GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

大塚基氏『私の100話』

私の100話 目次(更新) 大塚基氏 2011年

目次
はじめに

1.ぶっちゅめ

2.昆虫採集

3.消防小屋の蛾

4.はなどりとしんどり

5.天王様と旗もち

6.さかなとり

1)さかな釣り

2)おきばり

3)とりかい

4)よぼり

5)かえどり

7.たなばた

8.からねこ

9.じんとり

10.けだし

11.竹馬

12.どこらふきん

13.お正月

14.ガシャガシャとり

15.やまし

16.夜まわり

17.てんぐだんご

18.うさぎ

19.やぎの世話

20.朝草刈り

21.薪づくり

22.めじろとり

23.お蚕様
1)蚕室

2)お蚕あげ

3)わらまぶし作り

4)桑つみ

5)繭だし

6)桑原きっかけ

24.子供の夜遊び

25.しょいたとやりん棒

26.氏神様と井戸さらい

27.我が家の母屋

28.子供の使い

29.古里駒込墓地の話

30.八坂神社

31.たにあ

32.馬内(もうち)

33.きのこ

34.飯島稲荷

35.おまいり

36.たなぐさとり

37.アイスキャンデー屋さん

38.稲刈り

39.麦まきと手入れ

40.にわとり

41.帰ってきた伝書鳩

42.納豆屋さん

43.盆やぐら

44.四郎次さん

45.ほたる

46.水あび

47.雨ごい

48.道草

49.丸木橋

50.流れ人

51.藤塚の阿弥陀如来像

52.小便町

53.粘土シャンプー

54.さわ蟹とえび蟹

55.うどんつくり

56.はたおり

57.お風呂

58.風呂たき

59.さなぶり

60.かや(蚊帳)

61.ひるね
62.溝あげ
63.いっそう作り
64.つばめ
65.さつまいもほり
66.熊谷の花火
67.野良弁当
68.花祭り(潅仏会)
69.我が家のねずみ
70.相生の松
71.蚕屋の煙突と屋根裏

72.屋根の葺き替え
73.桑の木の皮むき
74.井戸の水源探し
75.天気予報
76.むじなの嫁入り
77.ひーおばあさん(曾祖母)
78.ガラスうけ(筌)
79.さとうだんご
80.おなめ
81.大豆はたき
82.こんにゃく玉干し
83.おひな様
84.石うす
85.こたつとあんか
86.お土産のようかん
87.焼き餅
88.春蝉(松蝉)
89.野山の恵み
90.ガッチャンポンプ
91.洗たく
92.お正月の準備
93.松の内の行事
94.小正月の準備
95.小正月の行事
96.恵比寿様
97.節分
98.お盆様
99.お月様
100.しろうと演芸会
あとがき

私の100話 あとがき 大塚基氏 2011年

 明治維新は、それまでの日本の中で如何にあるべきかであった日本人の在り方を、世界の中で如何にあるべきかであるかと大きく変えました。
 しかし、日本人の生活の基盤は農林業や漁業の第一次産業であって、地方に残る遊びなども含む伝統文化、生活様式は、変化がありながらも脈々と息づいていました。
 そして、家族や地域を大事にする心情にも変わらぬものがありました。
 しかし、第一次世界大戦での敗戦で味わったどん底の生活の中から、日本が産業経済大国へと駆け上がる過程で、従来の価値観の崩壊と生活のリズムに大きな変化が生まれました。住居も茅葺屋根から新建材主体の建物に変わり、生活様式、生活観も完全に変わりました。子供の遊びも、大人の遊びもいろいろな年中行事も、そして仕事をするやり方までも180度と言われるほどの変化を遂げました。
 そこで、まだ戦前の流れと雰囲気が其処ここに残っていた昭和20年代後半から30年代を、過敏なる子供時代として過し体験した者として、その頃の知ったこと、その当時の生活の事柄を、完全に忘れ去る前に活字にしてまとめておく必要性を感じました。
 それから2年、記憶が定まりきれずに「だったと思う」と書かざるをえないところも多々有りました。しかし、疑問に感じる所は真実を追求してその都度書き直すこととして、ここに100ばかりの小話としてまとめる事ができました。
 今から50〜60年前の、子供の目で見て感じた農家の生活の香りを、少しでも嗅いでいただければ幸いに思います。

私の100話 100 しろうと演芸会 大塚基氏 2011年

 昭和30年代頃までは、あっちこっちの部落で素人演芸会が行なわれていたようです。
 私の子供の頃、古里でも古里青年団により行なわれていました。
 場所は、兵執神社の社務所前の庭で、東側に舞台小屋を組み立て、その舞台の前には莚が敷かれていて部落の人たちが座布団を持って集まりました。
 そして、舞台の上では青年団の人たちが幾晩も集まって練習したであろう歌や踊りや漫才などの趣向を凝らした出し物で観客を喜ばせてくれました。
 白い船員帽をかぶったマドロスさんの踊り、また旅物の歌と踊り、酒樽太鼓に合せて大勢で派手な着物にたすきをかけて踊る花笠踊りが昨日のように目に浮かびます。
 また、この頃の秋から春までの間に旅まわりの芸人一座がやってきて、尾根常会場の庭に舞台小屋を組み、股旅物の演劇と歌や踊りを中心とした興行をうちました。
 それに、尾根常会場の庭や隠居の畑(関根弘子さんの家の今の踊りの稽古場あたりにあった畑)で、星空の下での映画興行もあったので座布団をもって、寒い夜にはありったけの着物を着込んで見に行きました。
 テレビも無い、金も無い、これといった娯楽も無い時代だったので、素人演芸会も旅まわりの芸人一座の演劇も野外映画も本当に楽しみの一つだったのです。
 その頃は、今から数えてもそんなに前のことでもないのに、今では考えられないことが日常の生活でした。

