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神社明細帳

神社明細帳 淡洲神社 七郷村(現・嵐山町)勝田 ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡七郷村(ななさとむら)大字勝田(かちだ)字前
 村社(そんしゃ) 淡洲神社(あわすじんじゃ)

一 祭神(さいじん)
    保武田別尊(ほんだわけのみこと)*1
    息長足日賣命(おきながたらしひめのみこと)*2
    武内宿称命(たけのうちのすくねのみこと)*3
    菅原道真公(すがわらのみちざねこう)*4
    武甕槌命(たけみかづちのみこと)*5
   *1:誉田別命・品陀和気命。応神天皇(おうじんてんのう)。応神天皇のこと。仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后。
   *2:息長足媛命・息長帯比売命・気長足姫尊。神功皇后(じんぐうこうごう)。『古事記』『日本書紀』にみえる仲哀天皇の皇后。
   *3:武内宿禰。『古事記』『日本書紀』にみえる、葛城・平群・巨勢・蘇我の四氏をはじめ二十八氏の祖先とされる伝承的人物。
   *4:平安前期の公卿・学者・文人(845-903)。学問・書・詩文にすぐれ、菅公と称され、後世、天満天神として祭られる。
   *5:日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が火神を切り殺したとき、剣に付着した血から化生(けしょう)した神。鹿島神宮の祭神。

一 由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)*1年月不詳(ふしょう)、宝永(ほうえい)年中(1704-1711)中宮(ちゅうぐう)建立、文化年中(1804-1818)上□建立、嘉永(かえい)年中(1848-1854)鳥居建立。
 元淡洲明神ト唱来(となえきたり)シ処(ところ)御維新(いしん)*2ノ際(さい)當号(とうごう)ニ改稱(かいしょう)ス。
 明治四十年(1907)四月十七日同大字勝田字菅原臺無格社(むかくしゃ)天神社(てんじんじゃ)、生前無格社鹿島神社(かしまじんじゃ)ヲ本社ニ合祀(ごうし)ス。
 明治四十一年(1908)三月三日上地林参畝(せ)八歩(ぶ)境内編入許可。
   *1:神仏の分身、分霊を他の地に移してまつること。
   *2:明治維新。

一 社殿 本殿
一 境内 参百九拾九坪
一 氏子 四拾貮戸

※淡洲神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1403頁)
淡洲神社(勝田)

神社明細帳 吾妻神社 根岸村(現・嵐山町) ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字根岸字前山
  村社  吾妻神社(あづまじんじゃ)
         昭和二一、一○、一五 法人登記済
一 祭神(さいじん) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
一 由緒(ゆいしょ) 創立年月不詳但明治四年中村社届濟
  明治四十年(1907)四月十七日同大字字道上無格社神明社及当社境内社神明社ノ二社ヲ本社ニ合祀ス
  明治四十年十二月二日壱畝貮拾六歩上地林ヲ境内ニ編入許可
一 社殿 本殿
一 境内 百五十一坪  昭和廿三年四月二十七日 一五一坪五八
           決昭和二十四年四月三十日 一五一坪五合八勺
一 氏子 十七戸
一 境内神社
   三峰社 祭神 伊弉諾命(いざなぎのみこと)
          伊弉冉命(いざなみのみこと)
       由緒 不詳
       社殿 本殿

※春の祭典 2008年4月4日撮影
1 前山の吾妻神社での祭典
IMG_5839

2 根岸集会所で
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※吾妻神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1401頁)
吾妻神社

鎌形八幡神社縁起 1711年・1785年

※印刷用に『嵐山町の古文書を読む会』の記事末尾の文書番号をクリックするとPDFファイルがあります
●鎌形・八幡神社文書 1 鎌形八幡宮縁起 正徳元年(1711)
  正徳元年
   鎌形八幡宮縁起
            槙島昭武

