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報道

論壇 広報とは何か 関根昭二 1971年

論壇 広報とは何か
     広報研究会に出席して
       報道委員会長 関根昭二
 七月二十六日嵐山町で広報の合同研究会が開かれた。これには県の広報課から二名、比企、入間両郡下の町村の他、幸手、蓮田、久喜、北本、松伏、吉川などの各町からも参加して、最近発行された出席町村の広報紙について、お互いに批評し合ったわけである。
 この会合に参加して感じることは、こうした研究会がまことに意義のないものだということである。批評されたことは、写真のトリミングがたりないとか、見出しの活字がうまくないとか、レイアウトの工夫がたりないとか、要するに編集の技術的な面にのみ注がれている。こうした編集のテクニックは広報紙にとって枝葉末節のことである。
 こうしたことを指導する県自体の考え方も理解に苦しむ。いまの広報紙がどこの町村でも殆ど同じようなタイプになったのも県の指導によるものであろう。県はこうした編集テクニックの指導よりも、いかなる内容をもった記事を掲載すべきかを指導すべきである。
 今度の研究会には残念ながら記事そのものについての研究、批評を聞かなかった。これでは、「役所と住民をつなぐ接点」(朝日新聞社説八月二二日)としての広報の使命は到底達せられない。「広報とは何をいかに住民に伝えていくべきなのか」という命題に対してこそ論議が闘はさるべきではないか。
 つぎに広報紙の中には自ら取材し、自ら記事を書いたものが少ないということである。これでは広報を編集する資格はない。自ら原稿を書くことによって、編集者は責任と使命を感ずべきである。各課からの原稿の寄せ集めや、印刷物やパンフレットの抜き書きの記事で紙面を埋めるような広報紙では、住民は読む意欲を失ってしまうのではなかろうか。
 その町や村に関係のない記事も目につく。「光化学スモッグ」を掲載している毛呂山や蓮田、「やせた人がふとる法」「病人にすずしい夏を」の吉川、よその雑誌に載っているマンガを連載している松伏、
 幸手。同じ内容の記事を幾つかの広報紙が同じように掲載しているが、これは資料の出所が同じためであろう。「夏休みを楽しく-規則正しい学習と生活を」(伊奈、吉川、松伏、毛呂山、鶴ヶ島、蓮田)、「夏の交通安全」に関する記事(吉川、松伏、小川、三芳、日高)、「所得税の予定納税と減額申請」「花火の事故防止」、その他幾つかの記事が共通していた。
 こういう主体性のない広報紙の在り方こそ批判さるべきであろう。県の係官を招いて開かれる研究会が単なる編集技術に終始してしまうならば、編集の前進はなく、住民の求める広報にはなり得ないし、研究会は無意味な存在となってしまうであろう。