私の100話 99 お月様 大塚基氏 2011年

 秋になると夜空が澄みわたり、お月様が真昼のごときに明るく輝く季節をむかえます。
 そこで秋になると、お月様にお供え物をしてお月見を楽しむ十五夜様と十三夜様のお祭りがあります。
 十五夜様とは、旧暦の8月15日の秋空に輝く満月のことで、「中秋の名月」とも言われます。十三夜様は旧暦の9月13日のことで、十五夜様の「中秋の名月」に対して「のちの月」とも言われています。
 静寂な秋の夜に浩々と神秘的に輝く秋の月を、侘びを解する日本人は、古(いにしえ)の昔より月を崇める日、また「月見」と称して月を観賞する日と定めてきました。
 我家でも、十五夜様と十三夜の夕方になると縁側の月が良く見える場所に卓袱台を置いて、その上に一升瓶にすすきと十五夜花を入るだけ挿しこんで飾り、十五夜様には御鉢に饅頭を15個、十三夜には饅頭を13個(今は簡略して皿の上で数も奥方に聞かなければ分りません)と秋の収穫物である柿やさつまいもやサトイモ、栗などをお供えして、月に向かって手を合わせます。
 そして、私の子供の頃までは、月明かりの中で陣取りやどこら付近などの子供が夜遊びする日でもありました。私達より一回り近く上の先輩達の子供の夜遊びの中には、お月様へのお供え物や、柿の木に登って柿の実を失敬したりしたとのことも含まれていたようです。
 その頃の、若い衆の面白い夜遊びの話を聞いたこともありますが、月夜の晩の若い衆の夜遊びはどんなものだったのでしょうか。いずれにしても、この月見祭りの行事は、秋の夜の侘びしい心もちを一層に際立たせる演出とも思われます。
 そこに、お月様を敬い、自然と謙虚に向き合って、自然を楽しもうとする日本人の知恵がかいま見られます。

私の100話 98 お盆様 大塚基氏 2011年

 今から100年前の明治44年(1911)8月の祖父(栄一)の日記を見ると、お盆は8月13日から16日までに行なわれたことが記されています。
 そして今も、お盆様は真夏の8月13日から16日までの期間で行なわれています。
 しかし、明治時代になってから急速に養蚕の技術の向上が図られ、それまで一化性蚕種で春蚕だけの掃きたてであった養蚕も、先駆者の努力によって2回育も出来るようになりました。そして当所は不安定であった初秋蚕の蚕作も安定して生産されるようになりました。大正初期には人工孵化の技術も進み、年に何度も蚕が掃きたてられるようになりました。
 ですから、お盆様の日程も養蚕の飼育に影響の無い時に行なわれるようになって、8月下旬から9月に行なわれたこともあったようです。私の父の昭和32年(1957)の日記を見ると、お盆様は8月28日から31日までとなっています。そのあと暫くは、8月23日からのお盆が定着しておりました。8月下旬のお盆様の頃の夕方になると、秋風も立って秋の虫も鳴き始めてきます。何となくお盆様の風情と、西行法師様が詠んだ「心なき身にも哀れは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ」の歌の心境が一致するような感じがして悲しくなってきたものです。
 でも、昭和50年代後半からの急激な養蚕の衰退は養蚕農家の減少をもたらし、養蚕農家主体であった地域生活のあり方をも変えて、お盆の日程も昭和62年(1987)より100年前と同じ8月13日から16日までの昔のお盆に戻しました。
 お盆の行事は、8月13日の迎え盆から始まりますが、その数日前には茅を取ってきて干しておきます。
 そして、盆棚を作る縄を作るために、私の手で25ひろほどの長さの縄をないます。
 盆棚は、迎え盆までには組み立てて先祖様をお迎えする用意をします。(近年は迎え盆の日の午後が施餓鬼なので、午前中に盆棚を組み立てていますが、忙しい年も多いので迎え盆の前日までに盆棚の骨組みを組み立ててしまうことも多くなりました。)
 盆棚の上に茣蓙を敷き、その上に位牌などを仏壇から移します。そしてまわりには、仏事の掛け軸をかけます。昨年飾った盆花は花立てから抜いて、新しい盆花を飾り、古い花は盆棚の正面の左側のススキや女郎花で飾ってある飾り花のところに挿します。盆棚の正面の三本の縄にはほおずきを吊るします。スイカやかぼちゃなどの、家で取れた野菜などもお供えします。茣蓙は盆棚の下にも敷いて、その上に掛け軸の入っていた箱を置き、その上に子供の位牌を飾ります。精霊様も飾ります。
 我家の菩提寺、古里の重輪寺の施餓鬼は午後1時からと暫く前から決まっていますので、午後一番にお寺に行き施餓鬼の法要が終わったら、頼んでおいた先祖代々等の塔婆をもらって家に帰り盆棚の前に飾ります。そして家の周りの片付けや家の中の片づけを済ませ、暗くなる頃までには先祖様を墓場までお迎えに行きます。
 盆迎えには線香と提灯だけをもって行きます。そして墓場で線香を上げたら、先祖様は自分の家を忘れるはずはないと思うのですが、先祖様が道に迷わないようにと辻に線香を立てて提灯に火をつけて案内して帰ります。
 帰りの途中、阿弥陀様(常会場)に寄って線香を上げます。それから家に帰って、家の入り口にも道しるべとして線香を立てて家に入り、墓場から点けて来た提灯を庇に吊るしたあと、お客に来た盆棚の先祖様に「よく来てくださいました」と線香を立ててお参りします。
 迎え盆の夜の夕食はご飯で、カボチャとジャガイモと昆布の煮合せのおかずと油揚げのおすましと決まっています。私の妻が足を患って正常に座れなくなってからは、障子をはずして盆棚と相向かいの掘りコタツの茶の間を利用して先祖様と一緒に食べていますが、家族は盆棚のある部屋に卓袱台を置いて、先祖様と一緒の部屋で食事を取ることを我家の慣習としてきました。
 そして夕食が終わると、お寺から頂いた粉茶を入れたお茶を供えます。
 お盆様2日目の8月14日の朝は、ぼた餅と普通のお茶を供えます。留守居仏様(仏壇で留守を守っている仏様)にもお供えします。神棚にも、ぼた餅とお茶を供えます。
 昼はうどんを供えます。うどんを入れた茶碗の中に茄子のおかずを添えたのと、油揚げで出汁をとったおつけです。
 夕食は迎え盆の夜と同じで、ご飯にカボチャとジャガイモと昆布の煮合せのおかずと油揚げのおすましを供えます。そして、家族はいつもの場所で夕食を食べますが、夕食が終わるとお寺から頂いた粉茶を入れたお茶を供えます。
 お盆様3日目の8月15日の朝は、まんじゅうとお茶を供えます。留守居仏様にもお供えします。神棚にも、まんじゅうとお茶を供えます。
 昼はうどんを供えます。前の日と同じようにうどんを入れた茶碗には茄子のおかずを添え、油揚げの入ったおつけです。それと同時に背負い縄うどんと言って、ひぼかー(うどんつくりのところで説明)のような巾の広いうどんを作って、盆棚の正面の上中下の3本のそれぞれの縄の左右に吊るします。
 夜は迎え盆の夜と同じ、ご飯にカボチャとジャガイモと昆布の煮合せのおかずで油揚げのおすましです。夕食が終わると、お寺からいただいた粉茶を入れたお茶を供えます。
 お盆様4日目の8月16日は送り盆の日です。朝は、前の日と同じようにまんじゅうを作ってお茶もいっしょに供えます。留守居仏様(仏壇で留守を守っている仏様)にもお供えします。神棚にもまんじゅうとお茶を供えます。
 昼はうどんです。前の日と同じようにうどんを入れた茶碗には茄子のおかずを添え、油揚げのおつけをお供えいたします。
 そして昼食を食べて一息して、普通のお茶と土産団子を作って進ぜてから、盆棚の位牌など仏壇から移してきたものは仏壇に戻し、戸棚から出したものは整理して元に戻し、盆棚の材料も元に戻し、飾り物の竹やススキ、おみなえしなどは、使用していた縄で結わえて盆送りの時に持っていって墓場のゴミ捨て場に捨てます。
 盆送りのときに持っていくものは、捨てる物は別にして、線香、長後(白米)、土産団子、水、それにお供えした花や、家の周りに咲いている花などを持ってゆきます。
 そして、自分の家の先祖様達には家から持っていった線香、おさご(白米)、土産団子、水、花などをお供えして先祖様にお参りすると、迎え盆とは違って帰りには親戚の墓場や知合いの墓場にも寄って、線香、おさご、土産団子などをお供えしてお参りします。
 そして家に帰ると、お盆様が終わりとなります。


