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七郷小学校

古い写真 七郷小学校2年生 1940年

七郷尋常高等小学校尋常科2年生
中村文雄家03
1940年度(昭和15)2年生

古い写真 七郷小学校1年生 1939年

七郷尋常高等小学校尋常科1年生
中村文雄家01
1939年度(昭和14)1年生

嵐山町の桜 七郷小学校 2008年4月11日

嵐山町立七郷小学校

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6249〜6251パノラマ

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2008年4月11日撮影

嵐山町の桜 七郷小学校(吉田) 2010年4月10日

嵐山町立七郷小学校
(嵐山町大字吉田字鶴巻)

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2010年4月10日撮影

嵐山町の桜 七郷小学校(吉田) 2009年4月6日

嵐山町立七郷小学校(嵐山町吉田)
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2009年4月6日、井島宏さん撮影

教育功労者事蹟調書より 7 初雁利一 1923年

●三十年以上勤続教員事蹟概要より
 三十年以上勤続者
   七郷尋常高等小学校訓導 初雁利一
               明治6年(1873)2月27日生
一 小学校教員勤続年数 満33年8ヶ月

在職中ノ事蹟概要
一 七郷第一尋常小学校長トシテノ在職中ノ事蹟
 1 女子補習学校ノ附設(比企郡ノ嚆矢ヲナセリ)氏ハ女子教育ノ必要ヲ認メ明治三十七年(1904)十二月本村小学校ニ女子実業補習学校ヲ附設シ鋭意内容ノ向上ニ努力セルノ結果成績顕著ナルニ至リ隣村ハ勿論大里郡男衾村等ヨリ数名ノ通学生ヲ見ルニ至レリ。
 2 明治三十七、八年戦役ニ際シ出征軍人ノ慰問家族並ニ戦病死者遺族ノ慰藉ニツトメタルニヨリ県知事ヨリ金拾円賞与セラレタリ。
 3 平素職務ニ誠実勤勉ニシテ児童教授訓練ノ成績特ニ顕著ナルニヨリ明治四十一年(1908)十月三十一日本県知事ヨリ金参拾円賞与セラレタリ。
 4 明治四十三年(1910)四月(建坪二七二坪 経費八千円)建築ニ際シ管理者ヲ助ケテ新築ノ機運ヲ進メ経営画策良シキヲ得テ完全ナル校舎ノ竣工ヲ見ルニ至リタルモ洵(まこと)ニ献替(けんたい)スルトコロ大ナリトイウベシ。

ニ 首席訓導トシテ在職中ノ事蹟
 1 同郡八和田小学校在勤中克ク校長ヲ助ケテ教授訓練ノ達成ニ勉メ顕著ナル改善ノ事蹟ヲ認ムルニ至リシモノ氏ノ頭脳明晰ニシテ職務ニ忠実ナルノ致ストコロト云府ベキナリ。
 2 本校在職中備品ノ購入ノタメ特別寄附募ノタメ村内有志ヲ訪問シ数百円ヲ得テ理化器材ノ購入ヲナシ教授上遺憾ナキニ至リシハ同氏ノ功大ナリトイフベキナリ。
 3 明治四十三年(1910)新築セル校舎ハ漸次児童ノ増加ト共ニ狭隘トナリシヲ以テ大正七年(1918)遂ニ村内有志ヲ説キテ増築四教室(建坪九七 経費八千円)完成スルニ至リシ者同氏ノ力多大ナリトイフベシ。
 4 大正九年(1920)九月御真影奉置庫建設ニ際シ当事者ヲ助ケテ荘厳ナル奉安殿ノ設置ヲスルニ至リシモノ又氏ノ直接間接ノ功労多大ナリトイフベキナリ。
 5 氏ハ性誠実勤勉毎朝始業一時間前ニ出勤シ能ク教授ノ準備ヲナシ放課後熱心ニ教授案ノ製劣等児童ノ特別扱、中学校入学準備ヲナス等実ニ模範トスベキ訓導ナリ。

   履歴書より
      七郷尋常高等小学校訓導 初雁利一
               明治6年(1873)2月27日生
   学業
明治20年(1887)3月 小学校卒業
同 22年(1889)1月 小学校受業生試験合格
同 25年(1892)8月31日 鈴木栄造氏ニツキ代数幾何講習ヲ終了ス
同 29年(1896)12月3日 尋常小学校本科正教員試験検定合格
同 30年(1897)8月21日 本県私立教育会主催物理化学講習終了
同 31年(1898)8月14日 大里郡教育会主催教育体操講習喜源次、宮田伊佐吉
同 38年(1905)8月23日 本県師範学校開催博物物理化学講習終了
同 39年(1906)8月8日 松井祥助氏ニツキ普通体操科講習終了
同 40年(1907)8月24日 博物算数地理講習終了本県主催
同 40年(1907)12月6日 小学校本科正教員試験検定ニヨリ国語科成績佳良
同 41年(1908)3月30日 同 教育漢文博物科成績佳良
同 41年(1908)8月6日 同 地理科成績佳良
同 41年(1908)8月20日 本県主催国語歴史物理化学科講習終了
同 41年(1908)12月29日 比企郡教育会主催明治歴史書方講習終了
同 42年(1909)12月30日 比企郡教育会主催小学校体操遊戯ノ理論及実際講習終了
同 43年(1910)8月12日 比企郡教育会主催手工科講習終了
同 同年同月同日 本県師範学校主催音楽科講習終了
同 43年(1910)12月29日 比企郡教育会主催小学校理科教授法ニ簡易理化器械製作法講習終了
大正2年(1913)1月6日  本県師範学校主催音楽科講習終了
同 3年(1914)12月25日 東京高等師範学校付属小学校内初等教育研究会主催冬季講習会終了
同 4年(1915)12月30日 同上
同 5年(1916)12月27日 本県主催複式教授法並ニ教授上ノ注意講習終了
同 7年(1918)12月29日 初等教育研究会主催冬季講習終了
同 8年(1919)8月6日  理科教育研究会主催夏期講習会終了
同 9年(1920)8月6日  同上
同 10年(1921)8月6日  同上
同 11年(1922)8月7日 児童教育研究会主催夏期講習会終了