     『嵐山町報道』216号 1971年(昭和46)9月1日

論壇 工場誘致条例を廃止せよ 1961年8月

   誘致条例を廃止せよ
 三十二年(1957)十月の臨時村議会は村内に工場事業所を誘致して村勢の発展を図る目的のもとに、「工場誘致条例」を制定した。この条例は、投下固定資産総額五百万円以上で常時使用する従業員数三〇人以上の工場に対して、その工場の村民税、固定資産税の合算額の範囲内で奨励金を交付するというものである。
 奨励金の交付ということは税金を免除するということであって、その期間は三年から五年となっている。この条例のできた当時は、村でもどんな工場でも来てくれれば、農家の次三男が勤められて農家経済が楽になり、工場から税金があがってくるので財政が豊かになるという考え方であった。
 そらから今日までの約四年間、この条例は全くの空文であった。村当局は条例をつくったままで、これを活用する積極さに欠けていたのである。図(はか)らずも今度明星食品をきっかけとして幾つかの工場が建設されることになったが、これとても先方からの申込みを受け入れただけのことで、誘致に努力した結果ではない。吾々は先ずこの条例を死文化して今日まで来た村当局の怠慢を厳しく責めなければならないであろう。工場を受け容れる態勢もできていなければ、工場誘致の専門家も置かず、立地条件や会社の研究もしないで、「何かいい工場は来ないだろうか」程度のことでは何の効果もないことは明かである。
 茨城県岩井町【現・坂東市】の吉原町長は、二億円の工場誘致予算を町議会に要求して、一ヶ月で百三十万平方メートルの土地を買収し工場誘致のための敷地を確保し、「聯合紙器」、「日本タイプライター」など一流の会社を含めて二十七の会社の誘致に成功した。しかも大企業の誘致第一号の収入は教育、二号は産業改革、三号は道路、四号は消防・衛生、五号は減税に当て、中小企業からの分は役場の職員のベース・アップをやる(『週刊朝日』七月二十一日号所収)という話を聞くと、その政治性と実現のための熱意とには全く敬服させられるものがある。
 政治には政策とこれを具現化する力とがなければならぬ。遺憾ながら吾々の村には都市計画も、道路計画も、工場指定計画もないのである。政治に携わる人は十年後にこの村がどのように変貌するかの未来図ができていなければならないであろう。
 今度相次いで出来る工場が誘致条例の適用を受けるかどうか、議会でもまだ論議されていないようであるが、期せずして工場が進出してきた今日の現状からみれば、すでに誘致条例の恩恵を与える必要はないようである。投下資本の五百万円以上は土地代金だけでもそれを上廻ってしまうし、従業員三十人以上などというのは随所に見られる町工場のようなものでしかない。今日では誘致条例がなくても、立地条件さえよければ工場はどしどし進出してくるし、職があっても人が足りない実状からして、条例制定当時とは社会情勢も、経済情勢も大きな変化を来している。誘致条例はこれを速やかに廃止して、工場からの税収入を図り、村の教育や道路やその他の施設に力を尽くすことの方が賢明であろう。

     『菅谷村報道』125号 1961年(昭和36)8月15日

説苑 新しい農民の誕生 山田巌 1961年

 労働者には最低賃金「八千円の壁」という言葉が最賃法制定時(1959)流行した。今年近郊農村には「五千円の壁」という言葉が言われている。坪当り五千円の地価の所では農業経営は不可能であり、所得計算して採算がとれない、云わば野の壁だということである。坪当り五千円ということは、一反歩百五十万円であり、年利六分の利廻り計算しても九万円となり、これを今流行の投資信託の年一割計算で行けば拾五万の利子となる。この様な計算的基礎の上に立った農業経営が近時、行なわれつつあり、新しい型の農民が生まれつつある。反収拾五万円の粗収入を挙げることは特殊な農業経営を除いては恐らくナンセンスであり、地価もこれだけすると、農地転用で金にして、労力もかけない、天候に左右されない、そして生産費もかけなくて済む、新しい型の農民の誕生も決して不思議ではない。
 これは農民のプチブル化には相違ないが、斯く決めつけることは至難である。実はこれがこれからの問題点であり、為政者の心すべき大きな問題である。これはその農民が意識するとしないとにかかわらず、表面的には農地転用であるけれども、農民が資本主義体制下に、ようやくにして経済人としての自覚と判断を持ち始めた証左といえるであろう。
 日本の農民も封建的思想の旧殻(きゅうかく)を自ら求めて脱皮しようとしている現象である。
 徳川専制の圧政以来四百年、泥と汗にまみれ、農地に密着してさえ居れば失業はないと自ら信じ、政治や経済は「お上」にお委(まか)せときめこんで太平をむさぼった農民も、封建的な主穀生産経済から資本主義的な商品の生産、交換を中心とする貨幣経済への転化の中に従順・勤勉・無抵抗を最上の美徳と考えていたのでは、現在の産業革命の時代では、生活圏を自ら放棄したことに等しいことを悟ったのである。
 農民のみが資本の高度性と利潤追及をしなかったのが不思議であり、現在のこの型の農民こそ、立派な近代精神と近代思想にいきた新しい型の農民であり、この農民こそ、資本主義体制下にあっても充分優先して生き行く人達となるであろう。