栄一お祖父さんの日記
【明治44年(1911)、中学1年生の時の祖父の夏休みの日記のお盆の部分です。その頃の生活の香りとお盆様の様子が記されているので書き加えました。】


◎八月十三日(日曜日)半晴 起床四時半/就床九時半
 朝起きてみたら、霧雨が降ってゐた。熊谷に行かうと思ってゐたが、雨がふっていたので、父が、あすにでも行かうと云ったから、草刈りに行って一籠かってきて朝飯を食べてゐると、雨はやんで明るくなって、天気になりそうだから、これでは行こうと(父が)いったから、車に油をくれて、まきといだをつけて、午前八時頃に、家を出発した。塩の八幡坂ではづいぶんあせもでたが、下る坂はらくだった。それから小江川、原を通り、大阪にいたりしが、こっちからでは大阪も下りなので苦もなく通り越し、万吉を通り、村岡のどて下の川に行くと、この間の大水で橋のてまいをおっこぬいて車をひいてはとうれぬから、みなまきやいだをおろして、車をになって、あぶないやうな木橋を通り、またづけてゐった。おっこぬいた所はとるこ「トロッコ」で土をはこんで、うめてゐる。それから、荒川大橋を渡った。橋の上はそよ吹く風が涼しい。いよいよ町に近づいたから、いそいで町につき、まきやいだをうって、ぼん買物をして昼飯を食べ、やく午後一時頃、熊谷町を出発し、家をさしていそぎ、十三日むかいぼんだから暑さを我慢しながらいそいで家にきた。そして、ぼんだなを立てる手伝ひをした。すこしたつと日がかくれてくらくなったから、弟と、むかいぼんに行った。すると方々で、ちょうちんをつるし来るものもあってたいそうきれいだった。


◎八月十四日(月曜日)晴 起床五時/就床十一時
 朝草刈りに行って一かごかって来て、朝飯を食し、寺へせんことぼん花とかはりものをもって行った。そして、ぼんだから、きれいに掃除をして、また、草を一籠かってきた。少したつと昼になったから、昼飯をたべ、しばらく遊んでゐると涼しくなったから、桑原へ父と桑つみに行った。そして、二ざあるつんで家に来た。


◎八月十五日(火曜日)半晴 起床五時
 朝草かりに行って一籠かって来て、朝飯を食べ、父のかはりに、寺のせがきに行ってしょうこをした。づいぶん早い組であつた。それからとなりの家でも、あらぼんだからしょうこをしてこいと云はれたから、まってゐたけれども、やういにきない。やうやく十一時頃、となりの家でも来て、しょうこをして一緒にかえった。家に来た。そして昼飯をたべ、今日は、非常にむし暑いと云って休んでゐると、雨がたいそうふってきた。一せい夕立の雨のやうに降ってやんだらたいそう涼しくなった。それから桑を一せいつんで遊んだ。


◎八月十六日(水曜日)半晴
 朝起きてみたら、風が吹いていた。火をつけて、むしていると、霧雨がふってきたったがやんでしまつたから、草刈りに行かうと思ってゐると、またふってきた。そして、大降りになった。風が非常に強く吹くので、戸へ雨がふっかける。草刈りにはいけないから、かいばきりをして、朝飯を食べてゐると雨がやんだから、草刈りに行って一籠かってきた。そして、桑原へ桑摘みに行った。しかし、風は強く吹いてゐるので、方々の森や山はごうごう鳴ってゐる。一生懸命につんで、昼よりしばらく遊んで、送りぼんをした。そして、家にきたら、母が腹が痛い(妹が)と云うから、うぶつてやった。今年で三つになるのだが、もう長く病気なので、いしゃさまにかけて少しはよかったが、十三日から非常にわるくなってなにもくいなくっていたが、今日はなほわるくなって、水もそんなにのまぬようになったから、ぼんでも遊びへ行くづらはない。一生懸命である。うちのものはとても、今夜中はもつまいと云った。