   職務
明治21年(1888)6月 榛沢郡第十二学区黒田学校傭員拝命
同 22年(1889)2月 同校授業生拝命
同 22年(1889)7月 同郡第二学区花園学校受業生拝命
同 26年(1893)6月 同校准訓導拝命
同 30年(1897)5月17日 大里郡花園尋常小学校訓導拝命
同 32年(1899)6月12日 比企郡第一七郷尋常小学校訓導拝命
同 33年(1900)11月22日 同校校長ニ任ゼラル
同 34年(1901)5月6日  病気ニヨリ休職ヲ命ゼラル
同 35年(1902)5月5日  復職ス
同 38年(1905)4月13日 比企郡七郷実業補習学校長兼任
同 42年(1909)4月1日  比企郡七郷尋常小学校訓導ニ任ゼラル
同 42年(1909)12月1日 比企郡七郷村立実業補習学校訓導ニ任ゼラル
同 43年(1910)6月30日 比企郡八和田尋常高等小学校訓導ニ任ゼラル
同 44年(1911)12月5日 比企郡八和田村立八和田実業補習学校訓導ヲ兼任
大正4年(1915)3月31日 比企郡七郷尋常高等小学校訓導ニ任ゼラル
同 5年(1916)3月1日  比企郡七郷実業補習学校訓導兼任

   賞罰
明治33年(1900)2月 勅語謄本紛失ノ件ニツキ譴責(けんせき)ヲ受ク
同 40年(1907)5月7日 明治二十七、八年戦役中特ニ職務ニ勉励シ其ノ成績佳良ナルヲ以テ金拾円賞与セラル
同 41年(1908)10月31日 誠実勤勉其ノ成績顕著ナルヲ以テ本県知事ヨリ金参拾円賞与セラル

   其ノ他ノ事蹟
明治29年(1896)10月31日 本俸百分ノ十五ノ年功加俸給与
同 30年(1897)5月30日 本俸百分ノ十五ノ年加俸ヲ給与
同 34年(1901)7月8日  年功加俸年額二十四円給与
同 41年(1908)3月20日 比企郡教育会特別会員ニ推薦セラル
同 43年(1910)12月18日 同会ヨリ小学校ニ従事スルコト二十一年以上ナルヲ以テ表彰セラル
同 同年(1910)同月同日  同会ヨリ郡内小学校教育ニ従事スルコト多年功績顕著ナルヲ以テ表彰セラル
同 44年(1911)9月30日 三級増加加俸給与
 
   初雁利一の履歴書について補足説明
 「三十年以上勤続教員事蹟概要」に付記されている初雁利一の履歴書に克明
な学業、職務、賞罰などが書かれている。その中のいくつかについて説明して
おきたい。
1 学業と職務の項を一つ流れの中で年代順に見ると、
 明治二十年(1887)三月小学校卒業。
 同二十一年(1888)六月榛沢郡第十二学区黒田学校傭員拝命。
 同二十二年(1889)一月小学校授業生試験合格。
 同二十二年(1889)二月黒田校授業生拝命。
 二十六年(1893)六月花園学校准訓導拝命。
 二十九年(1896)十二月三日尋常小学校本科正教員試験検定合格。
 三十年(1897)五月十七日花園尋常小学校訓導拝命。
 三十二年(1899)六月十二日比企郡第一七郷尋常小学校訓導拝命。
 三十三年(1900)十一月二十二日同校校長ニ任ゼラル
となる。
 明治政府は1872年(明治5)に「学制」を定めて近代的な学校教育に取り組むことになり、小学校教員は「師範学校卒業免許或ハ中学免許ヲ得シモノ」と定めたが、現実にはそのようにならなかった。資格の前に量的に教員の確保が急務であった。埼玉では明治11年(1878)1月「埼玉県学事通則」を定め、教員を、訓導(1〜5等)、訓導補(1〜5級)、授業生(1〜5級)、助教生に分け、訓導は師範学校卒業者、訓導補と受業生は教員志望者のなかから試験によって任用することにした。
この「通則」にそって初雁利一の場合を見てみる。明治六年(1873)に生まれた初雁利一は、小学校を卒業して先ず傭員として小学校に就職して、次に授業生試験に合格して教員になり、次に准訓導、そして尋常小学校本科正教員試験検定合格して訓導に、つまり師範学校卒業者と同じ訓導になり、2校目で七郷第一小学校に転勤し、明治三十三年(1900)十一月に同校の校長に就任したことが分かる。学業をみると教科ごとの講習会や試験などが頻繁に行われていたことがうかがわれる。なお、文中の「准訓導」とあるのは「訓導補」に相当するものと思われる。この履歴をみると明治から大正時代にかけて三十年間勤続者した教員の採用から校長への具体的な経歴や研修の状況、そしてそれに取り組んだ熱心な教員の姿が伝わってきて、非常に貴重な記録になっている。
2 賞罰の項に「明治33年(1900)2月 勅語謄本紛失ノ件ニツキ譴責ヲ受ク」と記されている。戦前の時代に「勅語謄本紛失」となると大変なことであったと思われるが、そのときは訓導の立場であった。その年の十一月にその学校の校長に就任していることを考えると、譴責された責任者は別にいたのだろうか。あるいは御真影と教育勅語の保管が厳しくなり、奉安殿の建設がなされるのはもう少し後の時代なので、まだ時代的に譴責だけですんだのだろうか。