   鎌形村八幡宮縁記
武藏國比企郡松山庄鎌形村正八幡宮は、人皇五十代桓武天皇の朝、坂上田村丸勅命を蒙り、東奧の夷賊退治として關東に赴かれし砌り、當所鹽山の絶景を感じ、延暦十二年癸酉、假初に宮柱太き立て、筑紫の宇佐宮を爰許に勸請し給ひ、同十六年丁丑、陸奧出羽の國司として征夷大將軍に補し、再下向ありし時、重て修宮の功を副られ、近隣氏の辰鮨鬚董其貯の巍々たるを恭敬す。相次で八幡太郎義家、木曾左馬頭義仲、右大將鯆卿、尼御臺所并に信向ましく華構の飾をなさしめ、壇鎮呂魎鵑蕕譴靴茲蝓代々の將軍家造營を加へられ、大社と謂ひ繁盛と謂ひ、靈驗日々に新に、道俗の渇仰歳月に瓩擦蝓B坐は應団訛臺郢Г慮羞舛鮓修呂掘御飾を落させ給うひて、圓頂法服を着せられ、左に念珠、右に干珠、滿珠の寶顆を持せらる。傳教大師の刻彫、秘しつたえて開帳する事なし。毎歳正月二日無汁祭禮、同六日追儺牛王の加持、仝七日の短、四月三日大菩薩降誕の會式、六月十五日短、八月十二日より十五日に至て放生會、流鏑馬、競馬、惣て毎月朔日十五日月次の短を執行し、天下泰平四民安堵の祈念丹誠を抽て、蘋蘩の饌を闕ず、如在の靈奠更に怠慢なし。加旃輔佐の前立、愛染明王は行基菩薩の作佛にして、惡魔降伏、衆人愛敬の本誓、弛念戝廚量輯奸\い砲ゐて掲焉なり。奧院は阿彌陀、藥師十二稚髻K社は竹内ノ臣閽胆Г鯡霏膺稚鬚皮砲后三島、若宮、御靈、松ノ尾、稻荷、聖天(大聖歓喜天と號す)、諏訪明叩惠比酒ノ宮、九頭龍王、杉尾明叩隱岐院(今鳥羽上皇の靈廟)、高良ノ宮、長戸明壇也。本社は東向にして、古代は過分の大社たりしが、亂世に回祿して漸假の叢祠を今の地に遷して保てり。別當の坊、鎌形山眞道大行院は顕密兼學の道場、本山修驗の靈區たり。全盛の鐘樓の蹤、當時猶見在して、鐘は軍旅の爲に奪はれ、秩父郡御堂村淨蓮寺の用器となれり。然れば壇鎮呂睿動に陵夷し、御供免、燈明免、番匠免、無計免など僅知里箸靴栃へ來れる而已。是に依て大歎關東御入國の後、往昔の由緒を糺され、天正十九年辛卯社領貮拾石御寄進有て、御判物を成下され、大献院殿常憲院殿御朱印又歴々として、山林竹木諸役免許の鈞命を蒙り、祭祀を次ぎ法灯を挑ぐ、不退轉の洪恩併弛漠化の奇特と謂つべし。抑八幡大菩薩は東方君子國の宗庿、辱も 皇統十五代應壇傾弔慮羶眄廖御本地は西方寂光土の本主阿彌陀如来にして、外には魔軍征伐、怨敵退散の稜威を示し、四海安寧、萬民快楽の衛護を本とし給ひ、内には八相成道の形を備て、善巧方便、濟度利益の巨多なる事逐一に記し難し、孰か信心歸衣のおもひを。凝らさざらんや且は最前鎭座し給ふ處の鹽山の勝地を相るに、苔蘚滑に巖峨々たる險岨にして、東は上原の谷、西は小倉山、南を小窪と云。麓に月河の水流、滿藏淵前後にはね石とび岩などゝて異なる盤石ならび列り、覩る人目を駭かせり。昔時潮湧出しとて、鹽澤と云る濕地あり、鹽山の稱號も是に本づける名なりとぞ。山の半腹に奇しき窂あり、土俗呼て貉の京と稱す。爰を攀て杳に峯頭に騰れば比類なき四顧佳景、さながら胆腓齢誘かと疑はる。