【日記の続きでみると、妹は翌日なくなりました。しかし、我家に残る死亡日は、届出の日なのか、翌々日の18日となっています。】

私の100話 97 節分 大塚基氏 2011年

 日本は、一年が春、夏、秋、冬と4つの季節に区切られ、それぞれの季節の趣が鮮明です。
 そして、季節の変わり目の初日のことを、立春、立夏、立秋、立冬と言い、それらの前の日のことを節分と言いますが、節分と言うと通常は立春の前の日の2月3日のことを言っています。春になる節分を年取りとも言い、年齢を刻む日とも言われますが、新しく生まれ代わることを意味するのかも知れません。
 万物が寒く厳しい冬を乗り越えて、野山が再び芽吹き、花が咲く春の季節を迎えようとする節分を、人々が心から待ちわびているからだと思います。
 私の家でも昔から2月3日の節分の行事を行なってきました。
 節分の日の夕方になると、大豆を5合ぐらい煎って一升枡にいれて大神宮様にお供えします。我家の夜の食事はうどんと決まっていますが、節分の夜は特別に米のご飯を炊き、糧に鰯を焼いて食べるのが慣わしとなっています。
 鰯(いわし)は、焼く前に2匹の頭を切り取って豆木に刺して、その頭を口元に近づけて唱えごとのように『田んぼの虫、畑の虫を焼いてしまえ。○○ちゃんのおねしょの虫いなくなれ。○○さんの癇の虫の虫飛んでいけ。』などと、農作物の病害虫などの駆除による豊作を願うだけでなく、病気や不満などの無くなって欲しい願い事を鰯の頭に唾を吐きかけ、閉じ込めるように言って、囲炉裏の火であぶって焼き殺す仕草をして灰の中に挿しておきます。家中の者がそれぞれに無くなって欲しい願い事を鰯の頭に唾と一緒に吐き掛けて焼き殺すと、トブグチ(家の正面入口:玄関)の両脇にさして魔よけにしました。
 今は囲炉裏もなくなったので、鰯の頭をガスコンロの上に金網を乗せて焼いています。
 そして、軽く一杯を嗜んで、夕食を終えると豆まきです。鬼が家の中から逃げられるように、縁側の障子をちょっと開けて、大神宮様に供えておいた大豆の入った一升枡を下げて、一升枡を左手で持ち、右手で一升枡の中の豆を掴んで、神棚、床の間、仏壇の順に「福は内、福は内、鬼は外」と大きな声を張り上げて鬼よけの豆まきをします。
 そして、家の中の豆まきを終えると、逃げ出した鬼がすぐに家に戻って来ないうちに急いで障子を閉めます。
 それから、氏神様に行って豆まきをして、兵執神社、御嶽様、飯嶋稲荷の方に向かって豆まきをします。氏神様で豆まきをしていると、近年まで兵執神社の方からも近所からも大きな「福は内、福は内、鬼は外」の豆まきの声が聞こえてきました。しかしこの頃は、豆まきの声が神社の方からも近所の方からも聞こえなくなったような気がします。家の構造が変わって立て付けがよくなったからなのか、節分の豆まきをする家が少なくなったからなのか、いずれにしても寂しさを感じています。
 節分の締めくくりは福茶です。豆まきが終わると、急須に豆まきの豆とお茶を入れて福茶をつくり一年の無病息災を願って飲みます。
 私の子供の頃は、家の中の豆まきが終わると、暗く寒い夜道を家中でほっかぶりをして、兵執神社に、御嶽様に、飯嶋稲荷に歩いて行って大きな声を出して豆まきをしました。そして、家に帰ってきてから福茶をたてて飲みました。寒くて凍えそうになった体が福茶を飲んで温まったのを覚えています。
 そして、豆まきに使った残りの豆を一掴みほど半紙に包んで、鬼の豆として仏壇の引き出しの中にしまっておきます。初雷がなったらこの鬼の豆を取り出して食べると、雷様の被害にあわないで元気に過ごせるとか言われています。

私の100話 96 恵比寿様 大塚基氏 2011年

 1月20日は恵比寿様(えびすさま)です。
 我家の恵比寿様は、木造の小屋に入っていて9cmほどの台座の上に立つ12僂曚匹稜愍罎派格のある木造りです。黒ずんでいて年代不詳で何時の時代から我が家の流れを見守ってくれたのか分りませんが、足元には寛永通宝のお金が供えてあります。台座には金ぱくのあともみられ、造られた時には黄金色に輝いていたのかも知れません。
 でも、2〜3年前の恵比寿様の時の移動中に、恵比寿様の手首がポロリと何もしないのに落ちてしまい慌ててボンドでつけました。老化現象なのでしょうか。
 そして、横19僉高さ19僉奥行き15僂曚匹旅ずんだ箱型の恵比寿様のお社もあります。この社には、金色メッキされた小さな恵比寿様が納められておりますが、その恵比寿様は新しく父が納めたのではないかと思われます。初めにお社に収められたのは、違う恵比寿様だったのではないかと思われます。
 恵比寿様の朝は、小正月の餅と繭玉を入れたお雑煮を妻が作ります。
 そして私は、座敷に卓袱台を出し、神棚に鎮座している2組の恵比寿様を座敷の卓袱台の上にお移しして2組の恵比寿様の前に灯明をつけます。
 朝は雑煮を茶碗に山盛りにもってそれぞれの恵比寿様にお供えします。
 昼は茶碗の中にうどんと具をのせて、すましと一対でそれぞれの恵比寿様にお供えします。
 そして夜は、お茶を供えて一晩お泊りいただき、21日の朝は、通常のお茶とご飯をお供えしてから神棚に戻し恵比寿様の行事は終わりとなります。
 私の子供の頃は、お供えするお金もありませんでしたが、お金を供えるとお金が増えて戻ってくると言われていました。
 それに恵比寿様が今よりももっともっと身近な神様だったような気がします。

私の100話 95 小正月の行事 大塚基氏 2011年

 1月15日は小正月です。
 朝起きると、年神様と神棚のお灯火をつけます。
 そして、妻が作ってくれた小豆粥とお茶を年神様にお供えして、そのあとにお正月にお供えした神々にお供えします。
 次にオッカドの木で作った小豆粥掻き棒で、お粥の中を掻き混ぜて、小豆粥掻き棒に挟んだ繭玉に小豆粥が良く付いたら年神様にお供えします。
 小豆粥とお茶と小豆粥掻き棒をお供えし終わると、朝食が始まります。
 小豆粥は、オッカドの木で作ったはらみ箸を使って食べます。小豆粥を食べるときに、熱いのでフーフー吹いて食べると、田植えの時に西風が吹いて苗が傷んで不作になると親や祖父母から良く言い伝えられてきました。ですから熱くても絶対に吹いて食べないように、熱いうちは小豆粥を箸でつまんで持ち上げて少し冷ましてから食べています。間違って吹いてしまった時は「あっ」と言わないようにして、吹いてしまったことを気づかれないようにします。
 そして昼はうどんを供えます。
 これが小正月の行事です。
 小正月は女の正月とも言われます。16日は薮入りと言って、商家では奉公人に身支度を整えさせて、手土産を持たして家に帰す日とされてきました。しかしその起源を遡ると、嫁取り婚において嫁を実家に帰して親子水入らずの時間を与えてやる日だったと言われます。
 いずれにしても、我家の小正月の夜の行事が設定されていないのは、小正月から嫁を安心して実家に帰すための方策であったのかもしれません。それを考えると、昔の人は細かいところまで気を使って、家族の生活を組み立てていたのだと改めて思いました。
 そして、1月16日の朝に繭玉、ハナの木を下げて歩きます。
 そして、年神様(幣束)は朝にお茶を供えた後に、大神宮様の北側において、年神様を飾る台は押入れの上の保管庫に収めます。
 そして、小豆粥掻き棒は、大神宮様の北側の年神様を置いたところにおいて、苗代の時期になったら水口の両側に差し込みます。
 そして、小正月の小豆粥を少しとっておいて、18日に食べると百足に食われないと言われてきました。
 平成11年(1999)までは成人の日が1月15日でした。成人の日を1月15日としたのは、この日が小正月であり、かつては元服の儀が小正月に行なわれていた所以によるものだと言われています。
 しかし、平成11年のハッピーマンデー制度導入に伴い、成人の日はなぜに始まったかの歴史を知らない、また日本の文化を顧みない人達によって、日本国民が知らぬ間に成人の日が厳かな小正月とは切り離されて1月の第2月曜日に設定されてしまいました。
 そのことによって、今まで1月15日が祝日であったからこそ、昔からの小正月の行事が引き継がれ行なわれてきたのに、1月15日が祝日ではなくなり、仕事の合間での行事となって、小正月の行事が風前の灯となってきました。
 私の家でも、私が無理にでも1月15日には仕事を休んで、小正月の伝統を引き継ごうとしていますが、世知辛い世の中、どこの家でもそう言う訳にはいかないと思います。
 今まで先人たちが残してくれた伝統を一つも継承していない、自分は立派だと思っている一部の有識者と言われる人たちの意見によって、小正月の伝統が消えようとしています。
 この滅び行く伝統の付けを誰が責任を取るのか、時代の流れとの一言で済まそうとする人達の良識を、小正月が来るたびに思い考えます。