教育功労者事蹟調書より 5 藤野文八 1923年

●学務委員在職中ノ事跡概要より
 学務委員満二十ヵ年以上ノ勤続者
      七郷村 藤野文八

学務委員勤続 満25ヶ年9ヶ月
村会議員勤続 満34ヵ年
村長勤続   満2ヵ年4ヶ月

学務委員勤続中の事蹟概要
1 校舎新築(建坪二七二坪 経費 八千円)
2 通学道路ノ改築 (当時村長)
3 校舎増築
4 御影奉置庫ノ設置 「県下第一ノ建築ナラン」
5 就学出席ノ督励
6 運動場拡張

 5以外の項目は久保三源次の事蹟項目と同じ。

   藤野文八履歴書より
      比企郡七郷村大字吉田四拾壱番地
        藤野文八 文久元年(1861)4月4日生
一 学務委員 明治16年(1883)6月16日から明治28年(1895)3月18日
       明治33年(1900)4月12日から同41年(1908)5月26日
       大正6年(1917)4月23日から現職。
一 村長   明治27年(1894)4月23日から同28年(1895)6月21日
       明治42年(1909)1月27日から同43年(1910)1月18日
一 村会議員 明治22年(1889)4月24日から34年間勤続。
一 郡会議員 大正4年(1915)9月30日から大正8年8(1919)9月29日まで。
一 小学校校舎新築委員 明治42年(1909)3月10日就任、同43年(1910)12月竣工退任。
       大正7年(1918)9月校舎増築の建築委員、同8年1919)4月竣工退任。
一 道路委員 明治41年(1908)11月就任、同43年(1910)12月竣工退任。
一 御影奉置庫新築委員 大正9年(1920)9月20日就任、同10年(1921)2月退任。
一 賞    明治44年(1911)4月19日 小学校建築ノ功労ニヨリ埼玉県ヨリ木杯一個授与セラル。

教育功労者事蹟調書より 4 井上萬吉 1923年

   学務委員在職中の事蹟概要より
 学務委員について最初に説明しておく。学務委員は1879年(明治12)第一次教育令によって設置された区町村の教育行政事務担当吏員で、県令の監督の下に児童の就学、学校の設置保護など町村の学校事務を管理した。この学務委員は「其町村人民ノ選挙」によって選ばれた。しかし翌年の第二次教育令で「定員ノ二倍若クハ三倍ヲ薦挙シ府知事県令其中ニ就テ之ヲ選任」と改められ、戸長が学務委員に加わることになった。1885年(明治18)の第三次教育令では学務委員は廃止され、戸長が其の業務を兼任することになったが、1890年(明治23)の小学校令(第二次)により学務委員が改めて設置された。これは市制・町村制に基づく常設委員で、市町村に委任された国の教育事務についてその長を補助するものと定められた。ここで紹介する学務委員はこの段階の学務委員で、小学校長や元町村長・元町村会議員などが選任され、市町村の小学校事務執行にあたり、重要な役割を果たした。戦後1947年(昭和22)に廃止されるまで続いた。

●学務委員満二十年以上ノ勤続者
      七郷村 井上萬吉
        弘化三年(1846)六月二十二日生
学務委員勤続 満23年3ヶ月
村会議員   満16年3ヶ月
村長     満1ヵ年

学務委員勤続中ノ事跡概要
1 校舎新築
2 通学道路の改築
3 校舎増築
4 御影奉置庫の設置
5 就学出席の督励
 「就学出席ノ督励ニ就テハ多年熱心ニ尽力シ学校教育遂行上遺憾(いかん)ナキニ至レリ」と記されている。学齢児童の就学督促は学務委員の重要な仕事であった。
6 運動場拡張
 以上の5以外の項目以外は、久保三源次の事蹟項目と同じ。


   井上萬吉履歴書より
      比企郡七郷村大字広野52番地
        井上萬吉 弘化3年(1846)6月22日生
1 学務委員  明治28年(1895)3月19日から大正6年(1917)4月21日までと、
        大正10年(1921)7月28日から現職。
1 村長    明治40年(1907)5月1日から同41年(1908)4月6日(病気で退職)
1 村会議員  明治22年(1889)4月から同年6月(1917)14日
        明治28年(1895)3月25日から同34年(1901)3月25日
        明治37年(1904)4月4日から同43年(1910)4月3日
        大正6年(1917)4月4日から大正10年(1921)以後現職。
1 学区会議員 明治28年(1895)3月3日本村第二学区会議員に、明治40年(1907)4月5日退任。
1 中学校校舎建築委員
        明治42年(1909)3月10日建築副委員長。同43年(1910)12月竣工で退任。
        大正7年(1918)9月校舎増築で建築委員。同8年(1919)4月竣工で退任。
1 御影奉置庫新築委員
        大正9年(1920)9月20日から同10年(1921)2月退任。
1 賞     明治三十五年(1902)三月二十八日第二七郷尋常小学校学務委員トシテ勤労甚大ナル故ヲ以テ第二学区内一同ヨリ感謝状及木杯壱個ヲ贈呈セラル。
        明治四十四年(1911)四月十九日小学校校舎建築ニ付キ功労尠カラザル故ヲ以テ埼玉県ヨリ木杯壱個ヲ授与セラル。
        明治四十三年(1910)十二月十八日小学校校舎築造ニ関シ功労多大ナル故ヲ以テ比企郡教育会ヨリ表彰セラル。