前面を海道馬場と號し、其南を木曾殿屋敷と云。左馬頭義仲の長男、清水冠者義高此所にて誕生ましくけるに、七箇所の水を挹て産湯に進らせしとて、あたり近き此面彼面に木曾殿羶紂岩羶紂天水羶紂⊂醗脛羶紂‰冬建羶紂∈ヽ案鵐所の名水八幡の社地に在り。則小倉山の城迹木曾義仲の住給ひし遺址なりと云り。往古は八幡大菩薩の丹夘僂蠅卜しくして、凡下の族彼馬場にて馬を奔しむる事協難かりしとぞ。月川の下に馬洗と云る淵有、其頃よりの名稱にや。件の義仲は耋存算瘴守府將軍陸奥守義家の家督、六條判官爲義の次男、帶刀先生義賢の賢息なり。然るに義賢當國の豪士秩父次郎太夫平重澄の養子と成て、比企郡大藏堀の要害を根城として、鹽山及上野國多胡郡の采邑にも屢居を占られし。近衛院の朝、久壽二年乙亥八月義賢多胡の庄を出て、鹽山へ移らんと欲し、大藏堀の館まで來られけるに、其甥鎌倉惡源太義平(義賢の兄義朝の嫡)宿意を構る事有て密に是を狙ひ撃り。于時御息駒王丸三歳の嬰兒たるを、母上抱き取て側に忍ばせたりし。義平然してて後上京すると畠山庄司重能(重忠父、比企郡菅谷在住、今其城迹あり、鹽山より二十丁餘)に諭して曰、彼孤は健け人の子なり、生先心にくし、尋捜て亡き者にすべしと強に含られしを、重能情なくおもひて長井の齋藤別當貫盛に囑へ、是養へとて與へければ、實盛思案して東國は源家の被官多く中々鞠育し難からんと、信州へ送り乳母の夫、仲三權守兼遠に預しめたり。駒王丸成長の期、元服して木曾冠者義仲と名謂、廿餘年の春秋を經て、治承四年庚辰義兵を擧んの志を起し、上州多胡庄及當所の本領に徘徊して、亡父舊好の武士等を相晤はるといへども、頼朝の權威に壓れ義仲の促に應ずる者寡きを以て、信州へ馳皈、竟に軍を發して北陸道より皇都へ責入、平氏の諸將を追拂ひ、朝日將軍と呼れて猶關西を伐靡けん趣なりしに、家運怯して元暦元年正月廿日江州志賀郡粟津におゐて討死(三十一歳)息男義高は當所鹽山の館におはしけるを、是より■、頼朝卿鎌倉へ迎へて嫡女大姫君に娶せ斜ならず持てなされしが、父義仲亡命の遺恨心底に介まれんか、是も亦刑戮に處せられ然るべしと、内議區々の首尾あるを聞て、同年四月廿日の曉、義高鎌倉を抜落し、當所へ立越られしを鯆卿の命を奉て、堀ノ藤次親家討手として入間河原へ馳着、敢なくも義高を討捕■。靈廟今其地に在り。入間川の宿、八幡宮則是なり。此時大姫君愁傷の餘永く漿水を斷て日夜紅涙に沈み、追慕の念須臾も止ず。文治三年丁未二月尊靈の菩提の爲とて比企郡岩殿權音へ詣給ひ、當所八幡宮へも社參有て、義高舊館の地に姑く滯座し給ひしとぞ。義高の後胤羶綮瓩鱆覆靴那鳥も幕府の麾下に奉仕セラルゝと云り。凡草創の延暦十二年より是歳辛卯に到て、星霜九百三十年。宮所巍然として貯更に古今を分たず。末世澆漓に及ぶといへども信力堅固の輩などが哀愍納受の示現を蒙ざらんや。仰くべし祟ふべし。于時正改元の秋、大行院秀繁の需に因で、東武南縣の賤夫槇島昭武謹て記レ之。云レ爾。