私の100話 93 松の内の行事 大塚基氏 2011年

 我家のお正月は、年男が若水を汲む行事から始まります。若水は自家水の水道から汲み、お茶をたてるために鉄瓶に入れてガスコンロでお湯を沸かします。
 そして女房殿が鍋の中に昨夜の内に里芋や人参などのお雑煮の具を入れておいてくれるので、別の容器にあく抜きのために水に浸しておいてくれた牛蒡をその中に入れて、みずを必要なだけ入れてガスコンロで煮ます。
 お雑煮の具を煮ている間に、年神様、神棚にお灯火を灯(とも)して、12月30日に搗(つ)いて作った鏡餅を年神様にお供えしてから家の内外の神様にお供えします。そして切り餅を2センチ角ぐらいの大きさに細かく切って、もち焼き網をガスコンロの上に乗せて豆の木で返しながら焼きます。もちが焼かれてプーと膨れると取り皿の上に乗せておいて、30個ぐらい溜まったらお雑煮の鍋の中に入れて、醤油で味付けして煮込むと神様にお供えする雑煮は出来上がります。
 お雑煮が出来上がると、神棚用の雑器(ざっき)に細切れの雑煮餅を一切れ、それに1〜2切れの具を乗せて、お茶といっしょに年神様と神棚、床の間に供えます。次に、裏の樫の木の葉を取ってきて綺麗に洗って、その上に雑煮餅と1〜2切れの具をのせて、氏神様をはじめ松飾りをした神々に供えて最後に仏壇にお供えします。
 そして年神様にお酒と昆布をお供えして、年神様に供えておいたお払いで家の隅々まで『新年がよき年でありますように』とお払いして、元旦の我家の朝の行事が終わります。
 元旦の朝の行事が終わると、直ぐに支度をして7時30分(数年前までは7時集合でしたので元旦祭が始まるちょっと前に神社で初日の出が拝めましたが、今は日の出が昇ってからの集まりとなりました。)から行なわれる元旦祭に行くのが年男の勤めです。
 朝の一連の行事を駆け足で行なっても一時間はかかります。神社の元旦祭が数年前から30分遅くなって7時30分となっても元旦の朝は6時には起きなくてはなりません。
 ですから、神社での元旦祭が終わって家に帰ってからお神酒をいただき、お正月気分になって雑煮をいただき、それからゆったりとした正月の朝の気分を味わいます。
 しかし、我家の元旦の朝の行事は続きます。昼はうどん。夜はご飯を年神様からはじまって全ての神々にお供えします。
 2日、3日の朝は、元旦に行った鏡餅をお供えすることとお払いはありませんが、元旦の日と同じように朝、昼、晩と一日3回、元旦と同じものをお供えする行事がつづきます。
 そして、朝に家の中の神様に雑器でお供えした雑煮は七草粥に入れて食べるために、昼にうどんをお供えするときに下げて皿等に保管しておきます。このことは神様との一体感を求めるだけでなく、『ありがたい・食べさせて戴いている』と言う自然の恵みへの感謝の表現方法だと思います。
 1月4日は、たな卸しと言って朝一番にお供えしてある鏡餅を下げて歩きます。
 そして、小正月までは年神様に朝のご飯とお茶は供え続けますが、三が日お供えした神様のお供え物はなくなります。いつもの、神棚、床の間、仏壇への朝のご飯とお茶をお供えする方法に戻ります。
 また、我家では1月4日をせちの日としています。昔は我家でもせちの日には、朝にうどんをうって内外の神様に供えたとのことですが、私の祖父の栄一おじいさんが、私の母に、朝にうどんを打つのは大変だから夜でよいと言ったので、それ以来夜になったとの事です。(何時だったのかは聞かずじまいで母は亡くなってしまいましたが、きっと母が嫁に来た時のことなのでしょう。)
 また、松の内にはお炊きあげといって、年男が朝ごはんを炊き、一釜のご飯全部をお鉢に入れて年神様に供える行事があります。それは新年になって初めての卯(う)の日に行なっています。今は自動的にスイッチの入るガス釜でご飯を炊いて、釜の中のご飯をお鉢に移して年神様に供えるだけですが、父の時代の半ばなでは朝ごはんを炊くのも竃(かまど)でしたので、慣れないご飯焚きにはチイチイパッパと苦戦したと思われます。しかし、母が手伝っていた様子でしたが。とに角も、優しい奥方を持った年男にとっても有難い時代となりました。
 1月6日は、山入りです。
 山入りには、おさご(白米)と切り餅3枚を山に持って行って、その年の方角に向かって切り餅をちぎって投げ供えて、新しい年の山仕事の安全を祈ります。残った切り餅は家にもって帰り七草粥に入れて食べますが、山入りの行事を行なって、その日から木の葉掃きなどの山の仕事を始めました。
 畑に入ることも出来る鍬入れの行事もありますが、私の父が言うには、我家では三が日が終わったら畑に入っても良いことになっているのだそうです。
 山入れの行事も、鍬入れの行事も、お正月を機会に自然の恵みに感謝するとともに農作業から、いろいろの仕事から人々が解放される時を作るための生活の知恵と思われます。
 1月7日は七草です。七草粥の中には七草と、正月三が日の神様にお供えしたお雑煮と、山入りのときに持ち帰った切り餅を入れて作ります。そして、年神様をはじめ松飾りをした神々にお供えしてから食べます。
 昔の人の知恵として、通常の生活に入る前に、お正月の餅腹で疲れた胃を癒すために消化の良い七草を入れたお粥を食べるのだとのことです。春の七草は芹(せり)、薺(なずな)、ごぎょう、はこべら、仏の座(ほとけのざ)、鈴菜(すずな)、清白(すずしろ)だといわれていますが、当地方では切ることをはぎると言いますが、お正月には爪を切っては駄目で、七草の日に初めて爪を切る習慣があります。
 深皿の中に前の日から薺を水に浸しておいて、七草の日に深皿の中の薺を取り出して薺についている水滴で爪を濡らして爪をはぎるのです。
 そうすると、一年間は爪に関する怪我も病気も無いのだと教えられてきました。お正月は爪をはぎっては駄目だから、大晦日の日にはつめをはぎっておくようによく言われたものです。
 鍬入れ、山入りがあるように、お正月はすべてを休んでお祝いする日、身なりを整えて祝う日なのだとの、昔の人の知恵であったのかも知れません。
 それに、意味は良くわかりませんが、七草の日には「七草なずな唐土の鳥が日本の国に渡らぬうちにトトンガトントン・・・・・・」で始まる歌を、祖母と一緒に口ずさんだものです。しかし、出だしだけしか思い出せないのが残念ですが。
 1月7日までを松の内と言って、新年を祝ういろいろな行事が行なわれますが、1月7日の七草粥の行事を終えると誰もが通常の生活に戻って行きます。
 これらの行事も、平成5年(1993)に母がなくなるまでは、何となく父が中心で私が手伝いのような感じでやっていましたが、その後は立場が逆転して私が中心で父が手伝いになり、父の認知症が進み始めた5〜6年前からは全く私の仕事となりました。
 私も、昔から引き継がれてきたお正月の行事を、少しでも後世に引き継ぎたいものと思っておりますが、私の子供の時と比べて、お正月の行事も大きく様変わりしました。
 昔は井戸の中から桶で汲み上げていた若水汲みも、今では同じ井戸の水であっても、蛇口を捻ってジャーです。お湯を沸かすのにも燃木はいりませんし、餅焼きも囲炉裏でなくガスコンロの上です。ご飯を炊くにしても、うどんを茹でるにしても竃は要りません。
 お正月の行事を引き継いでいくにも、随分と楽になったものだと感じます。
 しかし、それ以上に、毎日がお正月以上の豊かな生活となって、昔のお正月のような生活の節目と自然の恵みへの感謝の気持が無くなってしまったように感じられます。