教育功労者事蹟調書より 3 田畑馬作 1923年

●教育功労者 七郷村 田畑馬作
村会議員 満15年6ヶ月
学務委員 満10ヵ年
村長   満 1ヵ年

村会議員・学務委員勤務中の事蹟
1 校舎新築(建坪二七二坪 経費八千円)
2 通学道路ノ改築
3 校舎ノ増築
4 御影奉置庫ノ設置
5 運動場拡張(四反歩)(経費一千百円)
 以上の事蹟項目は久保三源次のものと同じ。

   田畑馬作の履歴書より
      比企郡七郷村大字勝田37番地
        田畑馬作 明治元年(1868)一月一日生
一 村会議員 明治40年(1907)4月から 現在議員在職中。
一 学務委員 明治30年(1897)4月から同40年(1907)4月
       大正10年(1921)7月から在職中
一 通学道路改築委員 明治41年(1908)11月から同43年(1910)12月竣工まで。
一 小学校校舎新築委員 明治42年(1909)3月10日から同43年(1910)12月竣工まで。
       大正7年(1918)9月校舎増築で委員に。同8年(1919)4月竣工まで。
一 御影奉置庫新築委員 大正9年(1920)9月20日から同10年(1921)2月竣工まで。
一 村長   明治43年(1910)5月6日就任。44年(1911)5月病気退職。
一 賞    明治44年(1911)校舎新築の功労として埼玉県より木杯一組授与される。
       同年 校舎新築の功労として本郡教育会より表彰される。

教育功労者事蹟調書より 2 中村清介 1923年

●教育功労者 七郷村 中村清介
村会議員 満22ヵ年間
学務委員 満8ヵ年
村長 満3年6ヶ月

村会議員・学務委員勤続中事蹟
一 校舎新築
二 通学路ノ改築
 以上の事蹟項目は久保三源次の項目と同じ。

   中村清介の履歴書より 
      比企郡七郷村大字古里
        中村清介 嘉永六年(1853)九月二十日生

村会議員 明治22年(1889)4月から同37年3月。
     明治40年(1907)4月から43年3月。
     大正6年(1917)4月21日から■年4月4日まで。 
学務委員 明治42年(1909)4月1日から大正6年(1917)4月21年まで。 
村長   明治32年(1899)10月24日から同36年(1903)3月10日まで。

教育功労者事蹟調書より 1 久保三源次 1923

   埼玉県の行政文書の中に、七郷村役場から提出された明治後半期の教育功労者の記録が「事蹟調書」あるいは「事蹟概要」として残されている。ほとんどが村長、村会議員、学務委員、あるいは三十年以上勤続教員として教育の発展に関わった人たちである。明治後半期の教育の状況を知ることが出来るので、その事蹟内容を紹介したい。

●教育功労者 七郷村 久保三源次
村長 勤続満7ヵ年11ヶ月
村会議員 勤続満21ヵ年6ヶ月

村長・村会議員在職中ノ事蹟
一 実業補習学校ノ設置(比企ニ嚆矢ヲナセリ)
 「明治三十六年(1903)四月村長ニ就職スルヤ大(おおい)ニ女子補習教育ノ必要ヲ認メ明治三十七年(1904)十二月本村小学校ニ女子裁縫補習学校ヲ附設セリ(当時本郡中ニハ補習学校ヲ附設セラレタル町村ナシ)爾来鋭意内容ノ向上発展ニ努力セルノ結果ハ隣町村ニ其ノ成績ヲ認メラルルニ至レリ。然リ而、之レ等町村ヨリモ入学生ヲ見ルノ盛況ヲ呈スルニ至リシナリ。就中大里郡男衾村ヨリ数名ノ通学生ヲ有スルニ至リシハ頗ル快事トスルコトナリ。之レ畢竟(ひっきょう)スルニ同氏ガ補習教育ニ対スル熱心ナル誠意ノ表現セルモノナリト云フベキナリ。

二 小学校基本財産積立条令ノ設定
 氏ハ村長在職中小学校教育ノ基礎ヲ強固ニセンガタメ基本財産貯積ノ必要ヲ認メラレ、遂ニ明治三十七年(1904)十二月村条令ヲ設定シ之レガ蓄積ノ方法ヲ講ジタリ。爾来十数年村条令ノ継続実施ニヨリ貯蓄現在高金壱千五百五拾壱円トナレリ。

三 1 校舎新築(建坪二七二坪)(経費八千円)
  2 通学道路改築(延長八千七百六十四間 経費一万三千九百七十六円)
 七郷尋常小学校は1894年(明治27)に第一、第二七郷小学校に分かれていたが、当時の七郷村の状況について調書では、「地勢狭長ニシテ児童通学上甚ダ不便ナリシハ勿論、雨天ノ場合ハ道路泥濘(でいねい)【ぬかるみ】ニシテ児童通学ノ困難ヨリシテ、学区ヲ制定南北ニヨリテ児童就学ノ便ヲ図リタルコト数年ナリキ。然ルニ一村二校ノ教育ノ進展上遺憾アルヲ確信セル氏ハ村内有志ヲ説キテ二校ノ統一並ニ通学道路ノ改築等ヲ村長在職中提唱セリ」と述べているが、この村長は久保三源次のことである。
 この提唱については「将来を達観」したものと賛同する者と「暴論として反対する者」でまとまらなかった。しかし村の将来は「斯クナカルベカラズ」と確信した久保三源次は同志を訪問して機運の促進を図ったが、明治37年戦役【日露戦争】の勃発で一時中止。明治41年に日夜奔走して遂に「明治四十一年(1908)四月、新築校舎八教室、
 其他付属物建築費約八千円。児童通学道路幅十尺【約3メートル3センチ】、総延長八千七百六十四間【約15キロ933メートル】、経費一萬三千九百七十六円ノ設計ヲナシ、同年同月村会ノ決議ニヨリ起債ヲナシ、翌四十二年二月漸クニシテ起工スルニ至レリ。」そして翌43年4月通学路と統一校舎の二大事業が完成。この業績について最後に「爾来本村ハ一村一校トナリテ、児童ノ通学上毫(ごう)モ遺憾ナクシテ校運隆々トシテ今日ニ至リシモノ全ク同氏ノ村長時代ヨリシテ力ヲ村教育ノ発展ニ致スノ結果ニヨリシモノナリ」と結んでいる。

