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嵐山町議会

町制施行後初の嵐山町会議員選挙実施 1967年10月

   町政施行後初の議員選挙終わる
       新10 現7 前3 元2 が当選
               議席大きく変わる
 十月八日執行の当嵐山町議員選挙は、定員二十二議席を目指して立候補者二十四名で競うものと思われたが、締切り直前更に一名の辞退があったために、結局二十三候補のせり合いとなった。八日投票後午後八時より開票が行われ、その結果別表の得票数でそれぞれ当落が定まった。
 内、現七名・前三名・元二名・新一〇名で、議席の約三分の二が入り替わり議会の構成が大きく変化した。

 当 403   関根昭二  新  菅谷
 当 334   中村常男  新  古里
 当 329   高橋行雄  現  志賀
 当 277   吉場雅美  新  古里
 当 276   松本晴次  新  菅谷
 当 271   山田巌   現  平沢
 当 268   瀬山芳治  新  千手堂
 当 249   岩沢茂雄  新  鎌形
 当 244.592 鯨井正作  現  将軍沢
 当 240   小林嘉重  元  鎌形
 当 238   権田和重  現  川島
 当 235   早川長助  新  杉山
 当 231.878 市川武市  元  越畑
 当 228   舩戸武彦  新  吉田
 当 220   田中隆次  新  勝田
 当 210.571 中島元次郎 現  菅谷
 当 191.429 中島源之  新  菅谷
 当 186   山岸宗朋  現  菅谷
 当 180   新藤武治  現  大蔵
 当 168.408 藤田正作  前  吉田
 当 133   青木高   前  菅谷
 当 127   杉田喜平  前  鎌形
 次  67.122 市川万吉  新  越畑

     『嵐山町報道』177号 1967年(昭和42)10月15日

合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月

   村議教委選
    村政運営の新陣容成る
     古豪・新鋭・轡を並べて当選
 新村第一回の村議、教委選は予定の通り十月九日執行、夫々別項の通り、村議は投票により二十二名、教委は無投票で四名の新議員委員が当選した。今、本選挙の経過を辿れば、十月四日締切までに、菅谷地区定員十二に対し、十四。七郷地区定員十に対し十三。教育委員定員四に対し五の届出があり、両者共はげしい選挙戦に入る形勢を示したが、その後教委は一名の辞退があって、無投票となり、村議は七郷地区で一名辞退となり、選挙は村議選のみに単一化されて、稍々(やや)落つきを見せた。然し両地区とも定員外二名で、比較的立候補が少かったので、それだけ当選圏得票数の上昇が予想せられるため、選挙戦は深刻であった。
 選挙当日は好天気に恵まれ、又、村民に最も身近な村議選であるだけに、有権者の出足は極めて好調で、平均投票率、菅谷地区は、九二・六九%で、第五投票所(大蔵・根岸・将軍沢)の九六・〇五%が最高であり、第四投票所(鎌形)の八六・六八%が最低である。七郷地区は平均九一・三二%で稍々菅谷地区に劣っている。
 当選者の顔触れは、年齢では最高六六歳から最低三十歳。平均年齢五一・四歳といふ、最も油の乗ったところ。経歴では、村長、議長、教委長、農委長、農協長、その他村内各種団体の中心的地位の前歴者現職者が轡(くつわ)を並べ、新村政を議するに相応(ふさわ)しい絢爛(けんらん)たる陣容を形成している。
 初村会は十月下旬に招集、議長、副議長、常任委員等を選出して、態勢を整え、その第一歩を踏出すことになる。
 又、教委は議会選出委員決定次第、初顔合せを行うことになるが、公選委員四名はいづれも前教育委員で、その道のベテランであり、今後の教育行政に多大の期待がかけられている。