私の100話 92 お正月の準備 大塚基氏 2011年

 私の子供の頃は、お正月は本当に待ち遠しいものでした。
 「もういくつ寝るとお正月」との歌の文句のとおりの気持ちで、お正月が早く来ないかと待ちどおしく指折り数えて待ったものです。
 そんな今にも伝わるお正月を迎える準備、行事を思い起こしてみました。

○12月29日
 お正月の準備は12月29日頃のお松迎えで始まります。
 山に行って松飾りに使う松を切ってきます。(しかし今は、昭和50〜60年代にすさまじい勢いで嵐山町の松の木を食い尽くした松くい虫により、山の松がほとんど枯れてしまったので、長峰沢(ながみねざわ)の畑のふちに松飾り用に植えた松の木を使っています。)
 そして、注連飾り(しめかざり)を作るために稲藁を綺麗に選(すぐ)ったら、正月餅をつくためにもち米を研いだとぎ汁を藁にかけて濡らしておきます。

○12月30日
 私の家では昔から特別なことがない限り、餅つきを30日に行なってきました。(9のつく日に正月餅を搗くのは良くないと言われています。)
 前日に研いで水に浸しておいたもち米を、3升入る蒸籠に入れて竃にかけて蒸かします。もち米が良く蒸けたかを確認(私の家では蒸籠から湯気が出るようになってから約50分を目安にしています。)するには、サエはしで蒸籠の中のもち米を刺してみます。そして良くふけているようでしたら、臼にあけて杵で餅を搗きます。
 近年は、餅を食べる量が少なくなったので、3升炊きの蒸籠で蒸して餅を5臼ついて、鏡餅、切り餅、大福餅を作ります。だいたい午後1時頃には終わりますが、昔は朝早くから夕方暗くなるまで15臼以上も搗きました。搗く餅も、もち米の餅、こもち(うるち米粉餅)だけでなく、米粉の中に大豆を入れた豆もち、もろこしもちも作りました。
 豆もちの焼いて食べるカリカリ感、もろこしもちのねっとり感は忘れられないものです。
 私が高校生だったでしょうか、父が冬場だけ土建会社に出稼ぎに行っていましたが、12月30日の餅つきの日にも、仕事が年内に終らないので来てくれと会社から頼まれてしまいました。仕方なく私が一人で餅を搗くこととなりました。夕方になって東松山の叔父が来てくれて、最後の1〜2臼を搗いてくれましたが、ほとんど一人でついて、「良くぞ」と思ったのを覚えています。
 30日は、餅つきとともに注連飾りを作って飾る日です。私の子供の頃は、父を中心に餅を搗き、祖父が氏神様、井戸神様、便所神様、流し神様などに松杭を打って松飾りをしてから、上がり端にござを敷いて、その上で年神様の注連縄と神々に飾る注連飾りを作りました。そして一夜飾りは良くないと言われるので、忙しく年神様に注連縄を飾り、次に家の中の神々、氏神様、上下の井戸、物置、米置場、農耕機、車、便所、竃、風呂、墓場に注連飾りを飾りました。
 昔は、神棚の大神官様、恵比寿様には注連飾りで、注連縄飾りは竃の所だけだったような気もしますが、父が注連縄飾りをだんだんと増やして行って、父から引き継いだときには神棚、床の間、氏神様、竃のところになっていました。

○12月31日
 大晦日です。近年は、良くも悪くも8時前には掃除を切りあげて大晦日の行事を始めますが、昔は忙しかったので家の周りの片づけから家の中の片づけまで大晦日になってしまいました。ですから、片付けの最後となった家の中を片付けている頃には、ラジオから流れるNHKの紅白歌合戦も半ばを過ぎていました。
 大晦日の夕飯は白米のご飯です。家の中の片づけを終え掃除を終えてから、神棚、床の間、氏神様にご飯をお供えしてから夕食となります。
 そして夕食が終わると、年男の父が年神様に供えておいたお払いで家中をお払いし、家の前の道路の片隅に立てました。
 これで新しい年、お正月をお迎えする準備が完了しました。

 ここ数十年の社会環境の変化は著しく、新しい年を迎える準備も価値観も大きく変化してきました。そして、各家庭ごとに引き継がれてきたお正月を迎える準備も、お正月を祝う行事も大きく変わりつつあります。
 我家の行事も、長い歴史の中では、それぞれの時代に対応しつつ変化しつつも引き継がれてきたものと思われます。そして今は、私に引き継がれました。
 これからどうなるか分りませんが、引き継いだ行事を我家の先祖様たちが築き上げた文化とも考え、出来るだけ大事にしてゆきたいと思います。