四 校舎ノ増築(建坪九七坪 経費八千円)
 明治43年(1910)新築した校舎が学齢児童の増加によって狭くなり、大正7年度に4教室(97坪)を増築。久保三源次は工事中村会議員、新築委員として日々出勤し工事の監督を行った。

五 御影奉置庫ノ設置
 「御影(ぎょえい)」は「御真影(ごしんえい)」とも言い、天皇・皇后の写真のこと。戦前の学校では紀元節、天長節、新年(元始祭)の三大節祝賀式(後の昭和2年以後は明治節を加えて四大節)を国家の祝祭日としていた。明治政府は1891年(明治24)6月17日に文部省令で「小学校祝日大祭日儀式規定」を定め、全国の小学校ではこの規定に従って儀式を行うことになった。式の日に学校長・教員・生徒は御真影に最敬礼を行い、校長は教育勅語を奉読するのである。教育勅語は前年1890年10月30日に明治天皇が出した「教育ニ関スル勅語」のことで、略して「教育勅語」と呼ばれ、天皇への忠誠心と国家への帰属意識を子どもたちに持たせることを目的として、以後学校儀式に不可欠のものとなっていった。以後この教育勅語は戦前の日本の教育の基本をなすものとされていった。やがて校舎の火災や地震にあっても御真影と教育勅語を安全に奉置するための奉安殿が、各地の小学校で造られていった。七郷小学校でもこの「御影奉置庫」のために奉安殿を新築するが、事蹟調書には次のように記されている。
 「御影奉護上並ニ皇室観念涵養上遺憾ナキヲ期スル為大正九年九月校庭ニ荘厳ナル社殿造ノ奉安殿ヲ、同氏ハ村会議員、新築委員トシテ日々工事ヲ監督シテ目的ヲ達成セリ」
 なお、奉安殿は一般的には1910年代から、つまり明治の末期から大正時代に造られ始め、さらに昭和の戦争時代になると各学校で盛んに造られていった。しかし太平洋戦争の敗戦後に多くは撤去され、教育勅語は1948年(昭和23)6月19日、衆議院で教育勅語の根本理念が主権在君と神話的国体観に基づき、基本的人権をそこなうおそれがあるなどの理由をあげてこれを排除することを決議し、同日参議院も失効を決議したので、以後公的な効力は消滅した。

六 運動場拡張(四反歩 経費 一千一百円)
 「児童並ニ青年体育ノ必要ヲ認メタル同氏ハ運動場ノ拡張ニ尽力シ大正十一年前記土地購入手続中ナリ」と記されている。

   久保三源次の履歴より
      比企郡七郷村大字越畑五番地
      明治五年(1872)八月十一日生
一 村会議員 明治37年(1904)4月5日から大正10年(1921)在職中
一 村長   明治36年(1903)4月8日から40年(1907)4月7日、明治45年(1912)3月4日から大正5年(1916)1月8日まで。病気退職。
一 学務委員 大正10年(1921)7月28日から
一 郡会議員 大正9年(1920)12月22日に比企郡郡会議員に就任。
一 小学校校舎新築委員 明治42年(1909)3月10日就任。同43年(1910)12月竣工で退任。
       大正7年(1918)9月校舎増築で建築委員に就任。同8年(1919)4月竣工退任。
一 通学道路委員 明治41年(1908)11月就任。同43年(1910)12月竣工退任。
一 御影奉置庫新築委員 大正9年(1920)9月20日就任。同10年(1921)2月退任。
一 賞
  明治28年(1895)11月18日 明治二十七、八年戦役従軍記章ヲ授与セラル。
  明治29年(1896)1月25日 明治二十七、八年戦役ノ功ニ依リ金四拾円ヲ賜ル。
  明治39年(1906)4月1日  明治三十七、八年事件ノ功ニ依リ勲七等青色桐葉章及金五拾円ヲ授ケ賜ル。
   (上記文中の明治二十七、八年戦役は日清戦争を、明治三十七、八年事件は日露戦争をさす)

七郷小学校・七郷中学校の水道が完成する 1961年3月

   建設委員会を設置
 村【菅谷村、現・嵐山町】では、三十五年度事業として、七郷小中学校水道工事を実施するため、この程、水道建設委員会を作って、この推進をはかることとなった。委員は約二五名で、議会から、内田幾喜、長島実、青木高、坂本幸三郎、小林文吉、瀬山修治、栗原好三、杉田喜平、大塚光一、藤田正作、教育委員・田中昇、関根茂章、金子慶助、関根昭二、小林庚市、役場・小林博治、学校・権田正雄、小高正文、PTA・塚本智導、小林森久、その他、久保大八、初雁利次、馬場覚嗣、阿部富育の諸氏。必要に応じ常任委員を作る。
 初会合は二月中旬の予定。既報のように、この水道工事の水源については、昨年六月、東京の日本地下開発に依頼し、電探調査と、地層、地質の精査を行い、その結果、深度一〇〇米の井戸で、一日約二百トン(一一〇〇石)の湧出量を期待出来るという報告を得た。而して、之に要する経費は井戸掘りが約一五〇万円、水道工事が約一〇〇万円、計二五〇万円と見積られていた。
 その後、年末になり、埼大の森川教授が、地質調査のため本村に出張。この話をきいて、好意的に、地下水調査をしてくれることになり、一月はじめに、学生と泊りこみで、現在湧水のある地帯を中心に、九ヶ所に亘って試掘した結果、越畑南方の湧水は水源としての利用が可能であること、地下開発で調査した地点では、一〇〇米の井戸では予期の水量を得ることは困難で、おそらく、二五〇米以上の深井戸を必要とするであらうという結論を出した。
 尚湧水利用の場合、工事費は大体一五〇万円程度と見られている。
     『菅谷村報道』108号 1960年(昭和35)2月10日