  村議当選者
    (註) (1)得票数(2)所属党派(3)住所(4)生年月日(5)村議経歴(6)公職経験
▽菅谷地区
大野幸次郎
(1)264(2)無し(3)志賀(4)明治28(1895).8.9(5)元(6)教育委員、農業委員
栗原彌之助
(1)257(2)無し(3)遠山(4)明治43(1910).3.20(5)前(6)農協理事、農調委員
福島愛作
(1)252(2)無し(3)将軍沢(4)明治27(1894).3.19(5)元(6)遺族会長、村長、公平委員
金井倉次郎
(1)239(2)無し(3)大蔵(4)明治40(1907).1.13(5)新(6)教育委員、農協監事
森田與資
(1)234(2)無し(3)川島(4)明治37(1904).7.1(5)新(6)区長、民生委員
山田巌
(1)210(2)無し(3)平沢(4)大正14(1925).1.3(5)新(6)農協理事
杉田峯吉
(1)201(2)無し(3)鎌形(4)明治39(1907).3.9(5)新(6)農業委員
青木高
(1)200(2)無し(3)菅谷(4)明治38(1905).1.7(5)前(6)青色申告会長
高橋亥一
(1)194(2)無し(3)志賀(4)明治36(1903).10.23(5)前(6)農協理事
中島勝哉
(1)189(2)無し(3)菅谷(4)明治45(1912).4.25(5)前(6)農業委員
米山永助
(1)166(2)無し(3)菅谷(4)明治36(1903).2.4(5)前(6)村議、農協監事
山下欽治
(1)161(2)無し(3)鎌形(4)明治41(1908).10.19(5)前(6)農業委員
▽七郷地区
安藤武治
(1)223(2)無し(3)古里(4)大正4(1915).8.16(5)新(6)なし
船戸常作
(1)214(2)無し(3)越畑(4)明治31(1908).10.27(5)新(6)収入役、固定資産評価審査委員
栗原侃一
(1)204(2)無し(3)広野(4)明治22(1889).10.7(5)元(6)村長、教育委員長
内田幾喜
(1)196(2)無し(3)杉山(4)明治32(18999.2.10(5)元(6)村長、公平委員、遺族会長
大塚禎助
(1)168(2)無し(3)古里(4)明治34(1901).9.16(5)前(6)国保運営委員
市川武市
(1)156(2)無し(3)越畑(4)明治35(1902).10.10(5)元(6)村長、農協組合長、公平委員
坂本幸三郎
(1)148(2)無し(3)吉田(4)明治36(1903).2.9(5)前(6)社教委、国保運営委員
田畑周一
(1)147(2)無し(3)勝田(4)明治37(1904).9.23(5)前(6)国保運営委員、監査委員
島田忠治
(1)140(2)無し(3)吉田(4)明治41(1908).3.1(5)前(6)消防団長
小林文吾
(1)127(2)無し(3)吉田(4)明治27(1894).9.5(5)元(6)教育委員

  教育委員当選者
    (註) (1)所属党派(2)住所(3)生年月日年齢(4)教育委経歴(5)公職経歴
根岸忠與
(1)無し(2)菅谷(3)明治44(1911)11.14(44)(4)前(5)消防団長
小林才治
(1)無し(2)鎌形(3)明治35(1902).1.28(53)(4)元(5)収入役
馬場覚嗣
(1)無し(2)越畑(3)明治21(1888).11.3(66)(4)前(5)村議
金子慶助
(1)無し(2)杉山(3)明治28(1895).8.24(61)(4)前(5)民生委員

  村議選挙記録
   有権者 投票者 投票率
▼第一投票所(菅谷、川島、平沢)
1123人、1057人、94.12%
▼第二投票所(志賀)
530人、494人、93.20%
▼第三投票所(遠山、千手堂)
288人、270人、93.75%
▼第四投票所(鎌形)
661人、573人、86.68%
▼第五投票所(大蔵、根岸、将軍沢)
532人、511人、96.05%
菅谷地区計
3134人、2905人、92.69%
▼第六投票所(吉田、越畑、勝田)
637人、602人、94.00%
▼第七投票所(広野、杉山、太郎丸)
819人、736人、89.86%
▼第八投票所
631人、568人、90.01%
七郷地区計
2087人、1906人、91.32%
菅谷村合計
5221人、4811人、92.15%

     『菅谷村報道』63号 1955年(昭和30)10月20日


   初村会
    議長に栗原侃一氏
     副議長 山下欽治氏を決定

 新村議による初の村会は十月二十九日午前十時から本庁会議室に於て開かれた。先づ抽籤によって議席の決定が行はれ、村議会規則の朗読の後、議長選出について休憩、菅谷地区と七郷地区に分れてそれぞれ別室にて協議。十一時三十分再開、議長に栗原侃一氏、副議長に山下欽治氏を満場一致で承認、任期は二年とし、改選の際に再選はさまたげないが、副議長が議長に昇格する習慣は作らないという附帯条件を決めた。
 正午再び休憩し、教育委員、監査委員、常任委員などの割ふりについて二時間にわたって協議し、その結果、次の諸氏を決定した。午後三時二十分散会。
  ○教育委員 市川武市
  ○監査委員 田畑周一

