ事端(じたん)*5乃至(ないし)長享(ちょうきょう)(1487-1489)延徳(えんとく)(1489-1492)ノ菅谷原合戦*6等ノ事歴(じれき)以後ノ概要(がいよう)ヲ窺(うかが)フテ稍(や)ヤ其舊時(きゅうじ)ヲ(ヲ)想知(そうち)スルノミ。吉田東伍(よしだとうご)*7ノ地名辞書ニ今菅谷村ト云ヒ大蔵将軍澤鎌形平澤志賀等ヲモ併ス(史子(しし)*8曰現今ハ千手堂遠山根岸モ入レリ)。松山ノ西二里此ハ中古鎌倉及ビ武蔵府(むさしふ)*9ナドヨリ上州*10信州*11ヘ向フ通路ニアタリ、今モ小前田児玉ノ方ヘ通ズル一路之ニカヽレリ。古書或ハ須賀谷(すがや)ニ作リ正保圖(しょうほうず)*12ニ須賀谷トス。新記ニ云フ菅谷ハ江戸ヨリ十五里古ハ須賀谷ト書キシヲ假借(かしゃく)*13シテ今ハ斯(かく)ク記セリ。江戸ヨリ秩父郡或ハ中山道ヘ出ル脇往還(わきおうかん)*14ニシテ人馬継立ヲナセリ。古城蹟ヲ存セリ、凡三町西方ノ地ニシテ南ノ一方ハ都幾川ヲモテ要害(ようがい)トシ其餘ノ三方ハ空堀(からほり)*15アリテ處々ニ堤ノ形残レリ。其内ハ總(すべ)テ陸田(りくでん)*16トナリタレド、今モ本丸二丸三丸等ノ名アリ。梅花無盡蔵(ばいかむじんぞう)*17ニ「長享戊申(ちょうきょうぼしん)(1488)八月十七日入須賀谷之北平澤山問太田源六資康*18之軍營」云云トアリ今モ当處ヨリ上州ニ至ル。小川鉢形ト人馬ヲ次(つぎ)テ順路トス。又此(これ)ヲ畠山重忠居城ノ地トモ云ヒ、後岩松遠江守義純一旦畠山ガ名跡(みょうせき)*19ヲ續(つ)ギ爰(ここ)ニ住セシナド云ヘリ。東鑑(あずまかがみ)*20ニ元久二年(1205)六月ノ條ニ「重忠十九日小衾(おぶすま)郡ヲ出デ菅谷ノ館ヨリ此澤ニ着セルナリ」云云(註原曰小衾ハ即チ男衾(おぶすま)ニシテ其本文「十九日出小衾郡菅谷舘今着此澤也」トアルモノ是ナリ)。往時鎌倉ノ猶(なお)盛大ナルヤ相州*21ヨリ上州信州ニ往来スルモノ路ヲ武州*22ノ西偏(せいへん)ニ取リ府中ヨリ入間川ニ出テ比企郡男衾郡ノ山野ヲ経由シタリ

  *1:誌に同じ。記録。
  *2:6、7世紀頃。大和政権の時代。
  *3:物事の始まり。
  *4:平安時代を中心にした時期。
  *5:騒動のたね。
  *6:長享二年(1488)六月十八日扇谷上杉(家老長尾氏)と山内上杉(家老太田氏)が須賀谷の原に激突した戦い、使者七百余名馬数百頭が斃れたといわれる激戦であった。
  *7:1684−1918。新潟生まれ。歴史地理学者。早大教授。「大日本地名辞書」全11巻を著す。
  *8:歴史を記録し編さんする者。
  *9:武蔵国の国府の置かれた所。現東京都府中市。
  *10:上野国。現群馬県。
  *11:信濃国。現長野県。
  *12:正保年間(1645−1648)に諸国の大名に命じて作られた地図。
  *13:本来の意味は違う同音の他の漢字を借りて当てること。
  *14:本街道以外の脇街道。
  *15:水のない堀
  *16:はたけ。
  *17:室町中期の禅僧万里集九の詩集、各作品の人名・地名・件名等に自註を加えており、歴史史料として有益な著書。書名は万里の庵室の名。
  *18:太田道潅の子。
  *19:跡目、家督。
  *20:吾妻鑑。鎌倉幕府の事跡を変体漢文で日記体に編述した史書。
  *21:相模国。現神奈川県。
  *22:武蔵国。現東京都・埼玉県。