   七郷小中水道工事
       長谷部組請負で着工
 七小中水道工事は、十一月十一日、午前、七郷小学校で現場説明会を行い、設計、仕様、入札規定を説明、十四日午前八時の入札の結果、東松山市の長谷部組が、一四八万三〇〇〇円で落札、一月二十日までの工期で、工事を始めることになった。
 工事の概要は、打越水源地に縦横深さ九尺の水槽を作り、この上に多段式タービンポンプを載せ、学校まで約一六〇〇米を、二吋(インチ)のパイプで送水する。
 工事は十一月二十二日起工式、材料の搬入をまって、十二月五日に貯水槽工事が開始され、続いて配管工事が始まる。尚配管工事には、七郷地区民が一戸一人宛、勤労奉仕することになっている。
     『菅谷村報道』117号 1960年(昭和35)12月15日

   水道落成式
 七郷小中水道落成式は、三月七日午後七小で行われ、村議、水道委、請負長谷部、設計大川氏等列席、村長式辞、田中建設委員長他の祝辞があって、祝賀会に入った。
     『菅谷村報道』120号 1961年(昭和36)4月15日

 →「七郷小学校・七郷中学校の水源調査 1959年

七郷小学校・七郷中学校の水源調査 1959年

   [解説]七郷小中学校の水源調査
             教育長 金子慶助
 七郷小中学校の水不足は久しく地域の人々の悩みの種子であるが、近代学校教育の上では、飲料水のみでなく各種の実験をはじめ水を多量に要することは、とても昔の比ではない。村当局や議会でも夙(つと)にこの必要を認め村教育委員会や両校PTAの要望を容れて先ず給水設備の第一段階として、その水源の探索にのり出すことになり、昨年度の当所予算にその経費を計上された。
 さてその方法であるがそれには電探法に地下水源の調査がよかろうということで、いろいろ検討した結果、昨夏旱天の際各地で活躍好評を博した県立川越農業高等学校の農業土木科の技術陣に依頼することになった。電探法は地中に電気を通じその抵抗値(単位はオーム)を記録しこれを曲線グラフで表わし判断する方法で今回は地下三十米まで測った。
 元来硬い岩石は抵抗が大きく水は小さいから深さに応じてこのオームを曲線で表わせば、何米下に水があるかを知ることができる。
 しかし夏秋の頃は作物の関係もあり又地表に水が多いので、晩秋から冬季の方が測定に便利であるし晴天続きのときが望ましいので調査は第一回を二月十五日、第二回を三月二十九日に行い、学校附近を中心として合計一〇ヶ所について行ったが、越畑金泉寺裏で、次は七郷農協の井戸附近でといふことになった。
 金泉寺裏井戸附近は地表に湧水もあるが、四米に厚さ約三米の帯水層があり、その下四米は硬い層でその下に又帯水層があるから十三米の深さの井戸でよいが、その下の帯水層も取り入れて二十五米の井戸なら極めてよい。
 又農協井戸附近は地下約四米に厚さ四米の帯水層があり、その下七米は硬い地層でその下に又二米の帯水層がありその下又七米の硬質層があってその下に二米の厚さの帯水層があり、ここまで掘れば約二十四米の井戸となる。
 其他小学校前の谷間中学校西県道下墓地附近(四ヶ所)加須川【粕川】合流点榎の木附近等を測ったが、いずれも下になるほど、帯水層になるが、これを受ける硬い層がないため、井戸としては見込がないとのことであった。
 この調査にあって、唯一心に精密な測定された松本、大沢両先生、これに協力された四名の川農高菅谷分校の生徒諸君、並に七郷小中学校の校長教頭はじめ諸先生にお礼申しあげると共に、立入りを快諾された地主各位に感謝してやみません。
 この水源調査の結果は、当初の希望予測とは程遠いものである。将来一〇〇〇人にも及ぶ学校児童生徒の給水源は如何にすべきかの、問題は又別な課題である。
     『菅谷村報道』98号 1959年(昭和34)4月15日

   七郷小中水源調査協議会
 七郷小中学校の給食については、先頃一応水源の調査をしたので、その結果を検討し更に今後とるべき方策について、土地の状況に詳しい地元の異見をきくため、同地区選出の村会議員をはじめ、吉田、越畑両区長、同地区出身教育委員、七郷両校PTA代表、同小中学校長、教頭、それに村議会議長、助役が加わって、四月三十日午前十時から村長主催による協議会が開かれた。
 まず村長の開会の趣旨説明のあと、教育長から水源調査の結果を、図表により説明、報告が行われ、ついで参会者から活発な質疑、異見の発表があり、それについて種々討議が行われた。いずれも建設的な意見で、地元民のこの問題に対する熱意を代表するものであった。協議の結果、左の如き申合せをして正午すぎ散会した。
 一、水源調査を更に左の地点で行うこと
   農協附近、吉田田辺愛作氏宅附近、越畑青木操氏附近、越畑清水谷
 二、自衛隊の作井技術を利用すること
 三、給水設備の完成機の目標を今年度中とすること
 尚この会合はこれを第一回とし、度々集って意見の交換をすることを申合せた。
 因に其の後この申合せによって、村長がその筋によって調査したところによると、自衛隊にはさく井技術の部隊が存在しないことが判明した。
 然し県当局によって水源の給水量の測定、仝設備の設計等に当る技術者の紹介をするという確約を得た。(金子)
     『菅谷村報道』99号 1959年(昭和34)5月15日