  常任委員
総務委員 (委員長)福島愛作 (副)大野幸次郎 田畑周一
     高橋亥一 大塚禎助 中島勝哉 市川武市 内田幾喜
土木委員 (委員長)米山永助 金井倉次郎 島田忠治 栗原彌之助
     内田幾喜 中島勝哉 船戸常作 (副)田畑周一
産業経済委員 (委員長)坂本幸三郎 杉田峯吉 市川武市 山田巌
     安藤武治 森田與資 小林文吾 (副)大野幸次郎
警防委員 (委員長)青木高 金井倉次郎 (副)島田忠治 栗原彌之助
     坂本幸三郎 山田巌 船戸常作 杉田峯吉
厚生委員 (委員長)大塚禎助 福島愛作 森田與資 (副)高橋亥一
     安藤武治 米山永助 小林文吾 青木高
                          (尚、任期は二年)

  教委臨時会
   新委員会成立
    委員長 小林才治 副委員長 金子慶助

 既報の通り、公選委員は十月九日改選により、四名当選。二十九日、議会選出委員に市川武市氏が決定したので、教委臨時会が、十一月二日、村長により招集された。
 先ず、村長の司会によって、議席を決定、年長者馬場氏が仮委員長となって、委員長を選出、小林氏を決定、続いて小林委員長となって、副委員長に金子氏を選出した。
 以上で、日程を終り、続いて七郷中学校建築促進について協議、午後四時散会した。
     『菅谷村報道』64号 1955年(昭和30)11月20日

※この菅谷村、七郷村合併後初の村会議員選挙については、『菅谷村報道』論壇に次の記事がある。関根、出野氏共に教育委員選挙無投票を批判するが、村会議員候補者の「地区推薦」については否定の関根氏と、現状止むを得ずと「肯定」の出野氏との対立がある。
   高崎達蔵「村議会議員の改選に際して」『菅谷村報道』63号 1955年10月
   関根昭二「選挙を顧みて」『菅谷村報道』64号 1955年11月
   出野好「今次選挙における関根氏の批判に対する卑見」『菅谷村報道』65号 1955年12月
 教育委員は、1956年(昭和31)まで、市町村教育委員も都道府県教育委員も、住民による直接選挙で選ばれていた。1952年(昭和27)の菅谷村教育委員選挙については、次の記事がある。
   根岸き「婦人会長の立場 −選挙後話−」『菅谷村報道』26号 1952年10月

助役選任をめぐり菅谷村議会紛糾 1956年

 1955年(昭和30)4月15日の七郷村と菅谷村の合併後、定員二名の助役には、6月30日より青木義夫(前七郷村長)、小林博治(前菅谷村代理助役)両氏が就任したが、昭和31年(1956)第1回定例村議会(3月28日〜30日)最終日に「菅谷村助役定数条例の一部を改正して二人を一人にする件」が可決され、翌日、二人は辞表を提出、高崎達蔵村長はこれを受理した。後任助役は青木氏か、小林氏か、議員間に青木支持、小林支持の対立があり助役選任問題で議会はその後、三カ月にわたり紛糾した。『嵐山町議会史』(1987年3月発行)には次の記述がある。

  昭和31年第2回定例村議会(6月20日)
   ……助役選任については、代表者会議により選定し、決定に対し議会は、無条件に同意することに落着いた。……(14頁)

  昭和31年第5回臨時村議会(7月3日)
   四月以来、三ヶ月も議論した助役の選任について、七月三日臨時村議会を招集した。
   村長が菅谷地区から出ている以上、助役は七郷地区から出すべきだと議会を二分される議論が展開されたが、村長の強くおした小林博治氏が満場一致で同意を得た。……(15頁)