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 遠山志 ルビ・注

   遠山志
遠山ハ宿部菅谷ヨリ平沢千手堂ヲ間ニ置キ、一小隧道(ずいどう)【地中をくりぬいて造った道】ヲ貫キ、超エテ本村ノ西偏(せいへん)【西にかたよる】ニ懸在(けんざい)【はるかに遠く存在する】シ、其右ヨリ後ニ折廻ハシ立テル屏風的連峯、頂(いただき)【山頂】ニ據リテ乾(いぬい)方【北西の方角】小川町ノ下里區ニ境シ、東顧セバ則(すなわ)チ上記ノ隧道穹巓(きゅうてん)【おおぞら】ニ離、坎(かん)【正北の方角】線ニ長ク横臥セル馬背状ノ一弧山脈ニ限ラレ、幹區トノ距程(きょてい)【隔たりの程度】殆ンド一里ニ亘ル、而シテ秩嶺(ちつれい)【秩父の山々】ヲ出デ下里ヲ過ギ、西ヨリ東ニ涒下(とんげ)【はきだしくだる】セル槻川ノ清流ヲ前面ノ泉水トモ看做(みな)ス、平崖脩路(しゅうろ)【長い道筋】ノ幾(ほと)ント半里許(ばかり)ニモナンくトシテ、左右ニ廣リ、後辺ニ狹ク点在逸居(いっきょ)【わがままにくらす】セルノ當部落ハ、斯(この)川下流ノ「小野馬渓」【大分県の景勝地「耶馬溪」になぞらえて命名したものか】ノ峽近ヲ徒渉(としょう)【徒歩で川をわたる】シテ、直チニ吾部落ト同観ノ情態(じょうたい)【ようす】ナル玉川村田黒區ノ小倉部落ニ通ジ、通径ノ西嶺ニシテ、該川ノ南巓ニ一處天嶮(てんけん)【自然の要害】ノ城蹟(じょうせき)【しろあと】在リ、現時ハ川南タル玉川村區ニ隷ストイヘドモ、往古足利幕末戦國時代ニハ廣ク此地方ヲ領有シ、而(しか)モ当地ヲ冠称(かんしょう)【頭につけてなのる】セル遠山右衛門大夫藤原光景ノ在城タリ、旦尚當區ノ旧村名ヲ稱號トセル遠山寺ハ今現ニ區内ニ存在シテ、遠山氏ノ過去帳ナルモノ文政天保ノ交(まじわり)【であい】マデハ正ニ蔵安(ぞうあん)シタリトイフ、夫(それ)ニ據(よ)レバ「當寺開基無外宗関居士」天正八年(てんしょう)(1580)三月廿三日光景父政景也」及ビ「開基桃雲宗見大居士」天正十五年(てんしょう)(1587)五月廿九日遠山右衛門大夫藤原光景云々、方今(ほうこん)【ただ今】モ此写置ハアリトゾ、當山ハ上州元緑野郡御嶽村曹洞宗永源寺末院ニテ長谷山ト號シ慶安二年(1649)御朱印地十石ヲ賜ヘリ開山漱怒全芳永正十五年(えいしょう)(1518)十二月十五日宣寂又梵鐘ハ當山十一世崕【山偏に圭】峻和尚ガ永禄十一年(えいろく)(1568)中再鋳セシモ其前鐘ハ遠山光景家臣杉田吉兼(該區杉田ヲ氏トセル旧家アリ其祖先ナルベシ)トイヒシ人大檀那トシテ造献セシモノナルガ後年廢壊ニ至リシヨリ右和尚再造シタル由後鐘銘ニ彫載シ在ルモノナリ云々当區ハ戸数二十九ナリ