   七郷小中水源調査
       一日に一一〇〇石出る
アルバムA172

アルバムA173

 既報、七郷小中水源調査は、東京の日本地下開発に依頼し、六月七日電探調査を実施した。当日は会社から東大講師の山本荘毅博士が出張、電探の外、附近の地層、地質を精細に調査した。その結果、同博士の報告は、小学校の東側を試掘することが最適で、湧水量は十吋(インチ)パイプ、深度一〇〇米で一日二〇〇トン(一一〇〇石)が期待出来るという。従って児童生徒その他一〇〇〇人としても一日【一人】一石一斗となるから、標準量、一人一日七斗五升をはるかに超えることになり、これに成功すれば、長い間の「水」の問題は解消することになる。
 尚工事費は一尺当り四〇〇〇円、一〇〇米で一三二万円になる。(既報の一三二〇万円は誤り)
     『菅谷村報道』101号 1959年(昭和34)7月10日

 →「七郷小中学校の水道が完成する 1961年3月」
 →「七郷小中学校水道敷設誌 七郷小学校長・藤野秀谷 1952年

七郷小中学校水道敷設誌 七郷小学校長・藤野秀谷 1952年

   比企郡七郷村 学校水道敷設誌
     第一節 難問題解決えの苦慮
     第二節 工事遂行の努力
     第三節 竣工の歓喜

第一節 難問題解決えの苦慮
 本村【七郷村、現・嵐山町】学校の敷地内には五つの井戸がある。何れも期待は裏切られて、水の出るものは一つもない。雨水を井戸に貯え、之をその儘飲料水とし、乾天続きの際は家庭より壜に水をつめて学校え持参する。更に附近の人家えかけこみ、井戸端に群がつて貰ひ水をする。小使や当番は毎日校門前の坂道を十数回も往復して、農協から水を運搬する。全く悲惨の極みである。こうした状態が四十年間も続いたのである。
 昭和二十五年(1950)三月十三日、七郷小学校創立四十周年記念祭が催された。この委員会では、記念事業として学校水道を敷設し、従来水に悩んで来た難問題を、一挙に解決すべく委員長杉田政之助氏を中心にその研究を進めたが、適当な水源を求むるに難く、工事費が予想以上に多額を要する為に、到底実現は困難であるとの結論に達した。
 学校PTAも亦この問題を重視して、昭和二十六年(1951)三月委員会の決議にもとづき、会長大沢賢司氏は村当局に陳情書を提出してその実現を要望した。村民一般の与論も日増しに高まつていつた。
 仝年(1951)三月役場・学校・村会・PTA等の代表者が会合して、先づ近隣の小中学校を視察することとし、直ちに水道施設その他の環境設備の研究を実施した。その結果一層教育の重要性を痛感し、早速県より専門技師の派遣を申請して、測量・設計等の基礎資料を依頼することになつた。
 松山保健所長高橋暉良殿は、つとに本村保健衛生の見地、並に本県稀に見る七郷小中学校の欠水状況を憂え、種々指導助言を与えられて来たが、水道工事の機運到来を機会に、県衛生部の直接指導を懇請されたのである。
 仝年(1951)六月県公衆衛生課長中村広夫殿並に水道係長西原重義殿は、非常なる同情と熱意とをもつて来村され、学校附近の井戸をくまなく調査し、水道工事に関する測量を行つた。その結果水源の貧弱なこと、且つ相当難工事であることが認められ、翌七月日本鑿泉並に昭和水道の二大ボーリング会社より、夫々二名の技師を招いて之を鑑定させたが、本村は全域にわたり厚さ六五〇米の凝灰岩層より成り、地下水の湧出は絶望であることが判明された。西原技師は止むを得ず地上水を貯える井戸を水源とし、之に濾過滅菌装置を伴う模範的な簡易水道の設計を考案、八月にその設計書が作製された。
 然し乍ら、この実現に当つては寔に多額の経費を要する為に、本村財政の現状からは非常に困難な状態にあり、茲に県当局に対し、補助金申請に関する陳情書が提出されたのである。