 1956年(昭和31)4月から7月に発行された『菅谷村報道』には、次の記事がある。


   助役一人と決定
     満場一致の同意を 付帯決議
 三月三十日午後の村議会は国保予算成立後、固定資産評価審査委員を選任することに同意を求める件(議案第八号)を可決、田中稔氏を委員とすることに同意した。次いで、村長、助役及び収入役の諸給与について(議案第九号)、菅谷村歳計現金預入規定(議案第十号)、村議会の権限委任に関する件(議案第十一号)、七郷中学校新築事業費(特別会計)に充当するため百五十万円の借入金をする件(議案第十二号)、菅谷村の助役定数条例の一部を改正して二人を一人にする件(議案第五号)を上程、それぞれ可決した。助役定数条例改正の際、大塚議員【大塚禎助議員】は「本案については昨年二回にわたって協議会を開いてあるので村長さんは十分考へて居られることと思う。今月限りで二名の助役に辞表を提出してもらうことでスムースに行くのではないかと考へる。一名の選任には村長が十分熟慮せられて満場一致の承認が得られるよう検討していただき又努力していただきたいと強く要望する」と発言した。栗原議長【栗原侃一議長】はこの大塚案を採択して議会に図るに賛成の声あり、依ってこれを議会の決議とすることを満場一致で決定した。村長は特に発言を求め、「助役定数の問題については二人に辞表を提出させて村長が検討、熟慮して議会の同意を得るようにしたいと思う。その際は私の推薦した助役を満場一致で御同意を得たい」旨述べた後、予算成立に関する謝辞があり、全員拍手のうちに午後四時二十三分、三日間に亘る予算村会は閉会した。
     『菅谷村報道』69号 1956年(昭和31)4月20日

   助役問題難航
 助役定数条例の改正に伴い、助役は四月一日より一人と決定されたため、小林、青木の両助役は三月三十一日付を以て辞表を提出、村長はこれを受理した。然し、後任助役を誰れにするかをめぐって議員間に意見の対立があるため、早急にこれを解決することは極めて困難と見られている。即ち村長が旧菅谷より出ている以上、助役は七郷より出すべしという意見と、村長が適任と認めた人物に同意すべしとする意見、などあるが、目下、有力候補と見られてゐる小林、青木の両氏のいづれかを再任するにしても、議会で満場一致の同意を得られることは至難の状勢なので、当分の間見送りの模様である。
     『菅谷村報道』69号 1956年(昭和31)4月20日


   四十一万の追加更正
     助役選任に代表委員を決定
 六月定例村議会は二十日午前開会、追加更正予算四十一万を可決した。これは主として凍霜害桑園に対して災害対策費として四十万三千円支出したので予算措置を講じたことと、役場吏員の九名退職による職員給の減額、参議院、知事などの選挙費用の増加によるものである。午後からは注目の助役選任の件を上場したが、村長の提案理由の説明が行はれないうちに、提出の時期でないから更に話合うべしとの発言が出たため、提出せよとの意見と鋭く対立したが結局、村長、議長、副議長と、更に旧菅谷、七郷両地区より二名づつの議員を出して、これら七名の代表委員によって助役を選定し、その決定に対しては議会が無条件に同意することに落着いた。

  定例村会本会議
 午前十時二十分開会(坂本【坂本幸三郎】、大野【大野幸次郎】、青木【青木高】議員遅刻)
 議案第一号追加更正予算案を上程、村長の予算案説明の後、質疑に入ったが特に問題となる点もなかったので、極めてのんびりと審議、教育委員が教育費について質問するという珍風景もあったり、七郷小学校の便所改築のことから中学校の便所設計が悪かったということで座談会のような発言となったり、勤勉手当の退職者減額分を現吏員に支給せよと主張して村長を有難がらせたりして、この追加更正予算を可決確定、午後十二時十分昼食のため休憩した。
 午後は一時から再開の予定であったが、問題の助役選任に関する議案の提出が行はれるので【栗原侃一】議長は【高崎達蔵】村長、引き続いて市川議員【市川武市議員】と何事か相談していたため、約三十五分遅れて再開、議長は第二号議案、助役選任につき同意を求める件を上場する旨を告げるや、直ちに坂本議員【坂本幸三郎議員】は発言を求め「まだ提出の時期に達していないと思う、協議会で話し合ってはどうかと思う」とこの議案を審議することに強く反対したが、中島【中島勝哉】、高橋【高橋亥一】両議員からは「村長の指名を望む」ことを求めたため両者の意見が対立、山田議員【山田巌議員】、大野議員、内田議員【内田幾喜議員】、小林議員【小林文吾議員】、市川議員などはそれぞれ更に話し合うべしと述べて坂本議員の発言を支持、中島議員、高橋議員、金井議員【金井倉次郎議員】、田畑議員【田畑周一議員】、青木議員、森田議員【森田與資議員】、福島議員【福島愛作議員】は村長指名の人物に同意すべしと主張、両派の意見に対して村長は、「私の信ずる人をやったら満場一致の同意は困難であると思う。同意という意味は解っているようで解らない言葉である。表決によって決することは立法精神からみてよくない。議会の方で満場一致の人を見つけてもらへば結構なことである」と発言、大塚議員【大塚禎助議員】から「村長に選任権があるので、村長が最適任者と認めた人を出されたらこれに同意すべきだと思う。選任が延びたのは村長と議員の責任である。早く助役を決定して、村民を安心さすべきである。力で押しまくるのはいい方法ではない。話し合いで円満に解決したい。この問題を進展させる一つの方法として村長から提案するのを一寸まってもらって協議会に移るか、或は村長に出してもらって話し合うかどうか、議長に考へてもらいたい」と発言があり、二時四十五分一旦休憩、議場内外で議員間の話し合いが行はれた結果、四時五分続開、代表委員をつくることに意見が一致、中島議員案により、大野議員、大塚議員、高橋議員、坂本議員が多数で選出された。この四議員に高崎村長、栗原議長、山下副議長【山下欽治副議長】を加えて七人の代表者会議によって助役を選定し、議会はこれに無条件で満場一致の同意を与へることに決定した。このため第二号議案は審議に至らず廃案となった。従って高崎村長は日を改めて臨時議会を招集、代表者会議の結果に基いて再度助役選任案を提出しなければならなくなった。この本会議中中座して別室で、田畑、大野、坂本、山下の各議員が協議し、議長を呼びに来たため、四時三十三分休憩、十分の後再開、四時五十分閉会した。
 註 地方自治法第百六十二条 副知事及び助役は普通地方公共団体の長が議会の同意を得てこれを選任する。
     『菅谷村報道』71号 1956年(昭和31)6月20日