『嵐山町の古文書を読む会』「鎌形・八幡神社文書 1」


●鎌形・八幡神社文書 2 鎌形八幡宮縁起草稿 天明五年(1785)
鎌形八幡宮縁起草稿 天明五年(1785) 鎌形・八幡神社文書 2
 天明五丁巳年八月
   鎌形八幡宮縁起草稿
            周基代改正

武蔵国比企郡松山荘鎌形山八幡宮ハ人皇五十代桓武天皇朝坂上田村麿勅命を蒙り東奥の夷賊退治として関東に赴れし砌当所塩山の寄景を感し延暦十二年癸酉仮初に宮柱しく立て宇佐宮を勧請し給ひ同十六丁丑陸奥出羽の国司として征夷大将軍に補し再ひ下向ありし時重て修営の功を副られ近隣氏の神と崇めて其の神徳の巍々たるを恭敬す相継て伊予守頼義八幡太郎義家東征の砌は所領を籠られ其後帯刀先生義賢木曽左馬頭義仲右大将頼朝尼御台所に至るまで信向ましまし華構の飾りをなさしめ神田地を寄せられしより代々の臣公造営を加ゑられ霊験日々に新にして道俗の渇仰歳月に弥増けり尊像は応神帝大菩薩にして御餝りを落させ給ひ円頂法服を著せられ左に念珠右に宝顆を持せられ聖徳太子の刻彫秘し伝て開扉する事まれなり毎歳正月二日無汁神事同六日追儺牛王加持同七日神事四月三日大菩薩降誕の会式六月十五日神事八月十二日より十五日に至るまで放生会流鏑馬競馬惣して毎歳朔望月次の神事執行し専天下泰平四民安穏の祈念丹誠を抽て蘋蘩の饌を闕如せす如在の礼奠更に怠慢なし加旃輔佐の前立■士愛染明王は行基菩薩の作仏にして悪魔降伏衆人愛敬の本誓にして神仏一致の冥鑑世におゐて掲焉也奥院は阿弥陀薬師十二神将末社は竹内臣閽神三島若宮御霊松尾稲荷聖天(大聖歓喜天也)諏訪恵比寿(西ノ宮太神)九頭竜王杉尾隠岐院(後鳥羽上皇也)高良長戸等也本社ハ東面にして古代の殿社は無比の大社たりしか乱世に回禄して(応仁文明ヨリ元亀天正ノ比罹兵火数度焼亡ス故殿社衰弊可知也)漸く仮の叢祠を今の地に遷し保り別当坊鎌形山真福寺大行院は顕密兼学道場本山修験の格院たり往昔全盛の遺跡鐘楼等礎趾当時も猶見在す鐘は軍旅に奪れて秩父郡御堂郷浄蓮寺の法器となれり(一行銘曰上州緑野郡板倉郷円光寺鐘正慶二年癸酉三月廿二日願主尼蓮阿大工沙弥浄円又一日敬日武州比企郡釜形郷八幡宮鐘大檀那矢野安芸守文明十一年己亥八月九日聖永運海栄尊栄枯栄金心栄栄俊祥祝栄須俗名戒名等30余人有之也略)
然して神田地も陵夷し御供免灯明免番匠免無計免など僅に神領として抱へ来れるも今は唯名のみを残せり。
大神君関東御入国の後往古の由緒を糺れ天正十九年辛卯社領弐拾石御寄進有之継て 大猷院殿 御判物を下されしに寛文四年甲辰十月十日夜別当坊中焼失して 御二代御朱印并往古伝来の神宝記録等不残焼亡せり夫れより二十余年を経て貞享元年甲子本田淡州侯より御代宦近山氏与左衛門に仰て御検地の上御千代今井新七宮入右衛門同二年乙丑再び 常憲院殿 御朱印を下され山林竹木諸役免許の蒙 釣命祭次神灯を挑て不退転の洪恩併神仏徳化の寄特と謂つべし抑八幡大神は東方君子国の宋廟 辱も 皇統十六代応神帝の御重迹御本地は西方寂光土本主阿弥陀如来にして外には魔軍征伐怨敵退散の稜威を示し四海安寧万民快楽の衛護を本とし給ひ内には入相成道の形を備て善功方便済度利益の巨多なる事逐一に記し難し孰か信心帰依の思を凝さらんや且は最初鎮座し給処の塩山の勝地を相るに苔蘚滑に巖峨々たる険岨にして東は上原の谷西小倉山南小窪と言麓に月川の水流満蔵ヵ渊前後には称石飛石抔と異なる盤石ならひ列り覩る人目を駭せり昔日潮湧出しとて塩沢と言る温地あり塩山の称号も是れに本つける名とそ山半腹に寄窂あり土俗呼んて貉の境と称す此れを擧て杳に峰頭に騰は比類なき四顧の佳景神仙の霊境かと疑る前面を海道馬場と号し其南を木曽殿屋敷と言左馬頭義仲誕生の始め七箇所清泉を挹て産湯に用ひしとて此面彼面に木曽殿清水岩清水天井清水照井