     『菅谷村報道』125号 1961年(昭和36)8月15日

農繁期・農休み 1952年7月

   赤痢予防
 本村【菅谷村、現・嵐山町】では昨年度三三名(内疫痢九、赤痢二一)の伝染病患者が出たが、その大部分が赤痢及び疫痢であった。そこで村では今年こそ一人も伝染病を出さないやうにと早くから予防につとめているが、その一つとして、赤痢にかからぬ注意を要約して印刷しこれを村内各戸に配布した。見易い所に貼っておいて、実行して貰い度いといっている。

     『菅谷村報道』23号 1952年(昭和27)7月1日

   農繁期防犯月間
 麦刈、田植等一家総出の野良仕事で、家は自然老人や子供が留守居をすることになるが、その間隙(かんげき)をねらって空巣(あきす)や押売(おしう)りがばっこするおそれがある。そこで自警団では警察と呼応し、七月九日までを防犯月間と定めて警戒をすることになった。この間中学生の協力による防犯ポスターを配り、防犯立看板を立てて村民の警戒心を喚起している。

     『菅谷村報道』23号 1952年(昭和27)7月1日

   農休み
 本年は天気都合もよく農繁期の仕事も順調にかたづいているので、例年のやうに七月初旬に恒例農上りが出来るだらうといふ。期日は六月末に区長が協議して決定することになるだらうが、大体十三日前後と見られている。

     『菅谷村報道』23号 1952年(昭和27)7月1日

   農休み
 六月三十日、各字代表は役場会議室に集って、主として今夏の農休みの期日について協議した。その結果、大体十三日の日曜を中心に三日間ということになったが、菅谷は津島神社の例祭、鎌形は八坂神社の例祭の関係で若干前後することになった。

     『菅谷村報道』24号 1952年(昭和27)8月1日

   青年団散髪奉仕
 大字千手堂青年団では毎月一日、十五日に公会堂で、字民の為に散髪の無料サーヴィスをしているが、七月は農休みの十二日に実施して字民を喜ばせた。

     『菅谷村報道』24号 1952年(昭和27)8月1日

   赤痢発生減る
 昨年は、七月二十日までに赤痢、疫痢計十五名という多数の伝染病患者が発生したが、本年は僅かに二名の発病に止っている。
 これについて村当局は、これは村民や衛生役員等がよく予防に注意している結果と思うが、昨年は八月に十名、九月に二名という記録を示しているから、決して油断は出来ない。一層予防に努力して貰いたいと要望している。

     『菅谷村報道』24号 1952年(昭和27)8月1日

年頭の辞 嵐山町長・議長 1971年

   新玉の年は明けきて武蔵野に
      きらめく光さしわたるかも
              嵐山町長 関根茂章
 新年明けましておめでとうございます。
 すがすがしい気分の中にも、よし今年こそはと新たな決意を覚えるものでございます。昭和四十六年(1971)が健康で幸福の年でありますようまず謹んでお祈りする次第でございます。
 一九七〇年代は、嵐山町を含めた比企丘陵が飛躍的に開発発展する時代であると思われます。いまその基礎が着々と築かれようとしております。おそらく今年中には関越高速道や嵐山バイパスも確定を見るでありましょう。又、この時代に即応する為、町営水道の拡大や校舎の改築にも着手してまいりたいと念じております。すべての仕事は町民の御協力を得なければ出来ません。ぜひとも御理解をいただきかわらぬ御協力をせつにお願いする次第でございます。
 健康な方々は一生懸命働いていただき、子供達にはしっかり勉強してもらいたい。又、老人や病人、困った方々にはいくらかでもお手伝いをして参りたいものであります。経済的繁栄の中にも豊かな心、ゆかしい情緒と礼儀、暖かい融和の精神を養って行きたいものでございます。「新玉の年は明けきて、武蔵野にきらめく光さしわたるかも」新年に当り所感のいったんを申述べご挨拶と致します。(新年の放送より)