私の100話 91 洗たく 大塚基氏 2011年

 今では、洗濯機の中に洗濯物を放り込んでスイッチを入れると、昼寝をしていても脱水まではしてくれます。そんな時代だから、干さないで乾燥機の中に洗濯物を放り込んで洗たくは終わりという人もおります。中には乾燥までしてしまう洗濯機もあるそうです。
 まさに子供の頃のことを考えると夢ものがたりです。
 私の子供の頃の選択は手洗いでした。たらいの中に水を入れて、その中に横に波線の入っている洗濯板を入れて、その上に洗濯物を乗せて、その洗濯物に固い固形石鹼をなびり付けてごしごしと洗濯板にこすり付けて洗いました。
 汚れがひどい所は石鹸をつけなおしてごしごしと余計にこすって綺麗にしました。そして、大洗いした洗濯ものは良く絞って、汚れないようにバケツなどに積み上げておきました。
 そして、大洗が終るとたらいの中の水を汲み替えて洗濯物をすすぎます。石鹼の泡が消えて汚れ水が出なくなるまですすぎたいのですが、水が貴重なので前の堀に行ってすすいだり、小さな池である「たにあ」に行ってすすぎました。ですから渇水時期にはたいへんでした。
 今は、紙おむつも紙パンツもあって、赤ちゃんのお尻の世話も衛生的で簡単になりました。大小便の処理も、紙おむつや紙パンツで受け止めて、ぽいとゴミ袋に入れてゴミで出してしまえばいいのです。しかし2〜30年前までは、布おしめ(おむつ)でしたので洗って干しての布がきれるまでの再利用でしたのでたいへんでした。
 それでも、洗濯機が入ってからは、おしめの中のうんちは掻き落として別に捨て、洗濯機の中に放り込めば脱水までしてくれるので干せばいいだけになりました。
 そのまた昔の、私が育った頃までの母親はもっとたいへんでした。子沢山で赤ちゃんのおしめを全部洗わなくてはならないので本当に大変でした。
 それに寝たきりの老人を抱えて、老人のお尻の世話までもするようだともっとたいへんになりました。出てくるものも多いし、おしめも大きくなって、大きいのでおしめ替えもたいへんで洗濯の量も多くなりました。家では洗う水がないので、おしめを入れた駕籠を背負って川や沼へ洗濯に行っているとの話をよく聞いた者です。
 また、洗濯の干し板(巾40cm×長さ2.9m)があって、おばあさんなどは、染めた反物や解いた着物の布地などを洗って貼り付けて干していました。そんな情景もありました。
 それにしても、洗濯一つを考えてみただけでも、ここ数十年ほどで洗濯のやり方が大きく変わったものです。
 昔は、家族が全員で農作業も家のことも頑張らなくては維持できない生活がありました。
 しかし今は、子供の労働力を当てにしなくてもよいほどに、何処の家でも日常生活が機械化されて労働力を必要としない時代となりました。
 でも、それによって家族の絆の深まりが得られたのかは疑問です。

私の100話 90 ガッチャンポンプ 大塚基氏 2011年

 昭和32年(1957)の父の日記帳が見つかりました。その7月15日のところに、ガッチャンポンプが熊谷の笠原ポンプ屋によって備え付けられたことが記されていました。
 井戸の深さ31尺、井戸のパイプ26尺、道中パイプ120尺、そして最後のところに、工事代金20.400円を支払ったこととともに『水かつぎも時代の流れとともに今日を限り也』と書き加えてありました。よほど嬉しかったのでしょう。
 私の子供の頃の思い出には、学校から帰ると家でおじいさんが待っていて、水桶に天秤棒をさして、私が前、おじいさんが後ろを駕籠屋のような格好で担いで、裏の井戸だけでなく渇水期には下の井戸(安藤貞良さんの家に養女に行った人{その後大塚皓介さんの祖父に嫁ぐ}が養女に行く時に持参金の代わりに付けてやった畑の中にある井戸ですが、井戸の権利だけは譲らなかったのだそうです。)まで水を汲みに行きました。竹竿の先に付けているバケツをうまく操ってバケツに水を汲み、そのバケツのついている竹竿を引き上げてバケツの水を水桶の中に入れました。そんな日課がありました。
 また、勝手の水瓶に水がなくなると手桶で水汲みを頼まれて、裏の井戸、下の井戸に水汲みに行くことも度々でした。
 我が大塚家の家屋が裏の畑の所にあった頃にも、下の井戸からの水汲みがあったのだと思いますが、ガッチャンポンプが入る前までのような水汲みは、明治13年(だとおもいます)に今のところに家屋を移してからの曾曾曾おじいさんの代から80年ばかり引き継がれてきた、生活を維持するための仕事でした。
 ですから父も、子供の頃から当然のこととして手伝ってきた仕事だったと思います。だから水汲みの仕事がなくなることに対しては、父も感慨無量になったのだと思います。
 そしてこの日記によって、おじいさんとの水桶担ぎの私の思い出が、私が小学5年生であった昭和32年の7月15日の前のことだったことがわかりました。
 そして、ガッチャンポンプが勝手の流しの水桶があった場所に備え付けられた2日後の17日には、ポンプのまわりがコンクリートによって整備されたことも日記に記されています。
 大雨が続くと、井戸の水位のほうがガッチャンポンプよりも高くなるので、ガッチャンポンプから清水のように水が沸き出てきたのも思い出として残っています。
 ガッチャンポンプによって大きく生活が変ったことを感じました。
 しかし、そのガッチャンポンプはモーターポンプの導入によりその勤めを終えました。
 そして、当所は鮮明な緑色に輝いていたガッチャンポンプも、今は私の思い出として、水汲みから解放してくれた感謝感謝の記念品として、家屋敷地の片隅に茶色にさびついたまま黙ってたっています。