清水此外二ヶ所の名水当社境内に在之(此所謂ニヤ信州木曽谷義仲古館宮越駅ニ産湯清水若宮有之ト言俗称言武州鎌形産湯清水八幡宮若宮国史云治承四年五月廿八日義仲効外ニ八幡大神ヲ鎮メ祭リ大ニ餅酒ヲ施二民人一ト云)則小倉山の城跡は義賢大蔵堀の根城とそ于今其遺址あり往古八幡宮の神威頻に烈しく凡下の族彼馬場にて馬を奔しむる事恊ひかたかりしと也(故ニ地ヲ遷シテ今ノ土地トスト云)都幾川の下に馬洗と言るい渊あり其頃よりの称号とそ件の義賢は清和源氏前陸奥守義家家嫡六条判宦為義の息男左馬頭義朝の舎弟也然るに義賢当国の豪士秩父次郎太夫平重澄の養子と成て比企郡大蔵堀の要害を居城として小倉山及ひ上野国田胡の荘にも屡居せられし処近衛院の朝久寿二年乙亥八月義賢多胡荘を出て大蔵堀の舘へ来られしに其の娚悪源太義平(義朝嫡子鎌倉悪源太ト云十四歳)宿意を構る事有りて密に狙ひ撃り(為夜軍亡命ト云義賢ノ霊社同郡福田邑ニ在之社号義賢浅間ト云元久元年甲子正月十五日勧請スト云)
于時息男駒王丸三歳の嬰児たりしか母君と倶に当社の境外に居給ひしに(其ノ旧跡于今顕然タリ木曽殿屋敷トナル前見)義平上京するとて次郎重能(重畠山荘司重忠ノ父ニテ同郡菅谷在城也)に諭して曰彼の孤は健士子也生先き心にくし尋捜て亡きものにすべしと強に含られしを重能情ありて長井の齋藤別当実盛に(永井郷鎌形ヨリ七里余数通行シテ好テ衆徒ニ結ト云)嘱へ是れ養之とて与へけれは実盛思案して東国は義平の属士多く中々■育し難からんと信州へ送り乳母の夫仲三権守兼遠に預しめたり駒王丸成長の後元服して木曽冠者義仲と名謂二十余年の春秋を経て治承四年庚辰高倉宮奉令旨義兵を挙んと上州多胡郡及ひ当所の旧地に徘徊して亡父旧好の武士を語はるといへ共東国は過半頼朝郷に属して義仲の催促に応するもの寡を以て信州へ馳帰り逐に軍旄を挙て北陸道より皇都へ責入平氏の諸将を追払ひ朝日将軍と呼れて猶を関西を伐靡ん趣なりしに家運怯して元暦元年正月廿一日江州志賀郡粟津におゐて討死(時ニ禅定門大公宜三十一歳義仲ト言也)息男義高(清水冠者ト言)是より嚮頼朝義仲疑心を懐て矛盾に及んとせし時土肥の実平をして義高を鎌倉へ質とし迎へて和順し則嫡女大姫君に娶せ斜ならす持なされしに父義仲亡命の遺恨心底に夾れんの是も又刑戮(?)に処せられ可然と内議區の首尾あるを聞て同年四月廿日の暁義高鎌倉を秡落して当所へ立越んとせられけるに頼朝卿の命を奉て親堀藤次家討手として入間川原に馳著敢なくも生害し■ぬ霊廟此社大社也鎮守也于時大姫君愁傷の余り永く漿水を断て日夜紅涙に沈み追慕の念須臾も止す文治三年丁未二月亡夫菩提として義高所持の本尊弥陀の一躯を随身し給ひ当社の宝匱へ籠られ旧舘に姑く滞座して比企観音所々の霊堀へ詣し給ひとそ猶干亦義高の舎弟義綱も(母桜木局ト云文治三年ニ卒義綱ハ木曽義治郎ト云後苗改二馬場一十九代裔栗木備前守義高小田原属北条家天正年中於豆州山中要害討死)も旧地を慕ひて信州より下向し当社の隣村に居して今猶安続せり是供併鎮守の冥契なるのみ猶亦木曽の後胤として清水氏を称して当時も(清水権之助ト云采地一線余石也)幕府の麾下に奉仕せらる(元禄ノ頃由緒ヲ慕テ武器ヲ奉納セラル也)凡そ草創の延暦十二年より是年辛卯に至て星霜九百三十年宮所巍然として神徳更ニ顕然たり末世■漓に及といへ共信力堅固の輩なとか哀愍納受の示現を蒙らざらんや仰くべし祟ぬべし于時正徳改元の秋別当大行院秀繁寛文四年老父秀栄の代焼亡せる古記の趣を拾ひ古老の伝説を証し見在の名称にまかせて千百カ十一を揚る而已
桜木房法諱 徳音院殿木曽桜后妙照大禅定尼
  信州木曽宮ノ越駅徳音寺有之彼境外産湯清水八幡若宮有之
義仲法諱 木曽朝日将軍義仲宣公大禅定門
  廟社 南宮法照大明神古舘遺址鎮坐
齋藤実盛 篠原院前左余吾従五位下徳山覚道真阿大居士