   新春を迎えて
           嵐山町議会議長 山岸宗朋
 嵐山町の皆さん開けましておめでとうございます。
 七〇年代と、やかましく言われておりました第一年度は終り、第二年度を迎えるに当り、過ぎ去った年にあった様々な出来事を思いおこし、その上から新らたに夢を考えてみたいと存じます。
 経済的に日本の産業力は世界で第二位となり、世界各国で驚いておりますことは、皆様方ご周知の通りであります。未だかって私共はこれまでに発展するであろうと思ったことがあったでしょうか。
 世の中の変化は私共には、はかり知れない事ばかり多いのであります。しかしながら、こうした高度の成長をなした裏には、公害ということで、地域住民が犠牲となり、大きな社会問題となりました。東京都の周辺と産業都市に人口が集中し、片や住宅問題を生じ、片や人口の流出化で問題化されております。
 嵐山町に於ても然りであります。現在の様な形相を誰れが考えていたでありましょう。誰れが夢を見たでありましょう。
 地産団地は二、三年後に完成し、八百戸以上の住宅が一度に増加することになります。
 やがて関越高速道路が町の東から西北へと走り、バイパスも出来ることでしょう。
 滑川村に出来る明治百年記念の国立公園も完成され、一月に何十万と言う多くの人々が入りみだれて来ることでしょう。自然の美に恵まれた嵐山町にも数多くの人が美しい自然を求めて来ることでしょう。美しい嵐山町に住いを求めて、永住を希望する方、或いは発展する嵐山に商業の基盤を、工場の敷地を求め、尚一層多くの方々が来るでしょう。形に現われて来たものなどを取上げて見ても、嵐山町の外からの力により、或いは町内部からの発展はまことに大でありましょう。
 この時に当って私共議会人に負わされている使命の重大でありますことを新らたに認識を深める次第であります。
 比企丘陵の一角にあります嵐山町が田園都市として生活環境をより良く改善を図り、福祉の向上と公害をなくすよう、将来に対し悔のないように、周知を集め、最善の努力を傾注し、町政のために微力ではありますが、骨身をおしまず努めてまいりたい所存であります。どうか皆様方の暖かいご支援とご理解あるご協力を懇願申し上げます。
 おわりに町の皆々様のご健勝とご繁栄を祈念申し上げて年頭のご挨拶といたします。

     『嵐山町報道』210号 1971年(昭和46)1月25日

せせらぎ短歌会がはじまる 1971年4月

   「せせらぎ」短歌会
 「せせらぎ」は嵐山町の婦人短歌会の名前です。
 昨年(1971)四月、公民館主催で、短歌愛好者のグループをつくりました。
 この(1972)四月からは一グループとして独立し、毎月九日に例会を開いております。
 現在会員は十八名です。
 みなさまの参加を希望いたします。
 申込みは中央公民館にてお受けしております。
     『嵐山町報道』224号 1972年(昭和45)8月1日

 →「グループ紹介 せせらぎ短歌会 1985年

関根昭二「昔を今に・部落めぐり歩き」 『菅谷村報道』掲載 1950年〜1951年

●関根昭二「昔を今に・部落めぐりあるき 序」 『菅谷村報道』9号 1950年(昭和25)11月25日1950年

●関根昭二「昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その1)」 『菅谷村報道』9号 1950年(昭和25)11月25日

●関根昭二「昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その2)」 『菅谷村報道』10号 1950年(昭和25)12月25日

●関根昭二「昔を今に・部落めぐりあるき 思想の巻 その一」 『菅谷村報道』11号 1951年(昭和26)2月10日

長島喜平『嵐山町郷土史片々』シリーズなど 『嵐山町報道』1968年〜1982年掲載

※『嵐山町報道』に連載された「町の今昔」・「昔を今に」シリーズから長島喜平氏執筆の記事の一覧です。「嵐山町郷土史片々」1〜13まで(9が重複しているので)14記事と「嵐山町小史」14、15の2記事、連番のない3記事で、あわせて19記事あります。