第二節 工事遂行の努力
 以後水源の位置に関し一層研究する必要を感じ、十月各部落より水道準備委員を選出し、村民一般の与論を確認して先づ井戸の試掘を開始することになつた。場所を中学校裏の山下一、九六九番地と定め、松山町磯田ポンプ商会が請負ひ、村民の協力奉仕により之を実施したところ、幸にして貯水量も有望視されるに至つた。
 この時に当り、中村衛生課長は本工事促進について種々心配され、特に課長の懇請により、県衛生部長金井進殿が直接来村の上、つぶさに現状を視察することになつた。部長は児童生徒の保健衛生並に之が及ぼす公衆衛生えの影響を憂慮し、更に小■村の財政上から、県費補助の必要性を痛感され、民主政治の本旨に則り、之を予算化すべく強力に県知事に申言されたのである。大沢知事も金井部長の熱意に共鳴され、敢て之を定例県会に提出、昭和二十六年(1951)十二月県費貮拾万円を補助することに議決されたのである。
 この間、村長内田幾喜(ひさよし)氏村会副議長坂本幸三郎氏は、水道施設国庫補助に関する法律の改正につき、県会議長・金井部長・中村課長等と同伴して、厚生省並に大蔵省に陳情すること前後三回、終に改正案は国会を通過したのであつた。
 補助金規定の上からも、又学校水道といふ点からも、恐らく前後にその例を見ないであろうこの問題に対し、献身的に盡力され、本村の窮状を救はれたことは、本村として永久に忘れることの出来ない處であり、県衛生部に対し慎んで敬意と感謝の念を表する次第である。
 次いで愈々本格的な工事を開始すべく、昭和二十七年(1952)一月村長より埼玉県知事に、七郷村簡易水道敷設工事認可申請書が提出され、之に対し二月十五日付を以て申請通り認可されたのである。
 かくして部落・村会・PTA・役場・学校等より夫々委員が選出され、五十名の水道工事実施委員会を組織し、内二十二名の常任委員を依嘱、委員長は村長内田幾喜氏、副委員長には村会議長青木義夫氏並に栗原侭一氏を推して、二月関係業者七名の入札が行はれた結果、松山町長谷部信治氏の落札するところとなつた。契約日は昭和二十七年(1952)三月十二日、金額六拾五万壱仟参百円、工期は三月十五日着工、五月二十日竣工と決定したのである。
 井戸の敷地については、所有者松本松平氏の奇特なる好意によつて村有地となり、送水管理設箇所の桑園山下一、九五五番地の所有者松本正作氏は、所要面積約二十坪を永久に村え無償貸与されることになつた。濾過貯水槽の位置に当る宋心寺所有の山林に関しては、当該檀下総代各位の盡力があり、尚井戸堀鑿土の処理については松本銀三氏が特に協力される等々、地元関係諸氏の涙ぐましい好意に対しては寔に感激にたえないところである。
 請負業者の側では、契約後直ちに資材の準備に取りかゝり、工事主任坂本幸三郎氏、副主任荻山忠治氏、田中隆次氏の熱意と努力のもとに、三月二十四日先づ配管及貯水槽の工事より開始された。四月に入り雨天が多かつたとはいえ、村民は連日十数名づゝ交代で人夫に出動し、業者の誠意に深い感銘を寄せ、業者側も亦村民の協力一致に共鳴しつゝ、作業は着々順調に進行して行つた。かくて五月十三日には送水管七五米、配水管一七七米、給水管一七五米、合計四二七米の配管埋設を終り、濾過池三平方米一面、及び配水池容積八屯一面の築造工事は一段落を遂げた。時に再建日本発足の折とて、濾過池東側面に「講和発効記念」と記銘されたのである。
 一方井戸枠鉄筋コンクリート工事が四月十日より開始され、直径二米高さ一米のもの十一個が五月二日には仕上げられた。引続き井戸掘鑿作業に移り、五月八日以降全力を傾注して行はれたが、雨天の日多く、山崩れが三回あり、職人二名が軽傷を負うという状況で、予想以上に難工事の為、竣工予定五月二十日に至るも到底終了することを得ず、加うるに農繁期に入り村民の出動も困難となつた為、委員会に於ては、業者との交渉委員に正副委員長並に田畑周一氏、市川半衛氏を依頼し、種々接渉の結果、村民の出役は五月末日を以て中止し、七月一日以降は業者側のみで一切を進行することになつた。
 之より先、電気工事に関し、副委員長青木氏の盡力により、関東配電小川営業所に連絡して外線工事を、内線工事は宮前村小沢氏により共に終了、単相一馬力深井戸ポンプの据付を待って、揚水試運転を実施したのは六月二十八日であつた。七月五日中村課長殿と西原技師が来村、工事の状況を視察し、更に完成に対する種々の指導助言を与えられた。

第三節 竣工の歓喜
 其の後井戸周囲の整地、滅菌装置及濾過池の金網取付、鉄管故障修理、小屋二棟の塗装等、最後の仕上げが行はれて、九月一日常任委員会に於て、愈々竣工式挙行の打合せがなされ、その日を九月十日と決定したのである。この間本工事委員会の書記として、或は事務に或は連絡に、終始全力を傾注された安藤義雄氏の功績も亦特筆されなければならない。
 因みに本工事総決算額は金八拾六万壱仟壱百拾四円八拾銭
  右内訳    請負金   六五万一三〇〇円也
         追加工事金 一四万三五三九円也
         雑支出    六万六二七五円八〇銭
  村民出動人夫  延 九八六人
  一月以降九ヶ月間の委員会開催 十一回
 本工事着工以来竣工まで約五ヶ月、水源井戸の試掘開始以来約十一ヶ月、更に小学校四十周年記念祭に発議されて以来約二ヶ年半を経過し、茲に漸く待望の水道工事は落成されたのである。
 かつては「水なし学校」の珍名をうたはれた七郷校も、今日漸く水の便に恵まれて、約一千の学童の歓喜は云うまでもなく、彼等の父兄否全村民の嬉しさは例えようがない。学校教育今後の充実振興に対し、画期的な一大事業であると共に、更にこの施設が本村保健衛生上に及ぼす効果は甚大であり、既に本村夏季の伝染病発生は、従来に比較して急激に減少して居る状況である。寔に本村沿革誌上の一大記録といふべきであろう。
 終りに臨み、この計画遂行に当り、県衛生部の熱意ある御指導、松山保健所の親切なる御援助、長谷部組の犠牲的な御努力、並に全村民の協力一致、関係役職員の絶大なる労苦に対し、甚大なる感謝の誠を捧げる次第である。
   昭和二十七年(1952)九月十日 竣工式に臨んで
                     七郷小学校長 藤野秀谷

七郷小学校卒業写真 1912年

七郷尋常高等小学校・七郷実業補習学校
明治44年(1911)度卒業生
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参照:七郷小学校の歴史年表

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