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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

七郷中学校

古い写真 七郷小学校・七郷中学校 1956年

七郷小学校・七郷中学校
七小・七中(1956年)600
1956年(昭和31)撮影

古い写真 七郷中学校昭和24年度卒業生同窓会 1956年

七郷中学校昭和25年3月卒業生同窓会
大塚元一21
1956年(昭和31)1月2日撮影

古い写真 七郷中学校昭和24年度卒業生同窓会 1952年

七郷中学校昭和25年3月卒業生同窓会
大塚元一11
1952年(昭和27)1月3日、65名参加

古い写真 七郷中学校3年生江ノ島遠足 1950年

七郷中学校江ノ島卒業旅行
大塚元一6
1950年(昭和25)3月28日撮影

古い写真 七郷中学校卒業記念写真 1950年

七郷中学校卒業記念写真
大塚元一4
1950年(昭和25)1月23日撮影

古い写真 七郷中学校2年1組 1949年1月

七郷中学校2年1組
大塚元一3
1949年(昭和24)1月撮影

古い写真 七郷中学校遠足 1948年4月

七郷中学校1年生高崎観音見学旅行IMG_1797
1948年(昭和23)4月

古い写真 七郷中学校遠足 1940年代後半

七郷中学校遠足
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1950年(昭和25)前後?

嵐山町の桜 七郷中学校跡記念碑 2010年4月10日

七郷中学校記念碑

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校歌
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2010年4月10日撮影

※七郷中学校
1947年(昭和22)4月 七郷村立七郷中学校開校
1984年(昭和59)3月 嵐山町立七郷中学校閉校
卒業生 2636名
校歌 作詞:安藤専一 作曲:下総皖一(しもふさかんいち)

七郷小学校・七郷中学校の水道が完成する 1961年3月

   建設委員会を設置
 村【菅谷村、現・嵐山町】では、三十五年度事業として、七郷小中学校水道工事を実施するため、この程、水道建設委員会を作って、この推進をはかることとなった。委員は約二五名で、議会から、内田幾喜、長島実、青木高、坂本幸三郎、小林文吉、瀬山修治、栗原好三、杉田喜平、大塚光一、藤田正作、教育委員・田中昇、関根茂章、金子慶助、関根昭二、小林庚市、役場・小林博治、学校・権田正雄、小高正文、PTA・塚本智導、小林森久、その他、久保大八、初雁利次、馬場覚嗣、阿部富育の諸氏。必要に応じ常任委員を作る。
 初会合は二月中旬の予定。既報のように、この水道工事の水源については、昨年六月、東京の日本地下開発に依頼し、電探調査と、地層、地質の精査を行い、その結果、深度一〇〇米の井戸で、一日約二百トン(一一〇〇石)の湧出量を期待出来るという報告を得た。而して、之に要する経費は井戸掘りが約一五〇万円、水道工事が約一〇〇万円、計二五〇万円と見積られていた。
 その後、年末になり、埼大の森川教授が、地質調査のため本村に出張。この話をきいて、好意的に、地下水調査をしてくれることになり、一月はじめに、学生と泊りこみで、現在湧水のある地帯を中心に、九ヶ所に亘って試掘した結果、越畑南方の湧水は水源としての利用が可能であること、地下開発で調査した地点では、一〇〇米の井戸では予期の水量を得ることは困難で、おそらく、二五〇米以上の深井戸を必要とするであらうという結論を出した。
 尚湧水利用の場合、工事費は大体一五〇万円程度と見られている。
     『菅谷村報道』108号 1960年(昭和35)2月10日

   七郷小中水道工事
       長谷部組請負で着工
 七小中水道工事は、十一月十一日、午前、七郷小学校で現場説明会を行い、設計、仕様、入札規定を説明、十四日午前八時の入札の結果、東松山市の長谷部組が、一四八万三〇〇〇円で落札、一月二十日までの工期で、工事を始めることになった。
 工事の概要は、打越水源地に縦横深さ九尺の水槽を作り、この上に多段式タービンポンプを載せ、学校まで約一六〇〇米を、二吋(インチ)のパイプで送水する。
 工事は十一月二十二日起工式、材料の搬入をまって、十二月五日に貯水槽工事が開始され、続いて配管工事が始まる。尚配管工事には、七郷地区民が一戸一人宛、勤労奉仕することになっている。
     『菅谷村報道』117号 1960年(昭和35)12月15日