町の今昔 長島喜平「嵐山町史資料銘記集 −嵐山町郷土史片々(一)」 『嵐山町報道』185号 1968年(昭和43)6月25日

町の今昔 長島喜平「ケツあぶり −嵐山町郷土史片々(二)」 『嵐山町報道』186号 1968年(昭和43)7月30日

町の今昔 長島喜平「吉田宗心寺の複合塔婆について−嵐山町郷土史片々(三)」 『嵐山町報道』187号 1968年(昭和43)8月25日

町の今昔 長島喜平「狂歌師元の杢網のこと 嵐山町郷土史片々(四)」 『嵐山町報道』190号 1968年(昭和43)12月5日

町の今昔 長島喜平「新発見の十三仏板碑と桜井坊 嵐山町郷土史片々(五)」 『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

昔を今に 長島喜平「想左衛門欅(けやき)のこと 嵐山町郷土史片々(六)」 『嵐山町報道』201号 1970年(昭和45)1月25日

昔を今に 長島喜平「国指定にしたい菅谷館跡 嵐山町郷土史片々(七)」 『嵐山町報道』202号 1970年(昭和45)3月5日

昔を今に 長島喜平「広野の百庚申塔 嵐山町郷土史片々(八)」 『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

昔を今に 長島喜平「荻山忠治氏家の近世年貢文書 嵐山町郷土史片々(九)」 『嵐山町報道』206号 1970年(昭和45)8月25日

町の今昔 長島喜平「越畑の盲人 青木宗伯 嵐山町郷土史片々(九)(ママ)」 『嵐山町報道』213号 1971年(昭和46)5月25日

町の今昔 長島喜平「まぼろしの埼玉育児院 大蔵安養寺 嵐山町郷土史片々(十)」 『嵐山町報道』224号 1972年9月25日

町の今昔 長島喜平「木曽殿と木曽ぞの橋 木曽義仲に因(ちな)んで 嵐山町郷土史片々(十一)」 『嵐山町報道』225号 1972年(昭和47)9月15日

町の今昔 長島喜平「旗本折井氏と吉田の宗心寺 嵐山町郷土史片々(十二)」 『嵐山町報道』226号 1972年(昭和47)12月10日

町の今昔 長島喜平「永峰大工さん宅の青石塔婆 嵐山町郷土史片々(十三)」 『嵐山町報道』228号 1973年(昭和48)4月15日

町の今昔 長島喜平「菅谷東昌寺あれこれ 嵐山町小史(十四)」 『嵐山町報道』241号 1974年(昭和49)8月31日

町の今昔 長島喜平「ごりやくのあった薬師信仰 主として杉山の三体薬師 嵐山町小史(十五)」 『嵐山町報道』243号 1974年(昭和49)11月10日

町の今昔 長島喜平「源氏ゆかりの班渓寺 嵐山町郷土史」 『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日

