GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

平沢二区

嵐山町の桜 嵐山町第2浄水場 2010年4月10日

平沢二区
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嵐山町第2浄水場(志賀)
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2010年4月10日、井島宏さん撮影

嵐山町の桜 平沢二区 2010年4月1日

嵐山町平沢二区
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2010年4月1日、井島宏さん撮影

古い写真 平沢・平沢団地 1 1968年12月

平沢・平沢団地
平沢団地01webword
1968年12月 西山光燐さん撮影

古い写真 平沢の分譲住宅地(更新) 1965年頃

平沢の分譲住宅地(現・平沢二区)
平沢の分譲地(1965)web


1961年(昭和36)、平沢の東光台団地が嵐山町(当時は菅谷村)最初の分譲住宅地でした。

   分譲地売出し風景
 平沢の東光台団地を皮切りに村内は正に住宅地ブーム。嵐光苑(菅谷)、小千代山(千手堂)、武蔵(平沢)、公苑台(菅谷)等、山は拓かれ、地はおこされて忽ち区画計画が出来、街灯が立てられ、アレヨアレヨと目を見張る村民の面前を六一年型スカイラインが分譲地へ疾走する。秋空に万国旗がはためき、レコードのメロデーが高鳴っている。
     『菅谷村報道』127号 1961年(昭和36)11月30日

空から見た嵐山町 223(更新) 嵐山町市街地1 2008年12月

平沢二区、平沢区画整理地区

2008年12月23日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 222 嵐山町市街地(動画) 2001年5月

平沢上空から見た嵐山町市街地

2001年5月27日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 177 平沢二区 2010年3月

平沢二区
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2010年3月12日 内田泰永さん撮影

A:平沢二区集会所
B:グループホームひだまりの丘
C:平沢コミュニティセンター

空から見た嵐山町 128 平沢二区 2009年7月

平沢二区
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2009年7月15日 内田泰永さん撮影

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言

  昭和21年元日に復員した
 平沢には何百人も朝鮮人がいたというけど、私が復員したときはほとんどいませんでした。工事をやっているとき私は戦争に行っていました。昭和17年(1942)1月10日に入隊しました。復員したのが昭和21年(1946)1月元日の朝帰りました。まる4年間でした。南大東島にいましたから、わりと早く復員になりました。帰ってきたときには朝鮮人は大体引き揚げて、幾人かが残っていました。

  平沢のあちこちに朝鮮人が泊まっていた
 この辺の農家の物置とか不動様とかお寺、それにH・Uさんの家、昔は種屋をしていましたが、部屋がいくつもあったのでそこにたくさんいたそうです。平沢寺(へいたくじ)にも庫裏(くり)が空いていたのでおそらくいたと思います。不動様の守り神はお犬様で2頭いたので、朝鮮人がそれを怖がって縁の下に入り込んでしまったといいます。本尊様の両脇に2体の犬がおりました。人間くらいの大きさで、赤と黒の二体でした。そこに泊まったのです。そこをみんな飯場と言っていました。

  工事の総監督今野さんが家に泊まっていた
 私の家の離れには今野さんという監督の人がいました。うちの母が朝飯だけをつくって出していました。朝飯だけでいいから、麦飯でなめもので結構だと言うので出していたといいます。私は復員してきて、母が朝飯を出すのを見ています。米の飯など終戦後ですから食べられなかったのです。帰ってきたとき今野さんはまだいました、今野さんは朝鮮人労働者の総監督の地位だったようです*。
 今野さんは一人で来ていました。家族は新潟です。今野さんが、この米を新潟に運んでくれないかと言うので、小林さんと二人でリュックで背負って持って行ったことがありました。復員して間もなくのことです。今野さんは、戦後も幾年もいました。残務整理でしょう。

  半地下工場の跡
 朝鮮人を使ってやったことは裏の方の半地下工場の建設です。道路を造って山と山の間を切り取って、そこに造ったのです。今も昔の面影はいくらかありますが、木が生えてきて分からなくなりました。私が復員した時にはまだ裏に半地下工場の建物が一棟ありました。基礎コンクリートをうって上に木造のかまぼこ型の屋根を造ったものです。鉄工場の裏に入ったところにありました。双葉に行く道のすぐ左側です。私が復員で帰ってきたのが元日の朝で、部落の人たちがぞろぞろ来るので、「なんだい」と聞くと、あそこに半地下工場ができたけれど、終戦でいらなくなったので部落でもらった。それで元日に新年のあいさつのあとみんなで見に行ってきたと言うのです。地元ではその木造の部分をもらって解体して,タバコ屋のてまえの消防小屋を作ったのです。志賀も建物の残りをもらい、小さい集会所のようなものを作りました。双葉(ふたば)のフェンスとの境に作りました。コンクリートの基礎が残っている頃、滑川高校の生徒を案内したことがあります。道の両脇にコンクリートがうってありました。下から1メートル位の高さにね。中はくつ石みたいのがうってありました。コンクリートは今のようないいものではないので、大きいハンマーで叩くと壊れました。機械はまだ全く入っていませんでした。半地下工場の大きさは、間口が5間くらい、奥行きは10間くらいだった気がします。こういう形のものはずいぶんありました。出来ていたのは、モーテルの所、双葉のフェンスの境の所などです。この辺は道の両サイドが山で、そこを切り開いて工場を造ったのです。トラックが入れるように道を造り、谷間、谷間に工場の敷地を造ったのです。
 トンネルは平沢の第二区で10メートルくらい掘り込んだトンネルがあります。そこは私の地所です。あの団地が出来るときに売ってしまいました。
 志賀の祖父が入(じじがいり)は、コンクリート打ちはまだ始まらなかった。道路は造って、谷間、谷間に工場を造るように整地をした段階です。変電所を造る予定でした。沼の所の道の両側に飯場がありました。どういう人がいたかはわかりませんが、私が復員して来たときには小笠原から疎開してきた人が入っていました。大工さんみたいでした。飯場は板張りのもので屋根はトタンでした。生活するのがやっとのものでした。
 沼の所のところにあった飯場が、鐘ヶ淵の地下工場つくりの事務所があったところです。ドライブインの手前の小さな掘りの手前、今栗の木の植えてあるところです。