天明五年丁巳八月従勧請至一千年諸堂社惣開帳十余日勤行之畢因以古縁記之補闕如略考国司註之而已当山周基記
            周基印 大行院印


『嵐山町の古文書を読む会』「鎌形・八幡神社文書 2」

菅谷地区神社祭日調 菅谷村(現・嵐山町) 1940年8月

鎮座地・社格・神社名・祭日(例祭日・祈年祭日・新嘗祭日)

大字菅谷字山王回68・村社・日枝山菅谷神社・(10月17日・2月17日・11月23日)

大字志賀元広野・村社・鬼鎮神社・(3月15日・2月28日・11月25日)

大字志賀・村社・八宮神社・(10月17日・4月3日・12月25日)

大字平沢・村社・白山神社・(9月9日・4月3日・11月23日)

大字遠山・村社・八幡神社・(8月18日・4月3日・10月19日)

大字千手堂字明神前・村社・春日神社・(4月15日・2月11日・10月17日)

大字鎌形字清水1993・郷社・八幡神社・(10月13日・3月3日・11月30日)

大字大蔵・村社・大蔵神社・(7月15日・4月14日・10月21日)

大字根岸字前山・吾妻神社・(4月4日・3月4日・12月11日)

大字将軍沢・日吉神社・(10月19日・4月10日・12月11日)


※1940年(昭和15)は紀元二千六百年にあたるとして、各地で様々な奉祝行事が行われた。「紀元二千六百年神名帳編纂上必要有之候趣ヲ以テ内閣紀元二千六百年祝典事務局長ヨリ照会有之」として県から各市町村に依頼された「神社祭日調」の回答で、村内各神社の例祭・祈年祭・新嘗祭の日にちを報告している。

※鎌形八幡神社秋の祭典・芸能大会 1997年10月13日
秋の祭典・芸能大会19971013

地誌の用語:官有地・民有地の区分

官有地・民有地の区分

官有地
●官有地第1種
 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス。
 皇宮地(皇居・離宮等)、神地。

●官有地第2種
 地券ヲ発シ地租ヲ課セス区入費ヲ賦スルヲ法トス。
 皇族賜邸、官用地。

●官有地第3種
 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス。
 但 人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時其間借地料及ヒ区入費ヲ賦課スヘシ。
 山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサルモノ。
 鉄道線路敷地、電信架線柱敷地、灯明台敷地、行刑場。
 各所ノ旧跡名区及ヒ公園等民有地ニアラサルモノ、人民所有ノ権理ヲ失セシ土地。
 民有地ニアラサル堂宇敷地及ヒ墳墓地。

●官有地第4種
 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦スルヲ法トス。
 寺院大中小学校説教場病院貧院等民有地ニアラサルモノ。


民有地
■民有地第1種
 地券ヲ発シ地租ヲ課シ区入費ヲ賦スルヲ法トス。
 人民各自所有ノ確証アル耕地宅地山林等ヲ云。

■民有地第2種
 人民数人或ハ一村或ハ数村所有ノ確証アル学校病院郷蔵牧場秣場社寺等官有地エアラサル土地ヲ云。

■民有地第3種
 地券ヲ発シ地租・区入費ヲ昧スルヲ法トス。
 官有地ニアラサル墳墓地等ヲ云。

     「明治7年(1874)11月7日大政官布告第120号布告」等による。

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