町の今昔 長島喜平「土橋家文書 忠太夫軍忠之状」 『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日

町の今昔 長島喜平「嵐山町の円空仏 役の行者(えんのぎょうじゃ)の三体仏」 『嵐山町報道』310号 1982年(昭和57)10月30日

『町の今昔』シリーズ目次 『嵐山町報道』1967年〜1982年掲載

町の今昔 安藤専一「東昌寺並びに広正寺住職寛山師を憶う」 『嵐山町報道』175号 1967年(昭和42)8月15日

町の今昔 安藤専一「史蹟・笛吹峠」 『嵐山町報道』181号 1968年(昭和43)2月20日

町の今昔 大澤喜一「嵐山町歴史散歩 その四 菅谷館と太田源六郎資康の菅谷陣営」 『嵐山町報道』182号 1968年(昭和43)3月25日

町の今昔 大沢喜一「嵐山町歴史散歩 その五 菅谷館と太田源六郎資康の菅谷陣営(つづき)」 『嵐山町報道』183号 1968年(昭和43)4月25日

町の今昔 長島喜平「嵐山町史資料銘記集 −嵐山町郷土史片々(一)」 『嵐山町報道』185号 1968年(昭和43)6月25日

町の今昔 長島喜平「ケツあぶり −嵐山町郷土史片々(二)」 『嵐山町報道』186号 1968年(昭和43)7月30日

町の今昔 長島喜平「吉田宗心寺の複合塔婆について−嵐山町郷土史片々(三)」 『嵐山町報道』187号 1968年(昭和43)8月25日

町の今昔 長島喜平「狂歌師元の杢網のこと 嵐山町郷土史片々(四)」 『嵐山町報道』190号 1968年(昭和43)12月5日

町の今昔 編集室「鬼鎮神社 祭神は衝立船戸大神 ―武蔵の歴史より―」 『嵐山町報道』193号 1969年(昭和44)3月25日

町の今昔 安藤専一「信越の城主 安藤山三郎の事」 『嵐山町報道』195号 1969年(昭和44)6月25日

町の今昔 長島喜平「新発見の十三仏板碑と桜井坊 嵐山町郷土史片々(五)」 『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

町の今昔 安藤専一「絵本古事談管見 1 びん王宿瘤」「絵本古事談管見 2 烏羽文字」 『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

町の今昔 安藤専一「文政年間古里村検地絵図面のこと」 『嵐山町報道』212号 1971年(昭和46)4月25日

町の今昔 長島喜平「越畑の盲人 青木宗伯 嵐山町郷土史片々(九)」 『嵐山町報道』213号 1971年(昭和46)5月25日

町の今昔 長島喜平「まぼろしの埼玉育児院 大蔵安養寺 嵐山町郷土史片々(十)」 『嵐山町報道』224号 1972年9月25日

町の今昔 長島喜平「木曽殿と木曽ぞの橋 木曽義仲に因(ちな)んで 嵐山町郷土史片々(十一)」 『嵐山町報道』225号 1972年(昭和47)9月15日

町の今昔 長島喜平「旗本折井氏と吉田の宗心寺 嵐山町郷土史片々(十二)」 『嵐山町報道』226号 1972年(昭和47)12月10日

町の今昔 長島喜平「永峰大工さん宅の青石塔婆 嵐山町郷土史片々(十三)」 『嵐山町報道』228号 1973年(昭和48)4月15日

町の今昔 長島喜平「菅谷東昌寺あれこれ 嵐山町小史(十四)」 『嵐山町報道』241号 1974年(昭和49)8月31日

町の今昔 長島喜平「ごりやくのあった薬師信仰 主として杉山の三体薬師 嵐山町小史(十五)」 『嵐山町報道』243号 1974年(昭和49)11月10日

町の今昔 長島喜平「源氏ゆかりの班渓寺 嵐山町郷土史」 『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日

町の今昔 長島喜平「土橋家文書 忠太夫軍忠之状」 『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日

町の今昔 安藤専一「吉田村石高並びに沼数」 『嵐山町報道』282号 1979年(昭和54)8月1日

町の今昔 長島喜平「嵐山町の円空仏 役の行者(えんのぎょうじゃ)の三体仏」 『嵐山町報道』310号 1982年(昭和57)10月30日

大澤喜一『菅谷村(嵐山町)の歴史散歩』(1966年〜1968年)目次

大澤喜一『菅谷村(嵐山町)の歴史散歩』(1966年〜1968年)目次

その一  『菅谷村報道』169号 1966年(昭和41)9月15日
  まえがき
  大蔵の館

その二  『菅谷村報道』170号 1966年(昭和41)12月15日
  大蔵の館 (つづき)

その三  『菅谷村報道』171号 1967年(昭和42)3月10日
  杉山城(杉山)

その四  『嵐山町報道』182号 1968年(昭和43)3月25日
  菅谷館と太田源六郎資康の菅谷陣営

その五  『嵐山町報道』184号 1968年(昭和43)5月25日
  菅谷館と太田六郎資康の菅谷陣営 (続き)