  買収されていた土地が戦後返還された
 私の家は、ずいぶん広い場所が戦争中に買収されましたが、戦後そのまま返還になりました。モーテルのあった所なども、道に面した所を使っただけです。あとは畑のままでした。作付けした所を買収しても、まだそのままでした。道路に使った所は別ですが、畑は手付かずでした。少しも荒れてはいませんでした。食糧増産ですから荒らすどころではありませんでした。

【1996年9月5日・話者:嵐山町平沢H・M氏( 1923年生まれ 73歳)・聞き手:石田貞】
*:実際は鐘淵ディーゼルの疎開工場建設を請負っていた鉄筋コンクリート株式会社菅谷出張所の工事責任者だった。

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言

   神中組などの朝鮮人

  娘の葬式に朝鮮人も多数が来てくれた
 私の娘が1年と3ヶ月で亡くなり、葬式をしたときの「貴美子葬式控」があります。それを見ると朝鮮の人も多数来てくれたのが分かります。
 私の家の裏に神中組の三組の飯場がありました。金山、真山、立川の飯場です。公会堂にも朝鮮人が泊まっていて、安田文太郎さんが親方でした。私の家は一間を安田さんに貸していました。そこに安田さん夫婦と双子の子どもの4人がいました。安田さんは、食事は私たちとは別にしていました。外に下屋を出して、そこで炊事をしていました。風呂はうちのを使いました。飯場の人は公会堂でやっていました。それらの割り振りは役場とおまわりが来て強制的でした。その他、お寺、公会堂、大きい家は半強制的でした。家賃は、私のところは親方が入ったので月50円でした。他よりいくらかよかったようです。金寧武弘は公会堂の南に突き出したところに住んでいました。岩本周吉は河井信太郎さんの家にいました。村上仙太郎は隣の内田与一さんの家にいました。神中組、林飯場、金山相駿、公会堂の平沼健次郎、この人は安田の部下です。安田飯場一同、真山飯場の白川與捨、真山又英、これらは同じ飯場です。
 これらは葬式に来てくれた人の飯場名や朝鮮人の個人名です。娘の葬式に多くの朝鮮人が来てくれたのです。当時、平沢では大きい家、平沢寺(へいたくじ)、不動様、公会堂などに朝鮮人が泊まっていました
 結局、立川、真山、金山の三人が神中組の親方で、飯場を持っていました。米など、幾人いるのかわかりませんが俵で運んで来ました。立川は飯場が奥だったのであまり付き合いはありませんでした。平沼健次郎は安田の従業人で、よい人でした。安田さんは私の家に泊まっていましたが、神中組ではなかったようです。安田さんの方が早く先に来ていて、幾月か経ってから神中組が来たのです。

  神中組は平沢二区でトンネル掘りをめざした
 神中組の元は小川町にあり、そこから三つの飯場の人たちが来たのです。平沢に半地下工場をつくりに来た人たちより、神中組は3ヶ月くらい遅れて来ました。したがって平沢の谷津で工事をしている藤本さん【平沢の谷津で半地下工場の建設を仕切っていた朝鮮人】などとは別でした。公会堂には10人くらいいました。
 仕事の現場は平沢二区のトンネル掘りで、コミュニティセンターの向こうの工事場です。やがて地下トンネルを掘り、志賀の方からも掘ってきて、つなげる予定だと思います。公会堂の人たちは向こうから、神中組はこちら側から掘り、こっちの方が工事は進んでいて、やがてトンネルを掘るというときに戦争が終わってしまいました。志賀の方にも朝鮮人はかなりいました。工事ではトラックは全然使っていません。トロッコの線路を引いて運び出していました。
 志賀の高橋材木屋の谷津にもトンネルがあると聞いています。神中組が飯場を造る時の材料は志賀の高橋金造さんの親父さんの所からのものもありました。
 飯場は、田圃に金山飯場、その後ろの山を切り開いたところに真山飯場、その後ろに立川飯場とつくられました。飯場のところには井戸も掘りました。各飯場に何人くらいいたか、10人から多いところで20人くらいいたと思います。米の配給は小川町から2俵か3俵積んできました。飯場は、間口が6間くらい、奥行き3間くらいはありました。中は大部屋ですが、世帯持ちは区切ってありました。三つの飯場とも朝飯を食べて、8時か8時半にぞろぞろ穴掘りなどの仕事に出かけるのをよく見ました。昼は食べに来て、1時頃にまた仕事場に帰りました。話してみるとみんないい人でした。根っからの土方の人は少なかったようです。東京あたりからやむをえず来た人が神中組には多かったですね。世帯持ちも3,4組いました。
 戦後、安田さんたちは早く帰って行きました。安田さんは30歳くらいでした。

【1996年9月9日・話者:嵐山町平沢W・U氏(1916年生まれ、80歳)・聞き手:石田貞】

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

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