   水道落成式
 七郷小中水道落成式は、三月七日午後七小で行われ、村議、水道委、請負長谷部、設計大川氏等列席、村長式辞、田中建設委員長他の祝辞があって、祝賀会に入った。
     『菅谷村報道』120号 1961年(昭和36)4月15日

 →「七郷小学校・七郷中学校の水源調査 1959年

七郷小学校・七郷中学校の水源調査 1959年

   [解説]七郷小中学校の水源調査
             教育長 金子慶助
 七郷小中学校の水不足は久しく地域の人々の悩みの種子であるが、近代学校教育の上では、飲料水のみでなく各種の実験をはじめ水を多量に要することは、とても昔の比ではない。村当局や議会でも夙(つと)にこの必要を認め村教育委員会や両校PTAの要望を容れて先ず給水設備の第一段階として、その水源の探索にのり出すことになり、昨年度の当所予算にその経費を計上された。
 さてその方法であるがそれには電探法に地下水源の調査がよかろうということで、いろいろ検討した結果、昨夏旱天の際各地で活躍好評を博した県立川越農業高等学校の農業土木科の技術陣に依頼することになった。電探法は地中に電気を通じその抵抗値(単位はオーム)を記録しこれを曲線グラフで表わし判断する方法で今回は地下三十米まで測った。
 元来硬い岩石は抵抗が大きく水は小さいから深さに応じてこのオームを曲線で表わせば、何米下に水があるかを知ることができる。
 しかし夏秋の頃は作物の関係もあり又地表に水が多いので、晩秋から冬季の方が測定に便利であるし晴天続きのときが望ましいので調査は第一回を二月十五日、第二回を三月二十九日に行い、学校附近を中心として合計一〇ヶ所について行ったが、越畑金泉寺裏で、次は七郷農協の井戸附近でといふことになった。
 金泉寺裏井戸附近は地表に湧水もあるが、四米に厚さ約三米の帯水層があり、その下四米は硬い層でその下に又帯水層があるから十三米の深さの井戸でよいが、その下の帯水層も取り入れて二十五米の井戸なら極めてよい。
 又農協井戸附近は地下約四米に厚さ四米の帯水層があり、その下七米は硬い地層でその下に又二米の帯水層がありその下又七米の硬質層があってその下に二米の厚さの帯水層があり、ここまで掘れば約二十四米の井戸となる。
 其他小学校前の谷間中学校西県道下墓地附近(四ヶ所)加須川【粕川】合流点榎の木附近等を測ったが、いずれも下になるほど、帯水層になるが、これを受ける硬い層がないため、井戸としては見込がないとのことであった。
 この調査にあって、唯一心に精密な測定された松本、大沢両先生、これに協力された四名の川農高菅谷分校の生徒諸君、並に七郷小中学校の校長教頭はじめ諸先生にお礼申しあげると共に、立入りを快諾された地主各位に感謝してやみません。
 この水源調査の結果は、当初の希望予測とは程遠いものである。将来一〇〇〇人にも及ぶ学校児童生徒の給水源は如何にすべきかの、問題は又別な課題である。
     『菅谷村報道』98号 1959年(昭和34)4月15日

   七郷小中水源調査協議会
 七郷小中学校の給食については、先頃一応水源の調査をしたので、その結果を検討し更に今後とるべき方策について、土地の状況に詳しい地元の異見をきくため、同地区選出の村会議員をはじめ、吉田、越畑両区長、同地区出身教育委員、七郷両校PTA代表、同小中学校長、教頭、それに村議会議長、助役が加わって、四月三十日午前十時から村長主催による協議会が開かれた。
 まず村長の開会の趣旨説明のあと、教育長から水源調査の結果を、図表により説明、報告が行われ、ついで参会者から活発な質疑、異見の発表があり、それについて種々討議が行われた。いずれも建設的な意見で、地元民のこの問題に対する熱意を代表するものであった。協議の結果、左の如き申合せをして正午すぎ散会した。
 一、水源調査を更に左の地点で行うこと
   農協附近、吉田田辺愛作氏宅附近、越畑青木操氏附近、越畑清水谷
 二、自衛隊の作井技術を利用すること
 三、給水設備の完成機の目標を今年度中とすること
 尚この会合はこれを第一回とし、度々集って意見の交換をすることを申合せた。
 因に其の後この申合せによって、村長がその筋によって調査したところによると、自衛隊にはさく井技術の部隊が存在しないことが判明した。
 然し県当局によって水源の給水量の測定、仝設備の設計等に当る技術者の紹介をするという確約を得た。(金子)
     『菅谷村報道』99号 1959年(昭和34)5月15日