   助役問題解決さる
     小林博治氏に 議会満場一致の同意を
 四月以来欠員であった助役の後任について三カ月間ももみ続けた村議会は七月三日の臨時村議会において、高崎村長が推薦した小林博治氏に満場一致の同意を与へた。この日はすでに話合いができていた関係もあって、村長が提案理由の説明の終りで、「私は私の信ずる人、小林博治氏を責任を以って推薦したい」と一段と声を大きくして述べた時、静粛そのものであった。議場はほっとした空気が流れたようであった。議会はこれに対して全員異議なく認めたので、助役はここに小林博治氏と決定した。村長は特に発言を求めて謝辞を述べた。
 これによって、高崎村長は自己の思う助役を選任することができたので、村政の運営は一段とやり易くなるであろう。

 六月二十日に開かれた定例村会において村長は助役選出の議案を提案したが、説明に至らないまま廃案となり、これと同時に議員間の話合いにより、代表委員四人(大野、高橋、坂本、大塚各議員)を選定してこれに高崎村長、栗原議長、山下副議長を加えた七人によって助役問題を解決するよう、議会は責任を負はせた。この七人の決定に対して議会は異議なく承認することを決議したので、これら七人の最高首脳達は七月三日臨時村議会の開会に先立つ前に協議して助役問題に対する結論を得た。この協議の内容について栗原議長は本会議の休憩中、議員にこれを報告したが、それは次のようなものである。

  助役を二年交代制に 栗原議長報告
 大野、大塚、坂本、高橋の各議員と村長、副議長、それに私の七人で今日の午前中役場で審議した。その結果、助役の任期四年を菅谷地区、七郷地区で二年づつ交互に出し合ってやってゆくことに話し合いができた。
 当初の助役を誰にするかは村長の推薦権により村長に一任することは申合せ事項として当事者に一通づつ書類として持ってもらう。この場合、後にやる助役はどうするか、という話がでて、本人の希望により、書記が不足しているので書記として最高の給料を出して使ってもらう。これは村長に対する要望である。