内田講『子どもの頃の思い出』(1978年〜1979年)目次

内田講『子どもの頃の思い出』目次

その一
 『嵐山町報道』274号 1978年(昭和53)10月30日
  その1 野球
  その2 テニス
  その3 自動車

その二 『嵐山町報道』275号 1978年(昭和53)11月30日
  その4 熊谷小川間の交通
  その5 服装

その三 『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日
  その6 子どもの生活

その四 『嵐山町報道』279号 1979年(昭和54)4月5日
  その7 思い出すままに
        糸紡ぎ
        自転車
        自然物

その五 『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日
  その8 病気

その六 『嵐山町報道』281号 1979年(昭和54)7月1日
  その9 熱気球

その七 『嵐山町報道』282号 1979年(昭和54)8月1日
  その10 旗行列
  その11 マラソン

その八 『嵐山町報道』283号 1979年(昭和54)9月1日
  その12 草刈り
  その13 鳰の浮巣

その九 『嵐山町報道』285号 1979年(昭和54)12月1日
  その14 山鳥の親心

関根昭二「花だより」(七郷地区) 1965年

花だより1 遅い春
 今年の春は遅かった。いつもの年なら入学式の四月八日頃は桜の花が満開なのに、今年は十五日の合併十周年記念式典の日満開だった。このお祝いの日のために、そして若い村長のために、桜の花が待っていてくれたのかと思うような気がする。今年は村内の花の名所を訪ねて見ようという気になって、ある日、カメラをぶら下げて一廻りした。然し七郷地区だけしか写せなかった。次の日に菅谷地区を廻ろうと思ったら、曇り日になり、そのうちに雨が降ってしまい、桜の花は大方散ってしまったからである。桜の花は散るのが早い。

花だより2 七郷小学校の桜
 吉田

花だより3 七郷中学校の桜
 吉田

花だより4 お手白神社の桜
 吉田

花だより5 兵執神社の桜 古里

花だより6 地蔵様と桃の花
 古里

花だより7 水ぬるむ 古里の小川で
 古里

花だより8 八宮神社の桜
 越畑

花だより9 広正寺の桜 広野

     『菅谷村報道』159号 1965年(昭和40)5月10日

関根昭二「花だより」(菅谷地区) 1966年

花だより10 桜に寄せて
 春は花の季節である。花は桜である。桜が咲いて人々は初めて春らしい気分になれる。今年の桜は三月の終り頃から咲き始めたが、寒い日が続いたために四月の中旬まで咲き続けていた。昨年は七郷地区の桜を見て廻ったので今年は菅谷地区の桜を訪ねて見ることにした。桜を見るには肌寒いような日であった。花見気分はやはりかげろうのもえる霞のたなびくうららかな日がよい。そういう日がなかった今年の春であった。今年の春は寒い春だった。