   七郷小中水源調査
       一日に一一〇〇石出る
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 既報、七郷小中水源調査は、東京の日本地下開発に依頼し、六月七日電探調査を実施した。当日は会社から東大講師の山本荘毅博士が出張、電探の外、附近の地層、地質を精細に調査した。その結果、同博士の報告は、小学校の東側を試掘することが最適で、湧水量は十吋(インチ)パイプ、深度一〇〇米で一日二〇〇トン(一一〇〇石)が期待出来るという。従って児童生徒その他一〇〇〇人としても一日【一人】一石一斗となるから、標準量、一人一日七斗五升をはるかに超えることになり、これに成功すれば、長い間の「水」の問題は解消することになる。
 尚工事費は一尺当り四〇〇〇円、一〇〇米で一三二万円になる。(既報の一三二〇万円は誤り)
     『菅谷村報道』101号 1959年(昭和34)7月10日

 →「七郷小中学校の水道が完成する 1961年3月」
 →「七郷小中学校水道敷設誌 七郷小学校長・藤野秀谷 1952年

七郷小中学校水道敷設誌 七郷小学校長・藤野秀谷 1952年

   比企郡七郷村 学校水道敷設誌
     第一節 難問題解決えの苦慮
     第二節 工事遂行の努力
     第三節 竣工の歓喜

第一節 難問題解決えの苦慮
 本村【七郷村、現・嵐山町】学校の敷地内には五つの井戸がある。何れも期待は裏切られて、水の出るものは一つもない。雨水を井戸に貯え、之をその儘飲料水とし、乾天続きの際は家庭より壜に水をつめて学校え持参する。更に附近の人家えかけこみ、井戸端に群がつて貰ひ水をする。小使や当番は毎日校門前の坂道を十数回も往復して、農協から水を運搬する。全く悲惨の極みである。こうした状態が四十年間も続いたのである。
 昭和二十五年(1950)三月十三日、七郷小学校創立四十周年記念祭が催された。この委員会では、記念事業として学校水道を敷設し、従来水に悩んで来た難問題を、一挙に解決すべく委員長杉田政之助氏を中心にその研究を進めたが、適当な水源を求むるに難く、工事費が予想以上に多額を要する為に、到底実現は困難であるとの結論に達した。
 学校PTAも亦この問題を重視して、昭和二十六年(1951)三月委員会の決議にもとづき、会長大沢賢司氏は村当局に陳情書を提出してその実現を要望した。村民一般の与論も日増しに高まつていつた。
 仝年(1951)三月役場・学校・村会・PTA等の代表者が会合して、先づ近隣の小中学校を視察することとし、直ちに水道施設その他の環境設備の研究を実施した。その結果一層教育の重要性を痛感し、早速県より専門技師の派遣を申請して、測量・設計等の基礎資料を依頼することになつた。
 松山保健所長高橋暉良殿は、つとに本村保健衛生の見地、並に本県稀に見る七郷小中学校の欠水状況を憂え、種々指導助言を与えられて来たが、水道工事の機運到来を機会に、県衛生部の直接指導を懇請されたのである。
 仝年(1951)六月県公衆衛生課長中村広夫殿並に水道係長西原重義殿は、非常なる同情と熱意とをもつて来村され、学校附近の井戸をくまなく調査し、水道工事に関する測量を行つた。その結果水源の貧弱なこと、且つ相当難工事であることが認められ、翌七月日本鑿泉並に昭和水道の二大ボーリング会社より、夫々二名の技師を招いて之を鑑定させたが、本村は全域にわたり厚さ六五〇米の凝灰岩層より成り、地下水の湧出は絶望であることが判明された。西原技師は止むを得ず地上水を貯える井戸を水源とし、之に濾過滅菌装置を伴う模範的な簡易水道の設計を考案、八月にその設計書が作製された。
 然し乍ら、この実現に当つては寔に多額の経費を要する為に、本村財政の現状からは非常に困難な状態にあり、茲に県当局に対し、補助金申請に関する陳情書が提出されたのである。