 この議長報告に対して田畑議員より「そのような取り決めは村長の推薦権を侵害したことになる」として反対の意見が強く述べられると共に、前助役青木氏を書記として最高級で遇することに強い不満の意を訴へた。然し栗原議長は「これは単なる要望事項にすぎない」としてとりあわなかったが、「助役のことで議会が二つに対立したことはよくなかった」と遺憾の意を表はした。
 この助役選任の問題については昨年十月の合併後初の選挙によって選出された当時、すでに一人制にする案があったが、合併後半年を経過していること、予算措置が講じてあることなどの理由によって、本年三月まで一応延期されることになった。
 然し高崎村長としては当時、青木助役が三月になれば自然退職するものとの確信があったため、小林助役が引き続き居据わることになるものと思われたので、極めて楽観していたが、本年三月助役定数条例の改正により助役一人制となってから、青木助役に留任の意向があることが明かになり、高崎村長としても小林氏を助役にする考へであったため当惑した。更に一部議員が青木氏を助役にする運動を始めたので、これに反対する議員は小林氏を助役にしようとこれまた運動を展開、ここに議会は真二つに分れて対立することになった。この中に在って比較的中立の立場にあったのは田畑、大塚、市川らの議員であったが、これとていざ票決となると白紙投票を投ずるかどうか疑問であった。青木支持派は村長が菅谷地区から出ている以上、助役は七郷地区より出すべしと主張したが、小林支持派は地域にとらわれることなく有能な人材を出すべしと反論し、田畑議員は「村長の推薦権を尊重して、村長の推薦する人物が特別な悪い人間でない限り、議会は同意すべきである」との立場をとった。これらの議論と共に運動も活発を極め、両派の会合、個人訪問などにからまる噂、遂に議会における票決の際の票を気にしだした。そうしていづれも吾党有利なりと呼号した。これら議員達の猛運動をよそに一般村民は極めて冷静でさ程の関心を示していなかったが、六月になって七郷地区の区長が連名して要求書を村長に提出したことから、菅谷地区区長も会合して、「助役を早急に決定すべきこと、村長の推薦する助役を無条件で支持する」などのことを決議した。これらの状勢からして村長も議会に助役の件を提案しなければならないと考へていたが、議会勢力は依然として両派対立し、妥協の形勢は見られず、この間に立って議長は斡旋の労をとることに積極的でなかったため、村長も提案の時期を決しかねていた。然し徒らに事態を延引させることは役場内の事務停滞と対外的関係もあり、六月二十日の村議会に初めて議案として提出したものである。
     『菅谷村報道』72号 1956年(昭和31)7月20日


※この問題については、『菅谷村報道』72号・論壇に関根昭二「助役の決定とその政治的意義」が掲載されている。

嵐山町議会議員定数24名となる 1983年

   昭和五八年第二回定例町議会【1983年6月29日〜7月1日】
 ○嵐山町議会の定数を減少する条例(案)の提出について
                     提案者 中島源之議員
                     賛成者 恒木重議員
                      〃  三村泰明議員
                      〃  長島崇議員
 これは嵐山町の議会の議員定数を現行の二六名から二名削減して二四名にし、次の一般選挙から適用しようというものである。
 提案理由は、
 一 財政窮迫が叫ばれている今日、少しでも財政削減を考えるべきである。
 二 全国の町村の八六%が減数している。
 三 選挙制度調査委員会が公聴会で意見を聞いた結果、定数を削減すべきであると発言した人たちが過半数をしめた。
 四 員数を考えた時常任委員会は四委員会制を考えると最低六名定員が必要であり、二名削減が妥当であると考えるむねの説明がなされた。
 これに対して質疑がなされ、財政問題と議会制民主主義を守る問題をどうとらえるのかに質疑が集中した。
 採決にさきだち討論が行われた。最初に反対討論が根岸豊議員より行われた。
 反対理由として
 一 現在の議員定数は地方自治法という法律の中できめられた人数で行っており問題はない。
 二 行政改革や財政問題は別の問題であり、そのことに取りくむならば特別委員会をつくりその中で検討すべきである。
 三 昭和五三年(1978)に今まで減少していた条例を廃止して人口増加と住民意識の反映を理由として二六名の定数に全員一致で成立したものを費用の点だけで議論すべきではない。
 四 今回減数条例がでたことに対して議員みずから反省して住民と密着した活動を行い、町政に反映することができるならば解決できる問題であると考える。
という反対討論がなされた。続いて賛成討論を中島酉造議員が行った。
 賛成の理由とし
 一 選挙制度調査委員会の答申は尊重すべきである。
 二 隣接市町村でも多くが減数している。
 以上の賛成討論がなされ採決にうつった。採決にあたって冨岡一夫議員を代表者として「無記名投票とされたい」という文書による要望がだされ無記名投票による採決の結果、
  賛成 一八票
  反対  七票
 以上の結果、原案のとおり可決成立し二四名とすることになった。
     『嵐山町議会史』(嵐山町議会史編さん委員会、1987年3月発行)346頁〜348頁
      参照:
嵐山町の議員定数 削減、現状維持? 1983年
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