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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

嵐山町誌

村の地名 村々の地名 根岸村(『嵐山町誌』604頁〜605頁)

  ▽根岸村
 根岸という地形の特長と名前の由来はすでにのべた。そして大蔵郷に属すとあるので、「大蔵館」の根岸であったかもしれないと想像したが、大蔵村と根岸村の関係では、観音様が安養寺の支配であり、村の鎮守神明社、三宝荒神社が安養寺持となっているから、両村の関係は深いと考えられる。安養寺は大蔵村鎮守山王社の別当をつとめている。いづれにせよこの村が古い開発の地であったことは、字名に我妻山、シトメ山、傾城谷等、昔の人達の意識や生活に結びついていると思われる名前があり、又都幾川の古い流路が残っていて、そこには皿淵・女淵・袈裟王淵などいう伝説めいた地名の場所があることなどから、推しはかることが出来る。
 我妻山(あづまやま) 吾妻山山とも書き、前山ともいう。東北の二方は都幾川に向い、東南は神戸村の鞍掛山に連り、西は将軍沢村の耕地を一望し、北の一部は村内の水田、人家を見下ろしている。頂上に吾妻神社がある。祭神は日本武尊であるから、吾妻山の名は、日本武尊の「吾嬬者耶(あづまはや)」の伝説から出たものであることは明らかである。
 道潅(どうかん) 松山県道の両側字道上の一部である。珍しい名前である。地元の古老に尋ねたが不明である。道潅といえば、すぐに太田道潅に結びつけたいところであるが、これは無理だろう。地名辞書によると「どうかん」と呼ぶ地名には、東京日暮里に「道閑山」とあるだけである。この道閑山も太田道潅に結びつけて、道潅のつくった城のあとだという説がある。然し新編武蔵風土記稿ではこれを否定して、「大道寺幽山の落穂集追加に、ここは関道閑という人の屋敷蹟であるということを、北条安房守*が聞伝えていた。又谷中の感応寺と根岸村の善性寺は関小次郎長耀入道道閑の開基であって、この人がこの辺を領していたというから、道閑山は関道閑**の住居蹟であることは明らかである。太田道潅が有名なので、近郷、ややもすれば、彼が事蹟に付会するのみ」***といっている。有名な道潅山(道閑山)でもこのとおりであるから、根岸村と太田道潅は縁がないようである。観音堂などと結びつけたい地名であるが、その手がかりが得られない。関道閑に関して同じ名の根岸村が出ているのは奇しき一致である。

*北条安房守氏長(1609-1670)。後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本でオランダ築城法、攻城法、地図学なども学んでいた。地図作製当時は幕府大目付を勤めている。

**関道閑は、江戸付近の土豪。日暮里付近の「道灌山」という地名の由来は太田道灌と関道閑の両説がある。

***『落穂集』は江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐(1639-1730)の1727年(享保12)の著作。徳川家康の出生から大坂夏の陣まで編年体にまとめたものと、家康の関東入国以後江戸時代初期の政治、経済、社会、文化等の各分野のおこりを随筆風に記録し、落穂選集といわれるものがある。

 道灌山之事
問云、今時本郷駒込之末に道灌山と申明候有之候、是も太田道灌斎江戸の城居住之節山居なども有之候哉其元にハ如何被聞及候哉、答て云、我等なども左様に斗相心得罷有候所に右江戸大絵図出来献上之前に至り、何れも致拝見候処へ岩城伊予守殿にも御出、江戸御城之噂など有之、伊予守殿久嶋伝兵衛に御尋候は、本郷の末に道かん山と申て有之候、太田道灌屋敷の跡にても有之候哉と尋給ひ候を以、側にて安房守殿御聞あられ、伊予守殿へ御申被成候は、あの道かん山と申ハ関道灌と申たる者の居申たる屋敷跡にて太田道灌とハ違ひ候と御申ニ付、其子細を承度候得共、岩城殿と安房守殿と対談の義故無其儀(そのぎなく)打過、三十年斗以前我等用事有之、毎度彼辺へ罷越ニ付在所之年寄たる者共に出合相尋候へ共、関道灌と申人の名を承りたる義も無之由申候也

村の地名 特殊な地名 根岸・ねがらみ(『嵐山町誌』546頁〜548頁)

  ▽根岸・ねがらみ
 館や城に関係して出来た地名に、根岸、ねがらみ、根古屋、寄居、山下(さんげ)などがある。本町では根岸村と杉山村のねがらみの二つがこの例にあたる。
 根岸村の本来の意味は「山の根岸の義なるべし」といわれている。根岸と呼ぶ地は大体この地形に一致している。岸というのはもと水際のことである。それが丘の麓まで根岸といって岸が転用されたということは、この土地が比較的新しい開発で、その名が各地に流用し通用したものであることを示している。
 つまり人口の増加につれて、谷田のせまい水田では米の生産が不足して来る。そこで麓の沼地や低湿地の泥の溜まって水の退いたところに畔を作って、苗をしつけるようになる。根岸、つまり山の根はそこに家を作りそのような新田を作るのに便利なところであった。そこで誰かが言い出したのであろうが、これがもとで同じような地形で同じような開発をして住みついた人たちがだんだんこれを根岸と呼ぶようになった。そして根岸は一般に通用する地名となったのである。このような根岸が一方に存すると共に、もう一つの根岸が現われた。前述のように荘園が分裂して多くの「小名」が、各自、館を構えて、兵農の根拠とした。その時、その保護の下にある家来や百姓の住んでいたところを又根岸というようになった。館や城は防備の用にも供するものであるから、地形としては土地が高燥で生活に適し、従って展望も開け、前面に平地水田を有し、後方は山に続くという条件の地が一番よい。出来れば先ずこのような地が選ばれたのであろうから、根岸はその地形の一部分になっているわけである。だから館や城の根際となる性格を充分にもっていた。それで根古屋などと同じよ[う]に城下の村であるという観念に固って来たのであろう。「ねがらみ」も又岡の麓にある民家の地であろうといわれている。岡に沿うことをカラム、カラマクといった。越畑の「軽巻」はこのカラマクの転化であろう。城の二つの入口を大手、搦手という。搦手は険阻な山城の裏手から崖を斜めに下る出路である。根搦(ねがらみ)へ下りていくから搦手というのである。
 そこで根岸村は、武士の館に関係あったかどうか。館の跡はない。然し「風土記稿」には或書に書いて、従って根拠はハッキリしないが「熊谷直実の子孫で、佐渡俊直という人が、根岸村に住して、松山城主の上田安独斎に属し……」とあるから、この佐渡俊直の館の周辺の地であったため、根岸と呼ばれたか、或は又、「沿革」には、大蔵郷に属すとあるから、例の「大蔵館」の根岸の地であったかも知れないとう想像が出てくる然し推測の範囲を出ない。
 「ねがらみ」となると、確実に杉山城の「ねがらみ」であって、城山の麓の民家の地を一時このように呼んだ時代があると考えられる。根岸村と吉田村に「山下」という字名がある。根古屋や寄居によく似た城下の地域を「サンゲ」という地方がある。城山の下という意味である。山下と書くがサンゲと読んでいる。本町の山下もサンゲではないかと一応、村人に訊してみたが、そのような呼び方はしないという。山下(さんげ)は読みにくいので、いつの間にか、山下(やました)と変ったものとも思われないことはない。
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