第二節 工事遂行の努力
 以後水源の位置に関し一層研究する必要を感じ、十月各部落より水道準備委員を選出し、村民一般の与論を確認して先づ井戸の試掘を開始することになつた。場所を中学校裏の山下一、九六九番地と定め、松山町磯田ポンプ商会が請負ひ、村民の協力奉仕により之を実施したところ、幸にして貯水量も有望視されるに至つた。
 この時に当り、中村衛生課長は本工事促進について種々心配され、特に課長の懇請により、県衛生部長金井進殿が直接来村の上、つぶさに現状を視察することになつた。部長は児童生徒の保健衛生並に之が及ぼす公衆衛生えの影響を憂慮し、更に小■村の財政上から、県費補助の必要性を痛感され、民主政治の本旨に則り、之を予算化すべく強力に県知事に申言されたのである。大沢知事も金井部長の熱意に共鳴され、敢て之を定例県会に提出、昭和二十六年(1951)十二月県費貮拾万円を補助することに議決されたのである。
 この間、村長内田幾喜(ひさよし)氏村会副議長坂本幸三郎氏は、水道施設国庫補助に関する法律の改正につき、県会議長・金井部長・中村課長等と同伴して、厚生省並に大蔵省に陳情すること前後三回、終に改正案は国会を通過したのであつた。
 補助金規定の上からも、又学校水道といふ点からも、恐らく前後にその例を見ないであろうこの問題に対し、献身的に盡力され、本村の窮状を救はれたことは、本村として永久に忘れることの出来ない處であり、県衛生部に対し慎んで敬意と感謝の念を表する次第である。
 次いで愈々本格的な工事を開始すべく、昭和二十七年(1952)一月村長より埼玉県知事に、七郷村簡易水道敷設工事認可申請書が提出され、之に対し二月十五日付を以て申請通り認可されたのである。
 かくして部落・村会・PTA・役場・学校等より夫々委員が選出され、五十名の水道工事実施委員会を組織し、内二十二名の常任委員を依嘱、委員長は村長内田幾喜氏、副委員長には村会議長青木義夫氏並に栗原侭一氏を推して、二月関係業者七名の入札が行はれた結果、松山町長谷部信治氏の落札するところとなつた。契約日は昭和二十七年(1952)三月十二日、金額六拾五万壱仟参百円、工期は三月十五日着工、五月二十日竣工と決定したのである。
 井戸の敷地については、所有者松本松平氏の奇特なる好意によつて村有地となり、送水管理設箇所の桑園山下一、九五五番地の所有者松本正作氏は、所要面積約二十坪を永久に村え無償貸与されることになつた。濾過貯水槽の位置に当る宋心寺所有の山林に関しては、当該檀下総代各位の盡力があり、尚井戸堀鑿土の処理については松本銀三氏が特に協力される等々、地元関係諸氏の涙ぐましい好意に対しては寔に感激にたえないところである。
 請負業者の側では、契約後直ちに資材の準備に取りかゝり、工事主任坂本幸三郎氏、副主任荻山忠治氏、田中隆次氏の熱意と努力のもとに、三月二十四日先づ配管及貯水槽の工事より開始された。四月に入り雨天が多かつたとはいえ、村民は連日十数名づゝ交代で人夫に出動し、業者の誠意に深い感銘を寄せ、業者側も亦村民の協力一致に共鳴しつゝ、作業は着々順調に進行して行つた。かくて五月十三日には送水管七五米、配水管一七七米、給水管一七五米、合計四二七米の配管埋設を終り、濾過池三平方米一面、及び配水池容積八屯一面の築造工事は一段落を遂げた。時に再建日本発足の折とて、濾過池東側面に「講和発効記念」と記銘されたのである。
 一方井戸枠鉄筋コンクリート工事が四月十日より開始され、直径二米高さ一米のもの十一個が五月二日には仕上げられた。引続き井戸掘鑿作業に移り、五月八日以降全力を傾注して行はれたが、雨天の日多く、山崩れが三回あり、職人二名が軽傷を負うという状況で、予想以上に難工事の為、竣工予定五月二十日に至るも到底終了することを得ず、加うるに農繁期に入り村民の出動も困難となつた為、委員会に於ては、業者との交渉委員に正副委員長並に田畑周一氏、市川半衛氏を依頼し、種々接渉の結果、村民の出役は五月末日を以て中止し、七月一日以降は業者側のみで一切を進行することになつた。
 之より先、電気工事に関し、副委員長青木氏の盡力により、関東配電小川営業所に連絡して外線工事を、内線工事は宮前村小沢氏により共に終了、単相一馬力深井戸ポンプの据付を待って、揚水試運転を実施したのは六月二十八日であつた。七月五日中村課長殿と西原技師が来村、工事の状況を視察し、更に完成に対する種々の指導助言を与えられた。