花だより11 菅谷小学校の桜
 菅谷

花だより12 嵐山ロッジの桜
 菅谷

花だより13 菅谷中学校の桜
 菅谷

花だより14 農業研修センターの桜
 菅谷

花だより15 嵐山駅の桜
 菅谷

花だより16 重忠館跡の桜
 菅谷

花だより17 鎌形小学校の桜
 鎌形

花だより18 菅谷神社の桜
 菅谷

花だより19 宝城寺の桜
 志賀

花だより20 安養寺の桜
 大蔵

花だより21 明光寺の桜
 将軍沢

花だより22 薬師堂の桜
 川島

花だより23 武蔵嵐山の桜 武蔵嵐山

     『菅谷村報道』167号 1966年(昭和41)4月30日

『嵐山町報道』で「婦人のページ」がはじまる 1983年7月

・報道編集委員 伊藤ときえ・加藤清子「菅谷婦人会の今昔 1983年」 『嵐山町報道』315号 1983年(昭和58)7月30日

・報道編集委員 中山富子「講座百人一首からおもひ草誕生」 『嵐山町報道』315号 1983年(昭和58)7月30日 

・緒方洋子「私の課題 志賀・緒方洋子」『嵐山町報道』328号 1985年(昭和60)2月25日

・グループ紹介 せせらぎ短歌会 『嵐山町報道』328号 1985年(昭和60)2月25日

・小沢幸子「農閑期利用の手編み教室」『嵐山町報道』329号 1985年(昭和60)4月30日

・高瀬しげ「歩け大会に参加して」『嵐山町報道』329号 1985年(昭和60)4月30日

・山田美子「ボランティアありがとう」『嵐山町報道』』330号 1985年(昭和60)5月25日

・上村千賀子「性役割の流動化をめざして」『嵐山町広報』339号 1986年(昭和61)2月20日

・佐々木ユ基「新女大学・三育のすすめ」『嵐山町報道』340号 1986年(昭和61)3月20日

・安藤たつ子「変貌する農村と婦人」『嵐山町報道』341号 1986年(昭和61)4月20日

・三井幸子「舞台裏から」『嵐山町報道』349号 1986年(昭和61)12月25日

・グループ紹介 嵐山ファミリークラブ『嵐山町報道』349号 1986年(昭和61)12月25日

・宮本紀子「区長職を終わって」『嵐山町報道』356号 1987年(昭和62)8月25日

・反町葉子「赤十字奉仕団をご存じですか」『嵐山町報道』361号 1988年
(昭和63)2月25日

『菅谷村報道』が創刊される 1950年4月

   挨拶に代えて
           会長 小林博治
 昔の農夫は自分で自分ことを「お百姓」といった。自分を殿様のものだという意味である。今の農夫は自分を指す場合は「百姓」というだけで「お」はつけない。自分は誰のものでもない。自分のものだからである。
 「お百姓」の時代は万事殿様まかせで、唯「お米」を作っていれば事が足りた。世話はないが、意志の自由がない。それが「百姓」の時代になると、もう昔の殿様のような人はいないから何でも自分でしなければならない。面倒でもあるが、楽しみも多い。村長や村議を選んで村の仕事の計画をしたりその仕事の実行をしたりしなければならない。学校を建てる、道路を修理する、治水や防火や病気の予防や産業の振興等全て自分で計画したり実行したりしなければならない。その費用も自分で出さなければならない。吾々は殿様に絶対服従した時代よりずっと自由になったが、その反面非常に重い責任を負わされてゐる。よい村にするのも、悪い村にするのも、結局自分達であって、他人ではない。我々は一生村から離れて生活することは出来ない。今居る村がいやだといって逃げ出してもその先に又村がある。どこの村へ逃げ込んでもその村で努力を怠ったら、又悪い村になってしまふ。だから我々は現在住む村をよりよい村にするやう努力するより外、道はない。村をよくするには村の事情がよく分からなければならない。お互に意志の疎通が欠けてはならない。有利有益なことを知らせ会う必要もある。国や県のきまりも知らぬと困る。
 此のやうなことに役立ちたいという趣旨で、村に報道委員会が出来ました。そしてその目的を達する方法の一つとして「報道」が発行されるやうになりました。私は微力で何のお役にも立ちませんが、幸ひ委員の方々は、いづれも人格、識見共に卓絶の士であります。村民各位の御指導と御協力を得ましたなら、何か一かどの仕事も出来るかと存じます。どうぞよろしくお願ひいたします。
     『菅谷村報道』1号 1950年(昭和25)4月20日
※『菅谷村報道』は、現在の嵐山町広報の前身。菅谷村報道委員会が編集・発行した。創刊号の編集後記は「編輯係より」。村民の「意見をできるだけ多く聞く」ために村内13ヶ所に「世論箱」を設置したことや、誌名候補として「朝光」「ゆうとぴあ」「嵐山ニュース」「嵐山新報」などがあったこと、投稿が創刊前に多数あったことなどが記されている。

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