私の100話 89 野山の恵み 大塚基氏 2011年

 私の子供の頃は、山も畑も田んぼも手入れがされていてとてもきれいでした。
 そのまわりの道端も、土手なども、牛の餌や堆肥にするために農家の人が朝草を刈ったのでとてもきれいでした。
 子供は自由に野山を駆け回って遊ぶことが出来ました。学校の登下校も、誰にも監視されずに自由気ままに帰り道を選ぶことが出来ました。
 勉強は学校で先生が教えてくれるので学習塾に行かなくても良い時代でした。ですから子供たちは自然の恵みに接することができて、生活は自然の恵みの中にありました。
 春になって竹の子が生え始めると、しゃぶる時に口の中がざらざらしないように、竹の子の皮の表面のケバケバをズボンなどに擦り付けたりして取り除き、二つ折りにして革の内側に梅干を挟んでしゃぶりました。
 一生懸命に梅干の入った竹の皮をしゃぶると、だんだんと竹の皮が赤くなってきて、梅の酸っぱい味がしてくるのです。だれが考えついて始めたのか知りませんが、なんとも言えないおしゃぶりでした。
 つつじの花が咲き始めると、つつじの花をつんで花の蜜を吸って甘酸っぱい味を楽しみました。花を摘んでビンなどに入れて棒で突いたりして食べたりもしました。
 麦秋の頃になると、桑畑にどどめ(桑の実)が色づき始めます。道端の大きな桑の木には美味しいどどめがいっぱい生っていて学校の行き帰りには子供が群がりました。
 どどめにも違いがあって、濃い紫色をしているのを簸かえり、薄ピンク色のどどめを米どどめと言ったような気がします。どどめは簸かえりが主流で、米どどめは古い品種の桑の木に生りました。古い品種だったので桑葉の収量が少なく、だんだん桑葉の収量が多い改良された桑に植え替えてしまったのでしょう。家には長峰沢の畑のほんの一部にしか植えてありませんでした。
 でもさっぱりとした味で美味しかったので、どどめの取れる頃になると、桑きりの手伝いに行ったときなどには必ず其処の所に行って米どどめを探しました。
 簸かえりどどめでも、桑畑の土手に植えてあった大きな葉で大きな木になる『ろそう』と言う桑の木には、普通のどどめより一回りも大きな実がなったような気がします。
 麦わらで麦籠を編み、どどめをとりに行くこともありました。
 どどめの最盛期を迎える頃になると、山では山グミが真っ赤に熟れ始めます。学校帰りなどに山道に寄り道して楽しみました。
 道端や畑の土手などに生えている真っ赤に熟れた野いちごの実も楽しみの一つでした。
 夏を過ぎる頃には、土手に張り付くように生えているしどめ〔地方によっては、草ボケ、シドミなどとも言う〕の木の実が黄色く色づいてきて食べ頃になってきます。と言っても、しどめの実は黄色くなっても渋いというか、酸っぱいと言うか、顔をしかめながらの食べ物です。それでもしどめを見つけるとついつい食べたくなっておもいきりしかめっ面にして食べました。
 10月に入る頃になると、山栗が生り始めます。足でイガを割って実を取り出し、歯で栗の実の皮をむき、渋をとって食べました。
 運動会に茹でて持っていくために、山栗を山にとりに行ったこともありました。
 また山には小さくて丸い山柿もありました。
 春にはちたけ、秋には初茸を中心にいろいろなキノコも山に生えました。
 今では山は荒廃し、農地も畑を中心に荒廃化が始まり、昔はたわわに実っていた野山も恵みも激減したような気がします。そして今の子供たちを見るに付け、登下校の道草もなくなったようですし、家ではゲームや塾に忙しくて、野山で遊ぶ雰囲気がなくなったような気がします。外で遊ぶ姿もなくなりました。
 でも、私が味わってきた野山の恵みを、今の子供達も必要なのではないかと思います。

私の100話 88 春蝉(松蝉) 大塚基氏 2011年

 春になり、野山を彩った桜の花も散って山々が新緑に包まれて初夏の日差しが目にしみる季節になると、松の木で覆われた山が一体となって一斉に唸り声を発しているかのようなジージーともギャーキュギャーキュとも聞こえる春蝉の鳴声に包まれます。
 嵐山町の総面積は2985haです。そしてその三分の一の1000haほどが山林です。昭和47年(1972)3月調べでは嵐山町の山林のほぼ半分にあたる419haが純粋な松の木の山で、その他の山林もほとんどが松の木の混ざる複層林でした。
 ですから春蝉が鳴き出す頃に一歩松林の中に足を踏み入れると、春蝉の耳を劈くほどの大きな鳴声が聞こえてきました。子供の頃、学校帰りなどでそんな春蝉の鳴声が聞こえてくると、いよいよ夏本番がやってくるんだなあと思ったものです。
 辞書などで調べてみると、春蝉はヒグラシのような透明な翅をもった2〜3cmほどの小さな蝉とのことです。しかし、松の木の高いところに生息しているので滅多にその正体が気づかれることもなかったので、松の葉を食い荒らす松げんむ(松に居るけんむし)が鳴くのだとの話がもっともらしく語られていました。
 それにしても、子供の頃から初夏の暑い日を一層にあつくさせるジージーギャーキュギャーキュと鳴く春蝉も、嵐山町の嵐山郷で昭和51年(1976)に初めて確認された松くい虫(まだらかみきりによって運ばれるマツノザイセンチュウによって松の細胞を食い荒らす)によって、嵐山町のほとんどの松の木が昭和60年代までの約15年間程で食い尽くされ、松の木が枯れてしまったために松の木とともに死に絶えてしまったのか、それとも何処かへ逃げて行ってしまったのか、春蝉の鳴声を聞くことができなくなってしまいました。非常に寂しい限りです。
 でももう一度、暑い夏へのステップとして激しく大声で鳴いている春蝉の鳴声をもう一度聞きたいものです。と言うこととともに今の子供たちにも夏への足音として聞かせたいものです。

私の100話 87 焼き餅 大塚基氏 2011年

 私のおふくろの味に焼き餅がありました。
 私の子供の頃は、自給自足の生活のようなものだったので、食べ物は自分の家で収穫したものがほとんどでした。
 おやつの時間なんて、そんな言葉すら知らないで育ちましたが、農作業のお茶休みの時などに母は時々焼き餅を作りました。小麦粉の中に水など(卵でも入れば最上級)を入れて溶かして煉って俸禄の上などにのせて焼くのです。
 麦ご飯(私の子供の頃は米と麦の混ざったご飯を食べていました。)が食べ残ったときは、麦ご飯に小麦粉をいれて煉って焼き餅を作りました。お皿の上に砂糖を入れて、醤油でまぶした砂糖醤油を付けて食べました。飛び上がるほどの美味しさとまでは言えないまでも、何もなかった時代の食べ物としては楽しみの食べ物でした。
 また母は、麦ご飯を小麦粉でまぶして小判のように握り、うでたり蒸かしたりした餡この入っていない蒸かし饅頭のようなものを作りました。何と言ったのかは忘れましたが、焼いたのと煮たのとの違いだけでした。
 お茶休みに茶菓子をお店から買ってきて食べる習慣がなかった時代には、お茶休みなどに出てくる焼き餅は本当に楽しみなものでした。今でも懐かしいお袋の味です。
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