第三節 竣工の歓喜
 其の後井戸周囲の整地、滅菌装置及濾過池の金網取付、鉄管故障修理、小屋二棟の塗装等、最後の仕上げが行はれて、九月一日常任委員会に於て、愈々竣工式挙行の打合せがなされ、その日を九月十日と決定したのである。この間本工事委員会の書記として、或は事務に或は連絡に、終始全力を傾注された安藤義雄氏の功績も亦特筆されなければならない。
 因みに本工事総決算額は金八拾六万壱仟壱百拾四円八拾銭
  右内訳    請負金   六五万一三〇〇円也
         追加工事金 一四万三五三九円也
         雑支出    六万六二七五円八〇銭
  村民出動人夫  延 九八六人
  一月以降九ヶ月間の委員会開催 十一回
 本工事着工以来竣工まで約五ヶ月、水源井戸の試掘開始以来約十一ヶ月、更に小学校四十周年記念祭に発議されて以来約二ヶ年半を経過し、茲に漸く待望の水道工事は落成されたのである。
 かつては「水なし学校」の珍名をうたはれた七郷校も、今日漸く水の便に恵まれて、約一千の学童の歓喜は云うまでもなく、彼等の父兄否全村民の嬉しさは例えようがない。学校教育今後の充実振興に対し、画期的な一大事業であると共に、更にこの施設が本村保健衛生上に及ぼす効果は甚大であり、既に本村夏季の伝染病発生は、従来に比較して急激に減少して居る状況である。寔に本村沿革誌上の一大記録といふべきであろう。
 終りに臨み、この計画遂行に当り、県衛生部の熱意ある御指導、松山保健所の親切なる御援助、長谷部組の犠牲的な御努力、並に全村民の協力一致、関係役職員の絶大なる労苦に対し、甚大なる感謝の誠を捧げる次第である。
   昭和二十七年(1952)九月十日 竣工式に臨んで
                     七郷小学校長 藤野秀谷

大塚基氏編「ある夏休みのことです」(1994年12月発行)目次(更新)

昭和30年代半ばの七郷中学一年生の作文集です。嵐山町柔道会の七郷柔道場創設(1974年12月17日)20周年記念として発行されました。

はじめに(大塚基氏)

目次

1 草むしり ゆりこ

2 私の一日 えみこ

3 花火 みちえ

4 草むしり ゆりこ

5 夏休みの一日 ともこ

6 夕飯たき かずこ

7 仕事 えいこ

8 花火 みちこ

9 花火 とく

10 台風のくる日 あきこ

11 ぶちの死 きぬえ

12 約束 みちこ

13 草とり えつこ

編集後記(大塚基氏)

七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号が発行される 1955年

   七郷中学校生徒会広報部『七中広報』1号
          発行責任者:好田勇 1955年(昭和30)5月21日

  目次

新村菅谷村誕生に際して 安藤専一

新聞発刊を祝して PTA会長・安藤義雄

生徒会長に小林君選ばる

小林峰久生徒会長挨拶

遠足

花まつり

募金状況の報告

部会球技祭決る!

運動部の活躍
 排球部準優勝す 学徒総合体育大会郡予選
 野球部 ソフト部 排球部 篭球部 卓球部

開校記念日球技大会
 越畑・杉山優勝す

各運動部の本年度の希望
 野球部 排球部 篭球部 卓球部 競技部 ソフト部

玉淀 三の二 権田秀雄

俳句
 千野ケイ子 小林久子 千野紀代子 安藤哲男 市川とく
 栗原明子  内田昭三 小沢勝

嵐山 二年 新井のぶ

岩殿 一年 権田ちか子

俳句
 奥田宝作 荒井直久 永島敏男 安藤常子 金子大作
 田中幸男 千野紀代子 内田慶子 永島重信 飯野波征
 田中巻子 永島三子 権田みよ子 小久保一徳 馬場治子
 前田天津子 栗原明子 田村伊勢治 藤野和子 島田一義
 権田秀雄 田島光男 千野ケイ子 金子房恵


 三の一 高田徳江
 三の二 飯島俊枝
 三の一 早川愛子
 二年  松本秀子

笑話
 三年 小林喜美子
 二年 高木正好

おわび
 みなさまからたくさんの原稿を、いただきましたが、紙面のつごうで、全部のせられないことを、深くおわび申し上げます。 係り

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