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 千手堂志 ルビ・注

   千手堂志
千手堂ハ東平坦ニ宿部菅谷ニ連リ、西嶺越ニ壷峡遠山ニ續キ、南槻川ヲ涯(かぎ)リテ鎌形ニ面シ、北阪谿(はんけい)【坂を成した渓谷】ヲ逢フテ平沢ニ會シ、幅員大約(だいやく)【おおざっぱに】五町四方陸田(りくでん)【はたけ】饒々(じょうじょう)【豊かなさま】叢林(そうりん)【木の群がっている林】富之、比較的小安營ノ閑境タリ、若シ夫レ地先(じさき)【居住地または耕作地と地続きの野山や水面をいう語】槻川橋梁ノ固定架設ヲ視(み)ル日アラバ是亦菅谷區ニ拮据(けっきょ)【せまる】ヲ宣スルモ遜色(そんしょく)【みおとり】ナキ向上ノ時ナラン、昔宝暦(ほうれき)(1751-1764)以前ハ大岡越前守世禄(せろく)【世襲の扶持】ノ領地タリシ最モ好歳月ノ下ニ勤行(ごんぎょう)シタル後、清水領ヲ經テ直轄領ノ高序(こうじょ)【高い順番】ニ達セルノ末維新ノ昭代(しょうだい)【太平の世】ニ入リタルニテ、該區将来ノ樂望ヤ其日記ヲ繰(く)リテ期待セラルルモノアラン、此地ヤ遠通ニ聞エタル千手観世音アリ、其ガ堂塔ノ因リテ古村名ノ起リタリシヲ傳フ、中古当観音堂ニ鰐口(わにくち)【社殿・仏堂の正面軒下に吊るす金属製の音響具】アリ銘曰「奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本寛正二年(かんしょう)辛巳(かのとみ)(1461)十月十七日」願主釜形四郎五郎ト鋳刻シタルモノ是也、然(しか)ルニ其後間モ無ク奈何(いか)ニシテ轉遷(てんせん)【めぐり移る】セシカ、斯(この)古什宝(こじゅうほう)【古い宝物】ハ本州入間郡黒須村(現今豊岡町)蓮華院(れんげいん)内観音堂ニ在リト云フ、又此方千手堂ハ猶(なお)下リテ後幻室伊芳(げんしついほう)ナル一僧力ヲ盡シ一格ノ寺トナシ、普門山千手院(ふもんざんせんじゅいん)ト號ヲ進メタルヨリ當寺開山ト仰(あお)ガレ、天文十五年(てんぶん)(1546)二月朔日(ついたち)遷化(せんげ)【高僧の死去】セリ、教旨ハ曹洞宗ニシテ隣區遠山遠山寺末(まつ)【末寺(まつじ)のこと】タリ、以上ニ據(よ)レバ此処モ亦数百歳往古ヨリノ人寰(じんかん)【人の住むべき世】ナリ、銘中ノ大工「越(えつ)【越州・越後のこと】松本」ハ北人ニシテ苗名ノミ識(しる)シ、願主釜形ハ鎌形人ニシテ、旧慣(きゅうかん)【昔からのしきたり】苗字ヲ省(はぶ)キ村ト名ノミ署セシモノナルベシ、千手堂戸数三十六有リ、百年以前ノ四十餘戸ニ照考(しょうこう)【つきあわせて考える】セバ彼ノ碓嶺西外東信人中先衰後盛ヲ經過シタル的伏綿ノ主張ノ存セルニヤ

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 根岸志 ルビ・注

   根岸志
根岸ハ本村ノ東裔(えい)【すえ】ニシテ、西ハ大蔵ニ隣リ、東ハ唐子村河外ノ神戸(ごうど)區ニ續キ、北ハ都幾川ヲ隔テヽ同村河内ノ上唐子(からこ)區ニ対シ、南ハ将軍沢ニ接シ、東西一町半南北二町戸数十四以(もっ)テ一大字ヲ成セリ、斯(この)地々盤【地盤(じばん)=勢力の範囲】ノ世説(せせつ)【世上の風説】ニ曰ク、北方河原ノ幅廣キコト二百間餘リ有ルガ、上(のぼる)ニ南方山根ノ流狹キコト二間ダモ無キニ似(に)ズ、其ガ沿流(えんりゅう)【流れに沿ったところ】処々ニハ皿淵(さらぶち)・女淵(おんなぶち)・袈裟王淵(けさおうぶち)ナドイヘル名稱往々(おうおう)【あちこち】ニ存セリ、是此(これこの)狹流ガ前古(ぜんこ)【むかし】都幾川筋ニシテ如上(じょじょう)【前に言った通り】ノ地盤ガ川北ナリシヲ、中昔(ちゅうせき)【疇昔か、さきごろ】水瀬渝(かわ)【変】リテ、後世地盤ハ川南タリト、武蔵風土記或書ヲ援(ひき)テ「熊谷次郎直實ガ末孫佐渡守實勝六代ノ孫熊谷佐渡俊直武蔵國比企郡根岸村ニ住シ、同國松山ノ城主上田能登守ニ属シ、根岸村及ビ和泉村ヲ知行(ちぎょう)【土地を支配すること】ス」トアリト載(の)セタリ、蓋(けだ)シ【たしかに】小領主小部落ニ住セシ便宜(べんぎ)ヨリ揣摩(しま)【あて推量】スレバ、同方面ノ和泉ナルベシト認案(にんあん)【みとめる】スルヲ然(しか)リトス【その通りである】、乃(すなわ)チ世説桑滄ノ変(そうそうのへん)【桑田変じて滄海となるような大変化、世の変遷のはげしいことをいう】亦所以(ゆえん)【理由】ナキニ非ラザルナリ、且(かつ)文政天保ノ交(まじり)タル百年ノ往代ニ在リテ、十六戸等ニモ註(ちゅう)【かきしるす】セラレシ家数ノ、サマデニ増減ヲ覺エザル如キハ、其里習(りしゅう)【村のならわし】質實静淡自ラ綽々(しゃくしゃく)【ゆったりとしたさま】タル興趣(きょうしゅ)【おもむき】アルベシ
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